其の拾弐
果たして道場への不審者侵入事件は、千代女さまと小比奈の活躍により一人の怪我人も出すことなく、一件落着を迎えました。
侵入者(被害者)である鎌瀬鎌之助はというと、その事件の翌日。侍女巫女三人のおかげで、可哀想にまるで廃人のようになってしまっていました。千代女さまは鎌之助から情報を絞り取ろうと目論んでいたみたいですが、自我崩壊した鎌次郎から聞き出せるはずもなく。
あてが外れた千代女さまは、「ここに居られても邪魔で仕方ありませんから、おいきなさいな」と、鎌之助を野に放ちました。その際に、「あの者を生かしておけばよかったでしょうか」と、小さくつぶやいたのをわたしは聞きます。
ん、と小首をかしげ、そのつぶやきの意図を探りましたが、結局わからないまま終わってしまいました。あれから鎌之助がどうなったのか、千代女さまの言葉の真意も、今となっては知る由もありません。
そんな事件から、もう二週が過ぎようとしています。
正月を迎え、お餅を食べながら、食っちゃ寝を繰り返す――まるで絵に画いたような堕落した素敵な日々を、わたしは悠々と過ごしていました。
こんな姿を千代女さまに見られようものなら、それこそ大目玉を食らうこと必至ではありますが……。
「……ふふ、ふふふふ……」
その心配には及ばぬというもの。
なぜなら、いまやわたしはこの道場の主。
そう――つまりここは、わたし、止水氷月の天下ということです。
ふははは、お茶が足らんぞ、お団子も足らんぞ。
余は高級茶菓子を所望しておる。早々に持ってこい。
冬は寒いので春にいたせ! 余は塩っ辛いのは嫌いじゃ、甘いものを大量に納めろ!
武士は刀など捨てろ! 皆、鍬を持て! 小豆は全て余のものじゃ!
なに謀反とな? ええい、引っ捉えて畑へ送れい!
ふはは、これぞ我が天下!
これぞ我が覇道!
ふはは、ふはははは――
……はい、調子に乗っています。すいません。
わけを話しますと、千代女さまが御屋形さま(勝頼さま)に呼ばれて、侍女の佳代と小袖を引き連れ、新都に向かわれたのが正月元旦。
その際にわたしは千代女さま直々に道場の留守を頼まれ――そして、天下がやってきた、というわけであります。
ですので、いまやここはわたしのお城(道場)。
そしてわたしは城主(お留守番)。
わたしに逆らう者などいません。
「……ふふふ、これぞ役得というもの。ふふふ、にやけが止まりませんなあ」
わたしが不敵な笑みをこぼす奥で、後輩巫女たちの掛け声が聞こえてきました。後輩巫女たちは健気にもお正月だというのに朝から修練に励んでいます。
千代女さまがいないときくらい、ゆっくり休めばいいのに……と、わたしがそう言っても、彼女たちは勤めを果たすように、黙々と修行に励んでいました。千代女さまへの忠義たるや、たとえ一時でもそれに背かない心は見事の一言です。
わたしや小比奈はすでに一連の修練は終えて、歩き巫女として諸国をまわっていますので、その辺りは免除といったところでしょうか。
もちろん、わたしたちも厳しい修行に耐え抜きました。
だからいまこうしてお餅を頬張っているわけなのです。
この《甲斐信濃二国巫女道修練道場》では全国から戦孤児、それも容姿の良い女性ばかりを集めています。
親を亡くし、行くあてもなく彷徨う子供はこの乱世には珍しくもありません。
わたしも小比奈も、この道場にいるほとんどの者がそうであるように、千代女さまは命の恩人であり、そして母親でもあります。
恩を返そうと、日々わたしたちが巫女として修行を積んでいる理由もそこです。
しかし、巫女とはいっても、それは表向きで。
実際には巫女というよりは、忍びに近いかもしれません。
事実、この道場で習うことは巫女の基本である呪術や祈祷の他に、忍術、護身術、天文、暦に、陰陽道、舞、唄、楽器、他にも話術や各地の方言などなど。さらには女を武器にする色仕掛けの技法まで教わります。そうして育て上げられた巫女は、全国各所に送り込まれまれる――その目的とは。
つまりは情報です。
わたしたち巫女は関所で止められること無く、諸国を自由に渡れます。怪しまれることもありません。各国で巡礼しながら、情報を集め、それを報告する――これがわたしたちの役目。
いわゆる武田情報網の中核をわたしたちは担っているわけですね!(得意気)
これは前御屋形さまである信玄さまが考案なされ、それを千代女さまに任されたと聞きます。
甲斐の虎は雄々しく、そして賢いのです。
「小比奈ー」
「はい、止水さま」
「ぜんざいを、入れてきてはくれませんか?」
「……またですか」
囲炉裏を前に、わたしは畳に寝そべりながら、隣に座る小比奈にお願いしました。
逆側には空いたお茶碗が積まれ、山のようになっています。
小比奈は呆れた様子でわたしを見、わざとらしく盛大にため息を漏らしました。
……年明け早々、鬱屈そうな顔。
「いいじゃないですか。お正月なんですし、たまには」
「もう正月から二週近く過ぎていますが……、明後日は小正月ですよ?」
小正月とは、一月一日を中心とする大正月に対して、一月の満月の夜を一年の始まりとする暦法です。
だいたい一月の十五日くらいですかね。
「では、まだ年も明けていない、ということですか。小比奈、この際おそばでもいいので作ってください」
「またそんな屁理屈を……もう八杯目じゃないですか。太りますよ?」
「わたし、太らない体質なので」
「む、止水さま。その発言は不特定多数の女子を敵に回します」
小比奈はふくれながら、まるで敵を見るような剣呑な眼でわたしを見ます。
別段あなただって太っているわけでもないでしょうに。
なにより、肥えていることは豊かさの証。悪いことなんてないと、わたしは思いますけどねえ……。
「どうせ春を迎えればまた任務を任され、どうせまた旅に出るはめになるのですから。今のうちに蓄えておかないと、つらーいながーい旅路はもちません」
ぷくーっとふくれた小比奈の頬をつぶしながら、からかうように言いました。
「……もう。千代女さまがいないからって……明後日には神楽を舞わられるというのに」
「その心配にはおよびません。わたしの芸の才は小比奈も承知のことでしょう? それより、あなたの主君はお腹を空かせて嘆いていますよ? 正月にぜんざいも食べられないなんて……およよ、なんと可哀想なわたし……」
撫でるような姿勢に、お口には裾を。
うるると目を潤ませて、しおらしい視線を小比奈へと。
「…………」
山のように積まれたお茶碗が、からんと音を立てます。
小比奈はついに諦めたか、何度目かのため息をついて台所のほうへと向かいました。
そんな小比奈を尻目に置くこともなく、わたしはごろんと寝返りをうち、猫のように座布団に顔を押し付けました。
だらしなく力を抜くと、囲炉裏の温かさにとろけてしまいそうな……。
ああ、ぬくぬく。極楽です。
このまま溶けてしまってもいいや、などと思っていると、床伝いに、どたどたと急ぐ足音が聞こえました。
「……んや?」
それはだんだんと近づいてきます。
何事かと、また寝返りをうち、起き上がることなく音のほうへと身体を向かわせると、ぴしゃっと勢いよく部屋の戸が開きました。
「――止水さまっ!」
現れたのは千代女さまの侍女、紗綾です。
唯一、彼女だけが千代女さまの侍女の中で道場に残りました。
千代女さまに習ってか凛とした格好。しかし、幼さ残る顔立ちが邪魔をして、残念ながら馬子にも衣装といった印象を受けます。
侍女三人の中では最年長の紗綾は、皆をまとめるしっかり者なのです……が、周りに流されやすく、いったん一つのことに集中すると視野が一気に狭まって、周りがまったく見えなくなるのがたまに傷です。
「どうしました、そんなに慌てて……あれ? 紗綾、なんか涙ぐんでませんか?」
「あ、いや、これは……なんでもありません」
「はあ」
紗綾はあきらかに目を腫らしていました。声もどこか鼻声です。
気になるところではありますが……本人がそう言うのであれば、つつかないのが優しさでしょう。
「そんなことより、止水さまが助けたあの男が目を覚ましました!」
「なんと!」
わたしはむくりと起き上がり、男のいる部屋に向かおうとします。
が、鼻孔を撫でる甘い香りに釣られ、わたしの首は意思とは違う方向に曲がりました。
「止水さま、ぜんざいのおかわりを――」
「わあっ! ありがとう小比奈」
「……む、紗綾。どうしたのだ? そんな息をあげて」
わたしは小比奈から茶碗を受け取り、あつあつのぜんざいを頬張りました。
んー、とろけるような小豆の甘さ、広がる芳醇な香り。しっかりした甘みは幸せの余韻だけを残し、あっさりとした食感、すっきりした口通りでまた次の一口を楽しめる。
これを美味と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
「えへ、幸せ」
わたしの口内にまた春が訪れます。
「ちょ、止水さま。そんなもの食べている場合では……」
「――そ、そんなものっ!? そんなもの、とは……聞き捨てならない台詞ですね。……紗綾、食べなさい。そしてその愚かで浅ましい考えを改めなさい!」
食い改めなさい、と。
「えっ、いいのですか?」
「いいのです! これは城主命令です!」
「……じょ、城主?」
わたしは紗綾を呼びつけ、囲炉裏の前に座らせました。
また小比奈にぜんざいのおかわりをお願いし、紗綾の分も持ってきてもらいます。
「どうぞ、止水さま」
わたしは小比奈から十杯目のぜんざいを受け取ります。
「はい、紗綾」
紗綾も小比奈からぜんざいを受け取りました。
涙の理由は知りませんが、そんなものは美味しいものを食べて吹き飛ばしてしまえばいいのです。
「そしてこれは小比奈の分っと」
なんだかんだ、自分の分も持ってくる小比奈。
ちなみに、小比奈もわたしと同じく十杯目。太りますよ、とはどの口が言ったのやら。
「さあ、紗綾。御賞味あそばせ」
「はい!」
自然と、わたしたちは手を合わせ、
「いただきます!」
と、一斉にぜんざいにむしゃぶりつきました。
見よ、見よ、あの小比奈の悦楽に浸る顔を。至福極まり涙する紗綾を。
心なしか二人の背景に花が咲き、きらきらと光舞う桃源郷を歩いているような、そんな錯覚さえ覚えます。
わたしは確信しました。
この乱世を静めるは大名にあらず――
この世を納めるは人にあらず――
ぜんざいこそが――世を救う――と。