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戦国おとぎ語り  作者: 独楽
序 蒼眼の月
12/48

其の拾壱


 巫女道修練道場から西に一キロ。

 辺りに並ぶ二、三本の雪のかぶった針葉樹。そのうちの一本、太い木の枝から巫女道場を見る一対の眼があった。その眼の持ち主、男の名を鎌瀬鎌次郎という。先ほど望月千代女、止水氷月、小比奈と戦い、そして敗れた鎌瀬鎌之助の属する伊賀忍者――鎌瀬精鋭十人衆のうちの一人だ。

 手で丸を作り、そこから覗き見た光景に鎌次郎は驚愕していた。


「まさか、兄さまがやられるとは……」


 ぼそっとつぶやく。

 その声は震えていた。

 鎌瀬家次期党首であり、鎌次郎の兄でもある鎌之助が、突然現れた白い着物をまとった女にあっさりとやられるのをその目で見ていたからである。

 得体の知れない“なにか”にやぶれ、次第に動かなくなる兄を見て、鎌次郎は恐怖した。そして、その恐怖を埋め尽くすほどの怒りが、胸の内から込み上げてくるのを感じた。

 鎌次郎は、幼い頃から兄である鎌之助を慕っていた。

 里では共に血と汗を流し、地獄のような修行に耐えてきた。数えきれないほどの死線をくぐり抜け、ともに使命を果たしてきた。その兄を見捨てる訳にはいかない――いくはずもない。

 そう決意した鎌次郎は、その白い着物をまとった女を凝視する。

 歳の頃は三十くらいだろうか……いや、物静かな雰囲気がそう見えさせるだけで実際にはもっと若いかもしれない。面持ちは感情を見せないようにか、常に笑顔でつくろっている。さらめ雪のような白い肌、それに相反するように後ろ頭で束ねた長い漆黒の黒髪。

 妖艶艶美――魔性とでもいうべきか。

 この女に迫られ、拒める男もそうはいないだろう。


「俺も含めて……」


 と、不意に漏らした、漏らしてしまった自身の言葉にすぐに鎌次郎は首を振る。そして、ほんの数秒前まで自分はその感情を復讐に染めていたはずだったこと、それをいとも簡単に忘れてしまっていた自分を叱咤した。

 絶世の美女。

 極限までその身体と心を鍛えた忍びが、一瞬でも我を忘れるほどの、それほどの美女。それが男にとってどれほどの脅威になるか、想像するに難くない。

 千代女を食い入るように見ていると、ふと、目があった。

 鎌次郎はぎょっとし、思わず雪の被った枝に身を隠す。その女の顔からは笑顔が消え、何も感じない、何も感じ取らせない無表情で、鎌次郎のほうを見ていた。

 ――気取られたッ!? 馬鹿な! この闇の中、この距離で勘付かれるなど有り得ない!

 これほど離れた場所から気配を察するなど、梟ならともかく、それこそ野生の獣ですら難しい。しかも鎌次郎は忍びだ。意識しなくとも気配は消している。

 ……いや、待て。しかし待て。考えてもみろ。あの道場からこの杉の木まで、ゆうに一キロは離れている。しかも、ましてや今は夜。夜目が効くにしても、熟練した忍びでも到底見えるはずもない距離だ。

 そう思いつつも、鎌次郎の脳裏に不安がよぎる。

 あの道場は何かがおかしい……さっきの小さい娘だってそうだ。戦いにおいて、忍びと同等以上に渡り合える巫女など、見たこともなければ聞いたこともない。相手を封殺する術などなおさらだ。

 ……念のため、この場を離れておこうか。しかし、兄の仇は必ず……。

 鎌之助はそう思い、木から飛び降りる。

 音もなく雪の上に降り立ち、周囲を見回すと北へと駆け出した。

 田道を進み、山へと向かう。風のように岩の連なった間の小路を通り抜け、山の端を沿うように走り、杉の生い茂った樹林へと入った。

 そしてすぐに鎌次郎は足を止める。

 ――否。

 止めざるを得なかった。

 行く手を阻むように、目の前にいることなどあり得ないものが、ゆらりとそこに立っていたからだ。


「――おやおや。こんなところにも、伊賀猿が一匹」


 その艶やかな声は、鎌次郎を戦慄させるには十分過ぎた。

 未だかつてない恐怖が鎌次郎を襲う。

 そこにいるはずのない者――つまりは、望月千代女が鎌次郎の行く手を阻んでいたのだ。鎌次郎は全身から汗が噴き出、喉元に鎌を掛けられているような気味の悪さを感じる。

 ――さっきまであの道場にいたはずの女が、なぜここにいるッ!?

 鎌次郎は震える唇を抑え、言う。


「……き、貴様……何者だ?」

「さあ? 猿に語る名など、持ち合わせてはおりませぬゆえ」


 ぎりっと歯を鳴らし、鎌次郎は腰刀の柄に手を掛けた。

 直視することすら危ういとも思える美貌を備えた女。

 なぜだろうか? 敵から目を逸らさないのは至極当然、当たり前とも言えるが――それとは違う理由でこの女から、その仕草から視線を外せない。まるで魅了されていくような、そんな感覚を覚える。

 ……やはりこの女、危険だ。

 ……ここで殺す。殺しておかねばならない。

 そう判断してからの鎌次郎の行動は早かった。

 見たところこの女は丸腰。その着物に暗器を仕込んでいるとも思えない。距離も鎌次郎の間合いに入っている。その細首を掻き切るのに一秒もかからないだろう。

 即座に鎌次郎は切りかかる――が、その刃は虚しく、空を薙ぐ。

 間違いなくその首を落としたと思ったのだが、まるで幻のように、最初からそこにいなかったかのように、千代女の姿は消えた。

 忽然と消えていた。


「……なっ!?」


 鎌次郎は辺りを見回す――だが、周囲には誰もいない。

 気配も――ない――

 ――なんだというのだあの女は! あやかしの類か!?

 ふと、宙を舞う紙切れが鎌次郎の目に止まる。


「……これは」


 形代か?

 人を模った小さな紙が二つに割れて、はらりはらりと地へ落ちた。直後、鎌之助の後ろ首に鋭い痛みが走る――かんざしが差し込まれたのだ。千代女の所業だ。

 鎌次郎は先の道場で悶えながらやられた兄のように、硬直し、握っていた刀を力なく雪の上へと落とした。


「うっ……ぐ……ッ!」


 鳥も眠る、しんと静まり返った林に悲痛なうめき声が響き渡る。

 甘い女の香りが鼻孔をくすぐり、背後からゆっくりと回り込むように、鎌次郎の視界に千代女が映り込んだ。


「……さて、あなたには少しだけ教えて欲しいことがあります」


 千代女は、まるで親しい間柄の人間と話すような口調で話す。

 それは不気味なほど優しく、鎌次郎には凍えるほどこれっぽっちの感情もこもっていないように聞こえた。


「いま道場で預かっている男――名を将監しょうげんと言いましたか。あの男は伊賀の忍びではありませんね? 金さえ積めば動く貴方たちのことですから――おおかた、貴方たちの雇い主といったところでしょうか」


 鎌次郎は千代女をにらみ、押し黙る。 


「それも織田直下の忍び……“ヒキ猿”と私はみましたが……どうなのでしょう? 織田と伊賀とは長きに渡り戦を交え、間違っても使われるような関係を望まぬはずでは?」


 千代女は鎌次郎の目を冷やかに見返す。

 黒真珠のような髪をくるくると弄びながら、続ける。 


「しかし、現に貴方たちはあのヒキ猿に使われている――私にはそれがわからないのです。伊賀衆は金で動きはしますが、その結束は固く、裏切りを決して許さない。ましてや、仲間を殺した織田の忍びに雇い入れられるなど、決してあり得ない」


 千代女は妖艶に優しくなでるように、鎌次郎の顔に左手をかけた。

 右手は人差し指を鎖骨から首、顎へと、つつっと這わせる。 


「男の素性を知らなかった――などとは、言いませんよね。伊賀の乱の後、織田軍に下った伊賀猿はごく少数、名のある家は下を引き連れほとんどは各地に拡散し、虎視眈眈と織田の首を掻っ裂こうと目論んでいる……と、私は思っていたのですが。なぜ織田の忍びの肩入れをしているのか? その理由を、教えてはくれませんか?」


 千代女は悪戯に首をかしげ、問う。

 その考えは当たらずも遠からず。現に生き残った伊賀の名家、党首、後取りは隠れ里に身を隠し、すでに富国強兵と取りかかっている。

 しかし、千代女は知らない。

 伊賀の忍びの性質を、実態を。極限にまで膨れ上がった憎悪はひとつの意思となり、それは目的の為に誇りを、国を、一族をも簡単に捨てることを。そして、これから千代女は致命的な間違いを犯す。それが戦国最強とまで謳われた武田家――それの崩壊へと導くなど、想像出来るはずもない。

 武田崩壊の序章はすでに水面下で始まっていた。

 眼前にある小さな綻び――それを千代女は見逃すことなく、鎌次郎らが信州に来た理由をここで聞き出せていればあるいは、武田が存続する未来もあったであろうに。


「……そう怯えないでください。私はただ問うておるだけです。……けれど、応えてくれぬのならば……やはり仕方のないこと」


 誘うように撫でる千代女の指が、鎌次郎の頬をつたい、そして離れる。

 それはゆっくりと、鎌次郎の顔の前に運ばれ、開いた。まるで刃を向けるように――その眼球に、爪が当たらんとする距離で。


「応えるなら瞬きを二つ。それ以外は死と思え」


 唐突に、凄んだ口調で千代女は言い放つ。

 その気迫に押されて、鎌次郎は唯々諾々と瞬きを二回してしまう。


「――良かった。では」


 そう言って、千代女は鎌次郎の首からかんざしを引き抜く。

 血飛沫が舞い、雪を赤に染めた。

 鎌次郎は首筋に温かいものを感じた。


「さあ、教えてください。あと、無駄な抵抗はなさらないでくださいね。服が汚れてしまうのは嫌ですので」


 ……人の感情を逆撫でるのが上手い女だ。

 鎌次郎は顔を歪め、湧き上がる感情に任せるがまま、この女を切り殺してやろうと考えた。

 しかし、動かない。

 かんざしが差し込まれた姿勢のまま、腕どころか、指一本すらもまともに動かせない。まるで自分の首を岩に取って付けたかのように、首から下が一切動かせないのだ。かんざしに毒でも塗っていたのか――それとも千代女の、兄鎌之助を制したあの術なのか――鎌次郎には分かるはずもない。


「……き、木曾……義昌に……」


 千代女の目が細まった。

 同時に、鎌次郎は心の底から震えあがる思いをした。

 ――待て、俺は何を口走ろうとしているッ!? 言われるまま、それを口にする忍びがどこにいるというのだっ!

 口を割らないため、拷問に耐えることは忍びにとって初歩の初歩。鎌次郎も拷問に耐える訓練は、それこそ嫌というほど受けてきたし、その精神も培ってきた。口を割るということは、忍びにとってあり得ないことだ。例え文字通り口が裂かれようとも――結果、死んでしまおうとも。

 それよりも鎌次郎は、まだ拷問すらされてもいないのに、諭されるままそれを口走ろうとした自分になにより驚いた。これは千代女の能力ともいえるものなのだが――しかし、鎌次郎がそれを知ることは未来永劫ない。ほどなく、千代女によって殺されてしまうのは当然、鎌次郎も察しているだろう。


「……木曾殿? 木曾殿に、なんですか? 応えなさい」

「な……」

「な?」

「……な、仲間の……情報を売る口など、持ち合わせては、おらん……」 


 殺せ――と。

 うなだれるような姿勢のまま、鎌次郎はそう答えた。

 千代女は三日月のように目を細めると、にやりと口元を吊り上げ、


「ふ、ふふ……ふふふふ……」


 微笑。

 否、それを“笑み”と呼んでいいものだろうか。

 例えるなら地獄の釜か――すべてを飲み込む奈落の底。限りなく邪悪で危険なそれは、およそ人が持つ“笑み”とは程遠いものに見える。

 そして笑い声は次第に大きくなり、哄笑となった。

 哄笑。

 これほど千代女に相応しくない言葉もないだろう。

 空中をこだましながら揺れ動く笑い声。きっとこれは偽りを塗りたくった無表情、無感情の仮面の裏側――この女の本性なのだろうな、と鎌次郎は思った。


「あははは! なかなかどうして、しょせん猿といえど、腐っても忍びということでしょうか」


 鎌次郎はその口を割らなかった。

 千代女も執拗に拷問する気も毛頭なかった。

 忍者を拷問することなんて、ただの時間の無駄にしかならない。そのことを、千代女はもちろん知っている。

 結果として、それが鎌次郎にとって幸いしたことになる……まあ、幸いとはいっても、どのみち鎌次郎はほどなく死ぬ運命にあるのだが……それを幸いと言っていいものかどうか。

 ともあれ。

 それは千代女とって――さらに言えば武田家にとって、全く真逆のことなのは間違いない。


「貴方の心意気に免じて、楽に逝かせてあげましょう――最後に、残す言葉はありますか?」


 再度、鎌次郎は千代女をにらむ。


「……お前はいったい……」


 ゆるんだ千代女の口元がかすかに動いた。が、しかし、それは言葉にはならなかった。

 そして、その顔を悪魔の形相から、やわらかい笑顔へと作り直し、


「ただの亡霊ですよ。主君を亡くし、彷徨う――そう、ただの亡霊――」


 誰に言うでもなく、そう溢す。

 果たしてそれは鎌次郎に言ったものだったのだろうか……それとも……。

 千代女は鎌次郎の額当てをそっと上にずらす。

 一呼吸置いて、その右手にあるかんざしの先を鎌次郎の眉間に当てた。


「おしゃべりが過ぎましたね、そろそろ幕引きとしましょうか。それでは――」


 鎌次郎は小さく冷たい感触を感じ、すっと目を閉じる。

 そして、心の中で兄に詫びた。


「――さようなら」



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