其の玖
「返すもなにも、あの方が怪我を負っているのは貴方も承知なのでしょう? 仲間を思うのであれば、ここでしばらく休ませたほうが――」
「その心配には及ばぬ、あれは斬っても死なん。それに、我らにはこのようなところで油を売っている暇もない」
……斬っても死なない?
それほどの手練であるという比喩でしょうか?
にしては例えが具体的過ぎるような……。いやしかし、実際にあの男は刀傷を負って死にかけていたのですから、そうなのでしょう。
どうやら、この鎌瀬鎌之助は、あの峠で倒れていた男に多大なる信頼を置いているようです。それが信用かどうかは定かではありませんが。
「無礼な口を利くな男め! かませ太郎だか次郎だかは知らんが、止水さまの厚意を踏みにじるのであれば許さんぞ! なにより、ここはお前のような者が足を踏み入れていい場所ではない! 早々に死ぬか消え失せろっ!」
小比奈は敵意まるだしで言いました。
「……む……いいのか?」
「なにがだ!?」
「いま、失せろと言ったではないか」
「……………………」
少し待て、と。
そして小比奈は小声で、
「し、止水さま、どうしますか? 帰しますか? それとも引っ捉えましょうか?」
と訊いてきました。
「…………」
嘆息。
こんな小さい部屋では鎌之助に筒抜けもいいとこです。
それでなくても、自称精鋭忍者ならば唇くらい読めるでしょう。
ちなみに、戸はわたしたちの背後。
意せず鎌之助を部屋に閉じ込めた形になってました。
「あー……お引き取り下さるなら、それは願ったり叶ったりなのですが……」
立場上、なにも訊かずに帰すわけにはいきません。
もちろんわたし一人ならば即、帰ってもらいます。迷わず帰ってもらいます。それはもう、ものすごい勢いでお引き取り願いますとも。
ですが、今は二人。
小比奈がいます。
女二人を前に、手に刀を構えた自称精鋭忍者。それがまだ攻撃をしかけてこない――それはつまり、相手も小比奈がただの女の子ではない、と警戒している証拠。
情報は得ておくに限ります。なにより、ここで逃がせば他の後輩たちに危険が及ばないとも限りません。
「……なかなか、そうもいきませんよね」
「だ、そうだ。残念だったな、かま野郎。貴様はここでひっ捕らえる、覚悟しろ!」
小比奈の言葉に、鎌之助の眼光がさらに鋭くなりました。
「……俺は無益な殺しは好まぬ……故に、貴様ら女子を殺したくはないが……邪魔立てするならば致し方なし」
死んでもらう――と。
一応、あなたの仲間の命を助けたのですけれど……と、そんな言葉が喉から出かけましたが、すんでのところで呑み込みます。行動原理が全く異なる人間に何を言っても無駄です。それが信念を持ち、貫こうとすればするほど、それは尚更。
そんな人間をわたしは嫌というほど見てきました。
「一つ、訊かせてください。あなたたちはなぜこの地に? 武田への密偵ですか?」
わたしの当たり前すぎる質問に、鎌之助は沈黙で返しました。
その沈黙は了と見るべきか――否。
当然、そうなのでしょう。そうでなければこの男がここにいる理由がありません。目的は斥候か調略、もしくはその両方と見て間違いはない。
思考しつつ、わたしは続けます。
「しかし、それならば――こんな信州の片田舎にまで、わざわざ出向く理由はありませんよね。恐らくは織田の差し金と見ますが――まさか、また織田は懲りもせずに武田侵攻を企てているのですかね?」
鎌之助は口を閉ざし続けます。探りに乗る様子もありません。
伊賀の忍びが織田に下ったか――それはわたしの知るところではありませんが、織田との領境にある信州、木曾谷に近いこの小県に伊賀の忍びとなれば、そう考えるのが妥当。
ですがそれは、今この場においては然したる問題はありません。
そう、大した問題ですらない。
だって――どうせこの男は、捉えられる運命にあるのですから。
まだ鎌之助はこの道場の“本当の姿”を知らない。
そしていかなる脅威であれど、わたしの目の前の少女を打ち崩すに叶わないだろう、と。それほどの信頼を小比奈には置いています。
仮に万が一、小比奈がやぶれ、わたしたちが逃げる羽目になったとしても、鎌之助が峠の男を連れ去ることはこの道場が許さないでしょう。それはなにも道場、建物がとうせんぼするわけではありませんが、この≪甲斐信濃二国巫女道修練道場≫にいるすべての巫女は、普通の巫女のそれとは違うのですから。
「…………」
しかし、ことのなりゆきに引っ掛かるものを感じずにはいられません。どこか出来過ぎているような……頭の隅に引っ掛かる何か、それがなんなのか……。
鎌之助は『怪我を負った仲間を返して貰う』と言った――つまりそれは、あの峠での出来事を知っているということ。わたしたちがあの場に着く前の争いも、その争いの理由もこの男は知っているということ。
だとすれば、わたしたちがあの男を助け、道場に着くまでの間も、鎌之助はその目を光らせていた――そう考えるのが普通。
仮にそうだとすると、また一つの疑問が生まれます。
鎌之助は、襲われている仲間を助けなかった――あるいは、一緒に戦っていたが、手負いの男を置き去りに、自分だけその場を離れた――ということ。そうでなければ、あの状況は実現しない。
そもそも、鎌之助たちは何故あんな東山道から外れた峠道にいたのでしょうか?
……そういえば峠で討ち捨てられていた三人は甲賀衆……。
もしかしたら千代女さまは何か知っているのでは?
「……あなたたちの目的はなんです?」
考えがまとまらず、率直な言葉がわたしの口から出てしまいます。
「……お前のその言い回し……まるでこの場所が武田と密な場所だとでも言うようだ」
あ、しまった。墓穴。
……いや……あれ?
わたし、それを仄めかすようなこと、言いましたっけ……?
「貴様のような見るからに忍びの輩が、この地にいれば誰だってそう思うだろう! それよりもさっさと答えろ! 目的はなんだ!」
すかさず小比奈の援護がわたしを救います。
あきらかにいぶかしんでいる鎌之助に、なにか悟られてはいないかと不安になりますが――この男、最初からずっとこんな顔をしていたので表情からは何も読めません。
「……まあいい。お前らの問い、答えるに値せず。ましてやこれから死にゆく者――教える道理も無い」
鎌之助の淡々とした口調のその奥に、押し殺した激昂を感じました。
ちりっと空気が乾き、さらに冷たく、そして重くなります。
「覚悟」
ただならぬ殺気を本能で感じ取りました。
瞬間。
鎌之助は飛びくないを投げ、五メートルはあったであろう小比奈との距離を、一瞬で詰めます。
小比奈は放たれたそれを小太刀で払い落とすと、返す刃で鎌之助の初撃を受け止めました。重なる刀身から火花が散り、金属の擦れる甲高い音が部屋中に響きます。
「ほう」
鎌之助は関心するようにぽつりと。
じりじりと刀を擦り合わせ、両者にらみ合い。
ふと鎌之助は目で笑い――刀身を押し放し、後転の要領で距離を取ります。その際、畳に敷かれていたわたしのお布団を掴み、宙へと投げました。
ふわっと舞うお布団に隠れ、わたしたちの視界から鎌之助の姿が消えます。
小比奈は咄嗟にわたしを部屋の外へと突き飛ばすと、立てていた小太刀を腰まで落として構えました。
「――刀影流二ノ型、一式――『猫爪』ッ!」
胸を押され、息詰まるわたしが見たのは、閃光の如く放たれる小比奈の斬撃。
ひゅおっという刃の風切り音が幾重にも重なったように聞こえ――刹那、お布団は横に三つ、いや、四つに別れ、その形を崩しました。
しかし、輪切り大根のように分かれたお布団の隙間から、火花とともに重なる金属音が鳴り響き、鎌之助のぎょろっとした目が小比奈をにらみつけます。
「甘いッ」
馬鹿な! 小比奈のあの連撃を全て防いだ――っていうかそれわたしのお布団っ!
落ちるお布団の影から、鎌之助の突きが小比奈を襲います。
間一髪、小比奈はのけ反りそれをかわします――が、体幹を崩し、畳に背中をつけました。鎌之助はこれを好機と見るや、仰向けに寝そべる小比奈の顔めがけ、その切っ先を真っすぐに突き落とします。
「小比奈ッ! 危ない!」
わたしは思わず叫びます。
直後、どすり――と、鈍い音。
鎌之助は確実に仕留めたと思ったのでしょう。
鎌之助の動きが一瞬硬直。
小比奈は腰ひもに差していた脇差で刃の軌道を反らし、首を横に曲げてその凶刃を回避していました。小比奈の顔すぐ隣には、忍刀が突き刺さっています。
鎌之助の見せた半刹那の隙――それを逃す小比奈ではありません。
すかさず、反撃。
振り払う小太刀、それを鼻先で避ける鎌之助。
小比奈はその動きを読んでいたかのように、鎌之助を両足で蹴りあげ、そのまま後転。足を地につけると、ばっと鎌之助との距離を取り、また守るようにわたしの前に立ちました。
「――止水さま! 御無事ですか!」
小比奈の無事な姿に、ほっと胸を撫で降ろします。
「おかげさまで。ありがとう小比奈」
立つは部屋の外、縁側。
外は月夜に粉雪が舞っていました。
月明かりに照らされ、小比奈の小太刀が青白く光ります。
部屋の中の鎌之助はゆらりと立ち上がり、畳に突き刺さる忍刀を引き抜きます。
「……なかなかに、やる」
敵の賞賛に小比奈はふん、と鼻を鳴らしました。
「この程度でやるとは、伊賀の精鋭とやらも底が知れる。さあ、出ろ。そこではお前を叩き斬れんのでな」
鎌之助は返すようにふん、と鼻で笑います。
「ぬかせ、小娘」
そしてまた、激しい攻防が始まりました。
その人間離れした――常軌を逸した戦いの渦中にわたしが入れるはずもありません。小比奈の加勢に入ろうものなら、逆に邪魔になってしまうことでしょう。わたしもその場から離れればいいのに、足が震え、小比奈の後ろで立ちすくむばかり。
流れる動作の中、突き立てた白刃が差し込まれました。
小比奈はさっと避けます――が、しかし白刃の本当の矛先を知って、その顔を歪めました。
「――しまっ、止水さま!」
それは小比奈ではなく――わたしに向けられた、動作の大きい、射程をとった動き。
普通ならば、わたしにそれを避けられるはずもありません。自分で言うのもなんですが、わたしの戦闘能力はカエル並と自負しております。それもアマガエルです。もし、わたしが鎌之助と一対一で対峙すれば一瞬で殺されてしまうことでしょうし、一発で踏みつぶされてしまうことでしょう。
まるで相手にならない絶対の自信が、わたしにはあります。
しかし、それは“普通であれば”、の話で。
小比奈や鎌之助らの身体能力が常軌を逸しているのであれば、わたしの“眼”は世の理を逸している――とも言えるかもしれません。
迫る刃。
鋭い切っ先。
鎌之助の突き。
わたしは反射的に眼を細めます。
そして、まぶたにほんの少しの力を込めて、わたしの“眼”は、“わたしの視界”を見ました。
鎌之助が踏み込み、その足が床を蹴りつける音。
空を斬り、小さく鳴る刀の風切り音。
小比奈の声。
それらが次第に大きく。そして、遠く。
刹那は広がり、瞬間がゆるやかに。
さらに、ゆるやかに。
――蒼眼、“静の眼”――
視界にとらえた全ての物を、動作を、流れを、いちじるしくゆるやかにする――千代女さまに禁じられた力。その“鱗片”。
一切の迷い無くわたしの心臓めがけ飛んでくる刃――それが寝間着の胸元をかすめる間髪、わたしは身を反らします。
ねじる身体に遅れた寝間着が刃に触れ、裂けました。
小さい衝撃がわたしの身体に伝わります。
――まだ、速い。
裂けた布に遅れて、その音がわたしの耳に届きます。
刀の切っ先がわたしの胸にそっと当たりました。
――もっと、もっとゆるやかに。
ゆっくりと静止に近づく視界に反して、わたしの思考は加速します。
加速。
研ぎ澄まされていく感覚。
全身の神経、筋繊維の一本一本まで全てを正確に、丁寧に動かします。
――もっと、もっと速く。
一瞬は広がり、数十秒か、あるいは数分、それ以上に拡張。
音は引き伸ばされ、鼓膜を震わすそれは振り幅を広げ膨張。
その正体を無くした音はおおん……という余韻を残し拡散、雲散霧消。
そうして気がつけば――
いつの間にか、音は消えていました。
静寂。
外には雪がちらついていました。
宙に浮いて留まっているそれは、夜空に浮かぶ星のようでした。
静止した視界。
小比奈も、
鎌之助も、
わたしを斬りつけようとする刀も、
舞う雪も、
踏めば軋みそうな木目の床も、
白を被った木々も、
雨戸から滴る雪水も、
澄みきった夜の空も、
月の光さえも。
森羅万象ありとあらゆるもの――
その全てが、この静寂を崩そうとはしませんでした。
世界は、その動きを止めました。
わたしの胸に添えられた流曲線の忍刀。
その刃に沿うように、わたしの肌、その皮膚を切り裂く寸前でひねった身体は、刃の軌道から外れます。果たして凶刃は寝間着を切りつける程度で済みました。
視界はゆっくりと動態を取り戻し、世界はその動きを早めていきます。
そこでわたしは鎌之助の顔、その視線を見てハッとします。
鎌之助の目は――目標としたわたしを見ていない――
その視線の先とは――小比奈っ!
しまった、と鎌之助の意図を察したときにはすでに遅く。鎌之助は滞りなくあらかじめ用意された手順を踏むように、次の手に出ていました。
鎌之助の狙いはわたしではなく、真の狙いは小比奈の動揺を誘うこと――わたしを斬ろうが斬らまいが、それはどうでもよいことだった。
小比奈はわたしを切りつけようとした刀身を、不安と驚愕が入り交ざったような顔で見ています。当然、もうすでに放たれている鎌之助の蹴りに気がつけるはずもありません。
首尾良くことを運んだ鎌之助は、その一瞬の隙を逃さず小比奈の腹を蹴りつけます。
鈍く短い声を上げ、小比奈は縁側から落ち、庭に転がりました。
「――小比奈っ!!」
わたしは、文字通り後ろ髪をぐいっと強引に引かれ、ぐるんと半回転。
「動くな」
と、鎌之助の声。
気がつけば鎌之助が背後に、喉元には刃が突き付けられていました。
「ひゃん……っ!」
簡単にいうと、人質に取られました。本当に足手まといです……わたし。
起き上がり、雪まみれになりながらわたしを見上げる小比奈。その顔には畏怖の色が見えました。
「……あぁ、そんな……止水さま……」
蚊の鳴くような声で、小比奈はうめきます。
図太い性格の割に、精神面は意外に脆く、幼さが残る徹しれない甘さ。そして、わたしたちの主従関係。それらを攻防のなかで見破り、見極め、そして見事にしてやられました。
名前でちょっと小馬鹿にしていましたが、鎌瀬鎌之助――さすがは伊賀忍者といったところか……。精鋭の名に恥じない相当な手練です。
さらに、これは鎌之助は知る由もないことですが……“この状況”は小比奈に対して、必要以上の効果を上げることになります。
「刀を捨てろ。平を返し、地に手を置け」
耳元で聞こえる冷徹な声。
小比奈はそれを渋り、泣きそうな表情を浮かべ、身構えています。
「小比奈、構いません。わたしに構わず――」
「黙れ」
首元にぴたりと添えられた冷たい刃に、力が込められるのを感じました。ちょっと力を加えれば、わたしの喉元など簡単に掻っ切ることができるでしょう。
「嫌……そんな……いやぁ……」
先ほどの好戦的だった姿からは想像もつかないほどに、小比奈は怯えきっていました。
そして、もだえつつ、いやいやをします。
小比奈が一人で戦っていたのであれば、簡単に鎌之助を倒していたに違いありません。それほどの力を、技量をこの子は持っています。
つまり、このようなことになったのは――ひとえにわたしのせい。
覆水盆に返らずといいますか自業自得といいますか……かつて幾度か味わってきた危機的状況に、またも発展してしまいました。
禁を破り眼を使おうと考えますが、今は敵が視界に捉えられない背後にいます。
これでは頼みの眼も使えない……。
「あらあら。これはいったいなんの騒ぎでしょうか?」
絶対絶命の状況に、優しい口調、聞きなれた声が耳を撫でました。
一身上の都合で首が動かせないので、わたしは声のほうへと目を動かします。
同じ縁側に、純白の着物を身にまとい凛と立つ女性――
望月千代女さまがそこにはいました。