9 無明を断つ
霧が晴れてくると、陣内の無惨な様子が明らかになった。
斬り込んできた裏柳生の忍びに斬り捨てられた、忠長に仕える侍達の骸。
佐助と才蔵によって斬殺された、裏柳生の忍び達の骸。
合わせて三十体を越える屍が、血臭漂う陣内に転がっている。残った裏柳生の忍び達は、佐助らの思わぬ反撃に遭い引き上げたようだ。生き残った侍達の中には重傷を負って、うめいている者の姿もある。
「……無惨だな」
右手にこびりついた血を布で拭いながら、佐助は苦い顔をする。
「仕方あるまい、これが戦じゃ」
短槍を構えたまま才蔵老人は陣内を見回した。忠長と霞を押しやった陣幕の前では、楓が短刀を構えて緊張した面持ちで周囲に気を払っている。
「おい、姫様は?」
佐助が陣幕に近寄ろうとすると、楓が激しく首を振った。
「今入るのは野暮よ」
楓に言われて、佐助はきょとんとする。そんな表情が妙に若い。
陣幕の裏には忠長が乗ってきた輿があった。葵の紋の入った豪華な輿である。
その中に忠長と霞は避難していた。輿は時に激しく、時に微かに揺れていた。
「忠長様、お会いしとうございました……」
輿の中から響く霞の声は、消え入りそうにか細かった。
「許せ、そなたに会わせる顔がなかった……」
忠長の声には詫びと懺悔と悔恨と―――
そして愛がこもっていた。二人は輿の中で裸になり愛を囁きあっているのだった。
その輿から離れた陣内で佐助は苦笑していた。
「やれやれ、そういう事か……」
「いいじゃない別に。男と女なんだし」
楓は照れ臭そうに佐助に向かって微笑みかけた。佐助に敗北して、いや佐助の男に負けて裏柳生を裏切った楓は、この時初めて微笑を見せた。
毒婦と呼ばれた女忍者とは思えぬほど穏やかな笑みである。陣内には、まだ屍が無数に転がり、浅間山の山中からは鉄砲の銃声や獣の悲鳴が聞こえてきた。
「老体には応えたわい……」
才蔵老人が疲れた声を出した。佐助も楓も苦笑した。陣内では侍達が骸の後始末に取りかかり始めていた。
この時、誰もが油断していた。
佐助ですら、陣の周囲の林に注意を払っていなかった。
突如として林の中から幾条かの光が飛来した。それは手裏剣の光であった。
その手裏剣が佐助の太股に突き刺さった。
「うう!?」
突然の痛みに驚きながら、佐助は林に視線を移した。林の中を猿に似た影が動いている。林から放たれた手裏剣は、その影が放ったのだった。
林の中から一つの影が飛び出した。影は地面に着地すると同時に、才蔵向かって突っ走った。四足獣の疾走のごとき速さである。
佐助の視界の中で才蔵老人の小柄な体が宙に舞った。林から飛び出した影の体当たりを受けたのだ。宙に飛んだ才蔵が勢いよく楓に激突する。くぐもった声を出して、才蔵も楓も失神したようだ。
太股に走る激痛にこらえながら、佐助はその影をにらみ据えた。
細く長い体つきに、右手は肘から下が鎖鎌を取り付けた義手になっている。左手には鉤爪のついた籠手を装着しており、黒頭巾からのぞく隻眼は悪鬼のごとく憎悪の光を放っている。
「てめえは……!」
佐助は叫ぶが体が動かない。
「忠長様の御命…… もらいうける!」
十兵衞によって撃退され、しばらく行方知れずとなっていた裏柳生の忍び―――
土蜘蛛であった。
すでに土蜘蛛は裏柳生ではない。
殺戮が全てという一個の獣に成り果てていた。
忠長の陣内は、たった一人の襲撃者によって騒然となった。
「おのれ化け物!」
忠長に仕える侍達が次々と土蜘蛛に斬りかかっていく。
ひゅ
土蜘蛛の右手が動いた。鎖鎌の刃が陽光に反射して中空に光の軌跡を描く。まるで空を飛ぶ生き物のように鎖鎌は侍達に襲いかかり、首筋を裂き、刀を握った手首を切り落とした。
瞬間に生じた惨劇に侍達も佐助も動けない。土蜘蛛の鎖鎌の一手で数人の侍が、瞬く間に血祭りに上げられたのだ。
「他愛もない……」
土蜘蛛は楽しげに呟いた。佐助は土蜘蛛をにらみ据えるが動けない。右大腿部に突き刺さった四方手裏剣は深く肉に食い込み、佐助の身軽な動きを殺してしまっていた。
「何しに来やがった、てめえ!」
佐助の怒声に土蜘蛛は動じた風もない。
「さっきも言ったであろう、忠長様の御命もらいうけるとな」
頭巾からのぞく土蜘蛛の隻眼が楽しげに笑っている。
「あの美しい女も貴様も十兵衞も、このわしが殺しに来たのよ」
土蜘蛛が一歩一歩、佐助に間合いを詰めてくる。
「快感だ! お主らは狩りの獲物、狩るのはわしだ! さあ、悲鳴を上げて逃げ惑うがよい!」
土蜘蛛の様子は常軌を逸していた。十兵衞との戦いに負けた失意から、土蜘蛛の精神は狂いだしたのだ。
「……させん!」
佐助はかろうじて一歩を踏み出した。足元に流れ落ちた血が水溜まりのようになっている。土蜘蛛の手裏剣は想像以上の深手であった。
「その意気や良し、褒めてやる!」
土蜘蛛が鎖鎌を大きく旋回させた。佐助にとどめを放たんとする動きだ。
その時、陣内に疾風のごとく黒い影が踊り出た。
土蜘蛛が鎖鎌を佐助に向かって放つ。
黒い影が佐助の前に出た。次の瞬間、高い金属音と共に鎖鎌が宙に舞った。
「何!」
土蜘蛛が叫ぶ。
「十兵衞!」
佐助も叫ぶ。佐助の前に一人の忍び装束の男が立っている。左手には小太刀を握っていた。土蜘蛛の鎖鎌を払ったのは小太刀の妙手によってであった。
「十兵衞!」
土蜘蛛は黒い鬼の面をつけた男に殺気を放つ。
鬼の面をつけていたのは十兵衛だ。彼は左手の小太刀を土蜘蛛に向かって油断なく突きつけていた。
「遅いぞ十兵衛、何をしていた!」
佐助は必死の形相で叫ぶ。
「その化け物を追っていたが、追いつけなんだわ……」
鬼の面の奥から、自嘲気味の声が響いた。
「十兵衛!」
土蜘蛛が鎖鎌を振り回す。横薙ぎに襲い来る鎖鎌の刃を十兵衛は小太刀の一閃ではじき返した。
そして十兵衛は右手で背に負った愛刀三池典太を抜くと同時に踏みこんだ。
「おおお!」
十兵衛の二刀が空を裂く。
「くわっ!」
土蜘蛛は宙に飛んで十兵衛の二刀を避けた。
土蜘蛛と十兵衛は互いに雄叫びを上げながら切り結ぶ。
十兵衛の二刀は疾風のように空を裂く。
土蜘蛛の鎖鎌が十兵衛を襲う。
互いに間合いに踏みこむが、容易に決着しない。
互いの刃は相手に届かない。
やがて、どちらからともなく両者は動きを止めて真っ向から対峙した。
「いずれの技が勝っているか、ついに勝負を決する時が来たようじゃの…… わしはこの時を待っていたわ」
土蜘蛛は頭上に鎖鎌を旋回させた。鎖鎌の刃が不気味に空を裂く。
佐助も侍達も声もなく両者の死闘に見入っていた。
「答えは決まっている」
十兵衛は左手から小太刀を落とした。
そして両手で愛刀・三池典太を上段に構える。鬼の面をつけた十兵衛の全身から、静かながらも刺すような殺気が放たれる。
十兵衛の鬼気迫る殺気に土蜘蛛ですら息を呑んだ。
「お前が死ぬのだ土蜘蛛」
「……ほざけ!」
土蜘蛛が鎖鎌を放った。鎌の刃が真っ直ぐに十兵衛を襲う。
十兵衛は一直線に刀を打ちこんだ。
金属音と共に空中で鎖と鎌が分解した。十兵衛の一刀が鎖鎌を両断したのだ。
土蜘蛛が動揺する。その一瞬の隙を突いて十兵衛は三池典太を投げた。
三池典太は真っ直ぐに飛んで土蜘蛛の胸板を貫いた。
「ぬあ……!」
土蜘蛛は胸から噴水のように鮮血をほとばしらせながら、か細い叫びを上げた。
「やはり死ぬのは、お主だったな」
面の奥から聞こえる十兵衛の声には、不思議な寂しさがあった。
「見事……!」
土蜘蛛は満足げに叫びながら地に倒れ、二度と起き上がる事はなかった。
十兵衛は陣内で腰を抜かして尻餅をついている朝倉宣正の前に跪いた。宣正はただただ仰天していた。
「忠長様を狙った裏柳生の者達は成敗仕りました…… これで当面の危機は去ったでありましょう」
「き、貴殿は何者……?」
宣正は鬼の面をつけた十兵衛に言い寄られて仰天している。
般若の面であるのだが黒塗りなので、恐ろしげな鬼の面にしか見えぬ。
「……我が名は」
その後に続く名前は、寛永の裏世界において伝説となった。
その名をいわく、
「―――般若面」
忠長は後の寛永九年(一六三二)に高崎に移封され、その翌年には切腹し、二十八歳の儚い人生を終えた。
愛妾であった霞の姿は高崎へ移封されあ頃には、すでになかった。
忠長の子を身ごもり、ひっそりと姿を消したという。
その霞の傍らには穏やかな老人と、威勢の良い大男と一人の美女、そして隻腕の武士が絶えず付き従っていたという。
浅間山で忠長暗殺に失敗した柳生左門友矩であったが、父である柳生但馬守宗矩からは特にお咎めはなかった。
だがすでに信望を失い、三代将軍家光の小姓を務めるだけの存在と成り果てた。その魔天の剣を振るう機会があったのかすら今ではわからない。
そして十兵衛は父の命をこなしつつ、秘密裏に暗躍していた。
後に道場を開いた時には一万三千人の門弟を従え天下に武勇を響かせていた。
その若き日の出来事は全て闇に包まれている……
春の日であった。東海道を東へと向かう一団の中に、胸に幼子を抱いた美女の姿がある。
「……」
美女は黙って空を見上げた。その顔には憂いがある。大納言忠長が切腹して果てたという報が日本中を駆け回っていた。
「おや、静かに眠っておりますな」
美女の脇から、明るい顔をした大男が幼子を覗き込んだ。母の胸に抱かれて安心しているのか、幼子はすやすやと寝息を立てている。
「あなた!」
大男の脇では妖艶な美女が、大男をたしなめた。憂い顔の美女も、くすりと笑った。
「十兵衛殿は今頃、何をしているのかのう」
老人は一人、寂しげに空を見上げた。
「あの方は、今も戦っておられるのではないでしょうか?」
隻腕の武士もまた、空を見上げてつぶやいた。
*****
寛永十年(一六三三)、夜空に満月が輝いていた。
折れた刀を手にした木村助九郎は、周囲を不穏な影に囲まれていた。
「貴様ら、一体何者!?」
山中にあって只一人、木村助九郎は孤軍奮闘していた。
紀州の徳川頼宣に接触する何者かを探るために、宗矩の命によって紀州に密偵として赴いた助九郎。
だが、すでに彼らは紀州において一大勢力を築きつつあったのだ。助九郎一人の剣では太刀打ちできる存在ではなかった。
「ふふ、冥土の土産に聞くがよい」
全身を甲冑に包んだ男が一人、一団の中から抜け出した。その男の発する殺気に助九郎は身を固くする。
「我が名は風魔。四代目・風魔小太郎」
「風魔だと!?」
助九郎の知る風魔忍者は、半世紀 近くも前に江戸において全滅したのではなかったか。
「その先を知る必要はない……」
小太郎と名乗った男が腰の大刀を引き抜いた。四尺あまりもある大刀である。その刀身が、月光に反射してギラギラと輝いた。
助九郎は死を覚悟した。そして折れた刀を手にして小太郎へと踏み込もうとした瞬間、悲鳴が聞こえた。
「ぎゃ!」
「うあ!」
小太郎の背後で叫び声が続いて起こる。小太郎の配下の者達が、次々と血煙を上げて地に倒れていくのだ。
「おお!」
助九郎は歓喜の声を上げた。
「何奴!?」
小太郎は標的を変えて、配下の一団へと目を向けた。
一団の中心では黒い旋風が起きていた。
両手に二刀を提げた一人の忍者が、瞬く間に数人を斬り捨てていたのだ。
忍びの者は小太郎へと向き直った。
その顔には黒い鬼の面がある。
「何者だ?」
小太郎は再度、問う。鬼の面をつけた忍びの並々ならぬ剣の腕に感服したからだ。どこか楽しげである。
「……我が名は」
その声は―――
鬼の面の奥から聞こえる声は、正しく十兵衛三厳の声である。
「般若面―――」
般若面の構えた二刀が月光に反射して輝いた。
〈了〉
※ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。