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柳生無明剣  作者: MIROKU
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7 魔天よりの使者



 霞の屋敷にも朝が訪れた。

 霞も朝の日課である調練に精を出す。が、その日の朝は、いつもと少しだけ変わっていた。

「佐助が戻ってこないのう……」

 そう、朝になっても佐助は戻ってこなかった。ここ最近は、夜通しで屋敷を留守にし、朝になると帰ってきて熟睡する姿が目立っていた。女の所に通っているのか、と霞が諌めた事もあるが、佐助はニヤニヤして答えなかったが。

 事実は、佐助は夜な夜な駿府城に忍んでいたのだ。そして城下に流れる黒い噂―――

 忠長の暗黒の所業の事実を突き止めようとしていたのだ。その事実を知り忠長への怒りから、佐助は昨夜も駿府城へと忍んだのだ。

 忠長の命を奪うために。それは佐助が胸に秘めた秘事であった。霞にも才蔵老人にも語らぬ決意を胸に秘め、佐助は昨夜、駿府城へと忍んだのだ。

「妙な胸騒ぎがするのう……」

 袴姿に薙刀を構えた凛々しい出で立ちで霞は朝空を見上げた。不穏な空気を感じさせる暗い空である。



 昼前になると霞の屋敷に珍客が訪れた。十兵衞を訪ねてやってきた者である。

「お初にお目にかかる…… 不躾ながら、兄にお目通し願いたい」

 赤く美しい唇から放たれる声は男性とも女性とも判断しようがない、中性的で妖艶な声であった。屋敷の門で出迎えた才蔵老人は目を向いた。珍客の美しさにである。

「我は柳生左門と申す、十兵衞三厳の弟であります」

「なんと、十兵衞殿の?」

 才蔵老人は目を丸くした。眼前の左門は青年とも少年とも判断できぬ、微妙な年頃の人物であるが、容姿や雰囲気に十兵衞と通じる点がほとんどなかった。

 十兵衞の男性的な容貌に比べ、眼前の左門は女性的な容姿である。月代も剃りあげておらず、長く美しい黒髪が後ろに撫で付けられている。髪型もまた男なのか女なのか、判断を狂わせる材料であった。

 そして唇は妖しいまでに赤く、思わず目を奪われそうになる。十兵衞の弟と言われても信じられぬ。

 そんな才蔵の心情を悟ったか、左門は微笑した。

「兄とは母が違います故……」

 左門の微笑は、妖艶と現すに相応しい微笑であった。男女を問わず妖しく魅了する眉態 であるかもしれぬ。

「留守ならば仕方ありませぬ、御手間をかけ申した」

 そう言って左門は屋敷を後にした。来た時と同様に、立ち去るのも唐突であった。

(あやつは……)

 才蔵は全身に冷や汗をかいていた。左門の発する気配は、まるで毒を持つ蛇である。いつでも持てる毒を吐き出す。そんな獰猛な気配を妖艶な微笑の奥に潜ませていた。

 立ち合えば死んでいたかもしれぬ―――

 そんな思いが才蔵の全身を駆け巡り、嫌な汗を吹き出させていた。



 十兵衞が霞の屋敷に戻ってきたのは、昼過ぎであった。すでに陽は高く登っている。

「十兵衞様」

 十兵衞を出迎えたのは一真であった。左腕を失い、未だ立ち居も困難であるが、蒼白で痩せ衰えた顔に気力をみなぎらせて、十兵衞の前に片膝ついた。

「左門様がいらっしゃいました……」

 無精髭におおわれた一真の顔に、眼光が鋭く光る。

「左門!」

 十兵衞にとっては懐かしい存在であり、名前である。十兵衞が家光の小姓を辞した際に左門は十兵衞の後任として、家光の小姓に召し抱えられた。

 十兵衞の思い出の中では、左門は優しく品のある少年であった。母は違うが、十兵衞は弟・左門に誇りを感じていたほどだ。自分なんぞよりも柳生家を継ぐに相応しい存在であ ると。

「何故に左門が参ったのだ?」

 十兵衞の疑問も、もっともであった。左門は、まだ十七歳であったはずだ。十兵衞より七歳若い弟である。家光の小姓を勤めているはずではなかったのか。

「左門様は、今や江戸の裏柳生の筆頭剣士であります」

 一真は苦しげに呟いた。額には汗が浮かんでいる。

「左門様は…… その剣すでに宗矩様をも凌ぎ、その容姿と相まって、美しき阿修羅の化身とまで言われております」

「阿修羅……」

「そう、まるで…… 魔天より舞い降りた阿修羅の化身と、助九郎様はおっしゃられておりました……」

 一真の話を聞くうちに、十兵衞の総身を寒気に似た戦慄が駆け回る。

 十兵衞が知る優しい弟・左門は何処に消えたのか、と。



 駿河の城下に浪人が続々と集まってきていた。

 忠長の行おうとしている浅間山の猿狩り、その噂が東海道を伝って、周辺に住む浪人や野党崩れを集結させていたのだ。

 なぜならば、忠長は猿狩りの為に、浪人を多く雇い入れているからであった。功績次第では召し抱えるとも忠長は公言している。

 事実、忠長が赴任したばかりの頃は、数十人の浪人が召し抱えられたという。多くは三十石、五十石と高禄ではないにせよ、浪人が武士として再び召し抱えられたのだ。この時代には稀有な現象である。それも忠長の仁徳であろう。

 また、傘張り職人、大工、魚屋、など手に職を持って生計を立てる浪人も現れた。彼らは武士に戻る事はなかったが、浪人の時とは比べものにならぬ、安定した生活を送 る事になった。こうして駿河は活気と泰平を象徴する土地になったのである。

 そのせいで、仕官を求める浪人達が駿河城下に集まってきていた。同時に治安は不安定となった。城下では浪人による狼藉が、大小を問わず後を絶たなかったのである。

「貴様、武士に何をするか!」

 往来で一人の浪人が刀を抜いていた。町民がぶつかってきた事に難癖をつけたのである。浪人のやせ衰えた貧相な身なりは、野良犬を思わせた。心身共に荒みきっていた。

「い、いや、悪気は……」

 町民の男は真っ白な顔で、謝罪を繰り返すが、浪人には許す気など毛頭ないらしい。

「そこになおれい!」

 浪人の怒声が通りに響いた。行き交う人も足を止め、物珍しげに浪人と町民のやりとりを見ていた 。が、通りの向こうからやってくる、一人の武士に、往来の群衆達は興味を移した。武士の鮮やかな姿に見入ってしまったのだ。

「……あ」

 刀を向けられていた町民すら、瞬間、恐怖を忘れて見入っていた。向こうから歩いてくるのは、総髪の武士であった。男とも女ともつかぬ、美しい容貌。まだ若く美しい武士が、往来の向こうから歩いてくる。

 浪人は呆然とした。若く美しい武士の歩む姿に。その顔が見る見る赤く染まっていく。若い武士を眺めただけで、浪人の心中に何かが渦巻いたのだ。

「貴様アッ!」

 浪人の怒声が若い武士に浴びせられた。武士は足を止めて浪人を静かに見据える。赤い唇が妖艶である。堂々たる態度は見事と言わざるを得ない。

「いざ尋常に勝負せい!」

 なぜに浪人の口からそんな言葉が飛び出したのか、それは誰にもわからぬ。浪人自身、理解していなかったのかもしれない。

 事実は、浪人はこの若く美しい武士を見た瞬間、武士の魂を取り戻したのであった。戦場に臨んで、武勲を得ようと死線をくぐり抜けてきた武士の魂を。

 浪人が刀を振り上げ、若い武士に真っ向から斬りかかった。

 それより早く、若い武士は一刀を横に薙いだ。

 肉を切断する小気味良い音が虚空に響く。

 それに続いて、切断された浪人の首が宙を飛んだ。

 若い武士は刀についた返り血を懐紙で拭い、汚れた懐紙を投げ捨て再び歩き出した。

「御免」

 表情に全く変化はない。人を切り捨てた事に何の感慨も抱かぬようであった。

 若い武士は柳生左門であった。群衆の誰一人として、左門が刀を抜いた瞬間を認識できていなかった。一瞬の神業とも呼べる剣技であった。しかし、左門にとっては普通の一刀である。

 首を断たれた浪人の体は、宙を飛んだ首が地に落ちても、傷口から血を溢れさせながら立ち往生していた。

 群衆は黙して声もなかった。美しい阿修羅の化身・左門の振るった魔天の剣に、心中恐れおののくばかりだったのである。



 十兵衞は一人、霞の屋敷で頭を悩ませていた。

 宗矩の命に従い忠長暗殺を謀る助九郎以下の裏柳生。

 そして、浅間山の猿狩りの準備を進める一方で、各地の大名に幕府打倒の檄を飛ばしていた大納言忠長。

 更には、優しかった弟・左門の変貌。すでに父・宗矩を凌ぐ剣と評されているとは。

 十兵衞は襖を開けて、更に屋敷の外に出た。夜空には半月が浮かんでいる。風は暖かみを帯び、季節は夏を迎えるだろう。

 十兵衞は静かに腰の二刀を抜いた。右手には愛刀・三池典太、左手には脇差しを握った。両手に刀を提げて、十兵衞は左の隻眼を閉じた。

 立禅である。呼吸が整い意識は透明になり、自分の体が夜の空気に溶け込んでいくような錯覚を感じた。 それが心地よい。

(左門……)

 十兵衞は内心に叫んだ。脳裏に浮かぶは、弟・左門の幼い日々である。異母弟ながらも、十兵衞には左門の優しげな表情がまぶしかった。もう一人の弟、宗冬と三人で過ごした日々が、今は途方もない至福の日々であったのだと、十兵衞は感傷に浸りそうになる。

 だが―――

(斬る……!)

 十兵衞は隻眼を開いた。すでに無心であった。弟・左門が魔天の剣を振るうという。それを聞いて十兵衞の心は激しく燃え盛る。生涯の好敵手に出会えたという興奮に、二刀を提げた十兵衞の体が自然に動き出した。

(……邪魔だ)

 十兵衞は左手の脇差しを落とした。そして両手で愛刀・三池典太を握って、上段に構えた。

 そして振り下ろす。十兵衞の一刀が張り詰めた夜の闇を裂いた。

 空を裂く音が虚空に響いた。十兵衞は刀を振り下ろした姿勢で再び瞑想に入っていた。月光は静かに十兵衞を照らし出している。

「……よお、精が出るな」

 陽気な男の声に十兵衞は目を開いた。昨夜から姿が見えなかった佐助の姿が十兵衞の前にあった。



 明けて翌日、屋敷では霞の怒声が朝から沸き起こっていた。

「どこに行っていたのだ、佐助!?」

 霞の勢いに大男の佐助もたじたじだ。霞の前で正座しながら、佐助は黙って霞の説教を聞く。百戦錬磨の強者と言えど、主である霞にはかなわなかった。霞の怒りようは、息子を叱る母さながらであった。

 説教が一刻ほども続いた後、ようやく解放された佐助は、十兵衞と才蔵老人を部屋に呼んだ。

「柳生の隠密がやってきている……」

 佐助は言った。そして十兵衞を見る。十兵衞は動じた風もない。才蔵老人は眉をしかめただけだ。

「裏柳生の中から精鋭を選りすぐった柳影七傑りゅうえいしちけつ…… 十兵衞は知っているか?」

 十兵衞は首を振る。十兵衞すら聞いた事のない存在であった。

「その柳影七傑を束ねるのが、柳生左門友矩だそうだ」

 弟・左門の名を佐助の口から聞いて、十兵衞は驚愕する。

「……なぜ知っている?」

 十兵衞は佐助に尋ねた。佐助は苦笑しながら、

「なに、昨夜捕まえた女が吐いただけさ」

 と、明るく笑った。

「その女も柳影七傑の一人だそうだ…… 十兵衞、裏柳生の連中は忠長暗殺を本気でやろうとしている」



 十兵衞は屋敷の部屋で一人、面を彫っていた。

 手にした小刀で木片の表面を削り、内をくりぬき面の形に仕上げていく。部屋の畳の上に敷かれた風呂敷には、無数のおが屑が舞い落ちる。

 朝から始めて、昼になっても夜になっても面作りは終わらない。行灯に火をいれて、十兵衞は尚も面作りに没頭する。

 十兵衞の脳裏には、三年前の事が思い出されてくる。家光の小姓を辞した十兵衞は、行方知れずとなった。

 だが、それは表向きである。事実は宗矩の命に従って裏柳生と行動を共にしていたのだ。裏柳生とは各地の大名を監視し、隠密と暗殺を専門とする戦闘集団である。

 十兵衞の初仕事は、ある小藩の秘事を暴くことであった。その潘の藩主の嫡子は、幼くして亡くなった。

 後継ぎがいなければ藩は改易である。藩主は、次の男児が生まれるまでは、幕府に申し出ずに秘事を隠そうとしたのである。裏柳生は、その秘事を露にせんが為に奮闘した。

 幼くして厳しい修行に挑んで十兵衞は右目を失ったが、その代償として新陰流の奥義に達した。更に、自身で創意工夫した二刀の技と、柳生の庄で学んだ忍びの体術を駆使して、十兵衞は藩士達と斬り結び、生き延びた。

 だが、十兵衞の心には巨大な空洞が生じた。

 己は何の為に人を斬るのか?

 藩士達は命を懸けて十兵衞達・裏柳生に挑んできた。月代を剃りあげて武装し、全員が心を一つにして裏柳生に向かってきたその姿に、十兵衞は今でも感動を覚える。結局、その小藩は改易されてしまったが。

 十兵衞は更に考える。

 自分が命を懸けても自分の満足の為でしかない。

 己の闘争本能を満たす為の戦い。敗れて死ぬのも悔いはない。だが、それでは満たされない。満たされたゆえに、新たな闘争を求めて旅を続けているのではないのか?……

 いつしか夜が明けた。十兵衞は不眠で一つの面を彫り上げた。

 それは未だいびつな面であった。更に手を入れて一つの面として完成させるのだが、完成した時は、十兵衞の正体と心を隠す面となるだろう。

 即ち般若の面だ。

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