6 戻れぬ道、進む道
十兵衞は木村助九郎の屋敷へは向かわずに、藩士達の剣の稽古が行われる道場へ向かった。総檜作りの立派な道場であるらしい。助九郎は日々そこで剣を練っていると、十兵衞は一真から話を聞いていた。
(十年以上になるか……)
十兵衞の脳裡に幼少の思い出がよみがえる。父・宗矩との修行の最中に十兵衞は右目を失った。以来、父・宗矩は十兵衞に剣を教えようとはしなかった。
そこで木村助九郎の出番となった。石舟斎から直々に剣を学んだ木村助九郎は、時に厳しく十兵衞を打ち据え、時には十兵衞相手に丁寧に剣の理を説いた。十兵衞もまた、右目を失った事など屁にも思わぬ意気込みで、剣術に没頭していた。
ある日、助九郎は言った 。
「若は石舟斎様に瓜二つでござる」
石舟斎は十兵衞の生まれる前年に世を去っている。だから十兵衞は石舟斎に会った事はないのだが、助九郎が言うには石舟斎と十兵衞は瓜二つ、その剣の才までも……と言う。
そうして、十兵衞が家光の小姓として仕えるまで、助九郎の指導は続いた。助九郎のその後を、十兵衞は知らなかった。今また再会できるのか、と十兵衞の胸には期待と不安が半々に渦を巻いている。
それにしても、と十兵衞は思った。静かな佇まいの道場は、十兵衞に幼い日の記憶を思い出させる。
奈良・柳生の庄は交通の要所であり、諸大名が注目する地であった。その小さな領国を守る為、柳生の一族は近隣の伊賀一族と交流し、縁組みを行い、忍びの技を磨きあい、高めあっていったのである。
今、十兵衞が目の当たりにする道場近辺の光景は、柳生の庄に似ている。静かな林、穏やかに吹く風、暖かみある陽射し。十兵衞は瞬間、自分が過去の世界にやってきたのではないかと錯覚した。そして、その感覚は心地よいものであった。
十兵衞は道場の入り口に立った。
「たのもう!」
声をかけて戸を開くと誰もいない。草履を脱いで道場に上がると木板の匂いに混じって、汗の匂いがした。多くの者が道場の中で剣を磨き、血と汗と涙を流したのだと十兵衞にはわかる。
閑散とした道場の中央に立ち十兵衞は目を閉じた。心地よい感覚に日々の憂鬱も忘れそうになる。望めるならば朝から夕まで剣を振るう充実を得たいと思った。
「……どなたかな」
背後に人の声を聞いて十兵衞は振り返る。歳の頃、四十を越えたと見える男が神主姿で立っていた。
木村助九郎その人であった。十兵衞は一瞬、戸惑った。
「あ……」
と小さく呟いたが、その後が続かない。それに十年ぶりに見る助九郎の顔は、十兵衞の思い出の中の助九郎と微妙に一致しない。
しかし、助九郎は十兵衞を興味深く見つめていた。今や、十兵衞は右目に眼帯をかける剣客に成り果てた。その変わり果てた容貌に助九郎は何かを感じとったのか。
「若?」
助九郎は呟いた。
「うむ、そうだ!」
十兵衞は驚きと喜びを混ぜて言った。
「助九郎、俺だ! 七郎だ!」
七郎とは十兵衞の幼名である。
二人は再会を祝して、道場の中央で剣を交えた。柳生の道場で使用される袋竹刀を手にとって、両者は剣を構えた。
続く打ち合いは、両者にとって激しくも嬉しいものであった。
「浅い!」
助九郎が激しく十兵衞の小手を打つ。それに参る間もなく、十兵衞の脇腹を打ち、面を打つ。
時折、意識が弾け飛びそうな中で、十兵衞は助九郎の剣を観察していた。軽捷なるをもって聞こえた助九郎の剣術は現所に在ってなきが如し、助九郎の身はしばしば十兵衞の視界から消えた。
これはただ単に、十兵衞が隻眼という事だけが理由ではなさそうだった。それこそが柳生新陰流の正統にして神妙なる剣筋であるのかもしれない。
「まだまだ!」
人斬りの中で体得した十兵衞の荒々しい剣技は、助九郎に翻弄されつつも、次第に剣の理を備えた流麗な太刀筋に変わっていた。十兵衞は実戦の中で失ったものを取り戻しつつあったのである。
やがて日が暮れた。両者は全身に汗をかきながら向かい合っていたが、やがて、どちらからともなく大声で笑いあった。
暮れて夜になり、十兵衞は助九郎と道場で酒を飲み始めた。中央に燭台を置き、酒を飲みつつ助九郎と語り合う。
助九郎が神主姿だったのは、この道場が元は古い神社であったからだという。戦乱の最中に主は姿をくらませてしまい、忠長が藩主になるまで廃墟同然であったらしい。宗矩はこの神社を改装し、助九郎を神主にすえて、駿河・裏柳生の活動拠点にしたというのだ。
「似合うな助九郎」
「いやいや、なんの。やはり小生には忍び装束の方が似合いますな。神の名を借りて人を騙しているような気分ですから」
助九郎は酒を飲みつつ豪快に笑った。平素は笑う事もない生活の日々であるのか、と十兵衞はふと思った。裏柳生の宿命が、明るい生活であるはずがない 。かつて十兵衞が京都で過ごした日々がそうであったように。
「……助九郎」
十兵衞は酒杯を床に置いて、助九郎ににじり寄った。
「裏柳生は、忠長様を如何する所存であるか」
十兵衞は裏柳生が許せぬ。宗矩の嫡男として、いずれは裏柳生の総帥となっても不思議はない身なれど、十兵衞は忠長の臣でもあるのだ。
他の藩士を差し置いて、忠長が愛する女性を守る身であるのだ。十兵衞は自身の屋敷の手配が済まぬ事に、隠された意図を見抜いていた。
忠長の愛妾・霞を守る。
それが忠長から十兵衞に与えられた秘密裏の使命であった。
「宗矩様は忠長様を……」
助九郎は急に額に汗を浮かべた。
「宗矩様は修羅と成られたのです」
「修羅に?」
十兵衞も不意に背筋が凍る思いを感じていた。
―――時間は一月ほど巻き戻る。
江戸城の幕閣の内々で微かな動揺が起きていた。
その動揺は、突然の伊達政宗公の来訪で始まった。
「いかがされましたか政宗公?」
伊達政宗公を出迎えたのは、柳生宗矩であった。今や諸大名ににらみを利かせる幕府大目付・但馬守宗矩である。さすがの梟雄・政宗も不躾な行いには出られぬはずであった。
「おお、柳生殿。一つ目小僧は息災か?」
伊達政宗は不適に笑った。豊臣の家臣であった頃から無頼を通した政宗公だ。宗矩相手でも媚びる気配もない。
「は」
宗矩は苦い声でうつむいた。一つ目小僧とは十兵衞の事である。
幼少時、十兵衞は宗矩との稽古の最中、右目を失った。以来、感情表現のない子と化した十兵衞は、たまたま城内で伊達政宗公に会い弓馬と鉄砲の術を教えこまれた。
宗矩すら不思議に思う光景であった。宗矩はすでに十兵衞に剣を教える気にはなれず、助九郎に任せきりであった。
十兵衞は砂が水を吸うように政宗公から弓馬を学び、鉄砲の扱いも自得した。十兵衞はその日の内に騎乗したまま鉄砲を撃つという妙技を得た。
―――やりおったな小僧! あやつなら我が軍の左翼を任せてもよい。
そう呟いた政宗の姿が、宗矩の脳裏によみがえった。この場合は軍の半分を任せるという意味か。
その時、宗矩の胸に渦巻いた感情は嫉妬であった。以来、宗矩は政宗公を快く思っていない。それにしても、なぜに政宗は江戸城を訪れたのか。
「こんな文が届いた」
政宗公が宗矩の前に書状を広げた。宗矩は屈んで書状をのぞきこむ。
「……何!?」
「駿河大納言殿は、えらく退屈と見えるな」
政宗は扇を取り出してあおぎながら、声だかに笑った。
「駿河大納言殿、叛心を現したか?」
政宗はニヤニヤしている。かつては豊臣秀吉にも敵対した梟雄である。胆力は宗矩さえ及ばぬ。
「……馬鹿な」
宗矩は小さく呟いた。手渡された書には忠長の言葉が書き連ねられていた。
江戸の徳川幕府を討ち、忠長を将軍とした新たな幕府を開く為に助力を願うとある。つまりは幕府打倒の檄文であった。
「……忠長様が?」
宗矩は一人呟く。密書にしては、単純で幼稚な文章であった。ましてや、幕府を討つなど夢物語もいいところである。本当に忠長が書いたのか疑わしくもある。
「どうやら各地の大名に届いておるようだぞ……」
政宗は隻眼を細めてニヤリと笑った。再び戦火が起こるのを、待望しているようにも見受けられる。
宗矩は書状を手にしたまま茫然としていた。心の底では忠長を廃する絶好の機会を得たとほくそ笑んでい
た。
この瞬間、宗矩は修羅たる本性をむき出しにしたのだった。
裏柳生は修羅の道と十兵衞は宗矩から言い聞かされていた。修羅の道を進む事に心を固めていた十兵衛だが。
「そのような密書が全国の大名に届き、不穏な気配が満ちているのです」
助九郎が苦々しげに呟いた。もはや酒の酔いも消えたようだ。
「忠長様が……」
十兵衞もまた酒の酔いから覚めていた。忠長が全国の大名に密書を送っていたとは信じられぬ。
しかし不穏な気配は信じられる。父・宗矩の密偵は日本全国に派遣され、その情報網は、この時代に相応しからぬ早さと正確さと広さを以て知られている。
宗矩はすでに世相を悟っているのだろう。天下の諸大名すでに幕府に立ち向かわぬと。そこまで理解した上で、忠長暗殺の秘事を推し進めているのだ。
「修羅か……」
十兵衞は置いた杯を再びあおった。一口に飲み干しても酔いを得られない。修羅の道を進む父に寒気がする思いであった。
父がそこまで権力に執着するのは、やはり過去の屈辱ゆえなのか。かつて奈良・柳生の庄は豊臣によって領地を没収され、極貧の憂き目に遭遇したと聞く。
未曾有の極貧状態に、柳生の庄の男達は兵となって各地に散っていった。助九郎は、その頃に柳生の庄に生まれ育ち、極貧を経験している世代である。
十兵衞の知らぬ世界を見て育ち、剣を磨いてきた男だ。成長して後には裏柳生の一員として大阪の陣にも参戦している。助九郎の潔さは、その辛苦の半生から学び培ってきたものであろうと十兵衞は推測する。
だが、父・宗矩は違っていたのだ。十兵衞には宗矩の描く理想図が見えるような気がした。
名実共に兵法天下一の柳生新陰流。
その為に手段を選ばす功名を為す。
それが宗矩の描いた図なのだ。
兵法の強弱を競い、その勢力を広げ、最高権力者の信頼をも得て、この日本に君臨する絶対の存在が柳生新陰流なのだと宗矩は武威を示したいのだ。
「父上……」
十兵衞は夢に現れた老人を思った。やはり、あの老人は十兵衞の祖父・石舟斎であったろう。宗矩と反りが合わなくなり、いつしか交流がなくなったというが、今の十兵衞には、その理由がよくわかる。石舟斎と宗矩の進む道は、あまりにも違う。
石舟斎は十兵衞の眼前に広がる無明の闇を断つ為に、冥府より秘伝を授けてくれたのではないか。
十兵衞が助九郎の元を訪れた夜、霞の屋敷に佐助の姿はなかった。
「どこに行ったのかのう……」
霞は美しい眉に憂いを秘めて、寂しそうな顔で夕食の支度をしていた。屋敷に住む者全員が食事時には顔を見せるのに、佐助だけがいなかった。
「いい女でも出来たのではありませぬか?」
一真の命を救ってから、才蔵老人は再び穏やかな笑みを浮かべるようになった。霞にはそれが嬉しいが、才蔵老人の腹の底まではわからない。
「この膳は、一真の分じゃ」
霞は侍女に膳を運ぶように命じながら、甲斐甲斐しく動き回る。以前には見られなかった活発ぶりだ。
才蔵老人は、細目で霞を見つめながら手酌で酒を飲む。霞の焼いた川魚は、よく焦げて真っ黒であった。
佐助は駿河城の石垣を登っていた。
濃緑色の装束に身を包み、石垣を蜘蛛のように這い登る。五体を鍛え抜いた佐助ならではの技である。
(忠長……)
石垣を這い登りながら、佐助は忠長と初めて会った時の事を思い出していた。
佐助は才蔵老人率いる旅芸人一座の一員として、諸国を放浪していた。事実は真田幸村の残党であった。
徳川への報復を胸に秘め、幸村の遺児・霞を擁しての旅であった。佐助は芸人としても手練れであった。父より猿飛の名を引き継いだ佐助の体術は群衆の度肝を抜いた。
駿河へやってきたのは、才蔵の深謀に拠るものだった。霞には知らされていないが、三代将軍・家光の実弟である忠長に、才蔵はなんとか接触したかったのである。徳川への報復の足掛かりとする為に。
幸い十四歳になり、美しく成長した霞は一座の人気者になりつつあった。明国の衣装をまとい、二本の唐剣を振るいながら舞う霞は阿国のようだ、と騒がれたものである。もっとも、この頃は阿国の影響を受けて、女歌舞伎が流行していた。多くは花を売る女郎まがいの者達であったが。
そんな頃に、忠長がお忍びで一座を訪れた。そして霞に一目惚れした。真っ赤になりながら、霞と才蔵老人を説得していた忠長の姿が佐助のまぶたの奥でよみがえった。
(……殺す!)
佐助は心中に呟いた。その身は、いつしか天守閣の屋根の上にあった。
佐助は見たのだ。忠長が家臣を無礼討ちにした様を。殺された女中が城の外に運び出されていく様を。全て忠長の仕業であった。
(……許せぬ!)
佐助の怒りは義憤であった。信じた忠長の暗黒の業に佐助は裏切られた思いがしたのだ。
また霞が哀れに思えた。もう三ヶ月も忠長は霞の元を訪れてはないない。
(今夜だ!)
そう決意した瞬間、佐助は背後に人の気配を感じて振り返った。
佐助は月光の下に、はっきりと忍び装束姿の人影を見た。
はっとして佐助は身を伏せた。天守閣の屋根の上に、自分以外の何者かがいた―――
その事実に驚く間もなく、佐助は臨戦体勢に入っていた。
佐助の視線の向こうで、忍び装束の人影も咄嗟に身を伏せている。背に刀を差しているのが佐助には見えた。その忍びも佐助の存在に肝を抜かれたらしい。身を伏せたまま、逃げようともせず、かといって仕掛けてくる風でもない。
(……しかけるか)
佐助はゆっくり立ち上がった。六尺五寸(約百九十五センチ)の長身を濃緑色の装束に身を包んだ佐助は、深く闇に溶け込んでいた。
佐助は天守閣の屋根の上を、対峙する黒装束に向かって静かに歩み始めた。佐助の心は、すでに空の領域であった。恐れも迷いもなかった。
黒装束が身を伏せたまま、佐助に向かって何かを投げた。月光に反射したのは十字型手裏剣である。
佐助の身が宙に飛んだ。猿飛の名に相応しい身軽さで、佐助の体は夜空に舞い上がっていた。
体をひねりながら大きく弧を描き、佐助は黒装束の背後に着地した。人間離れした体術である。ましてや一瞬の早業であった。おそらく、黒装束の視界から突如として佐助の姿は消えたであろう。
「動くな」
佐助は茫然自失としていた黒装束を後ろから羽交い締めにした。そして懐から取り出した苦無型手裏剣を右手に握り、黒装束の喉元に刃を押し当てる。その時になって、佐助は黒装束が柔らかな体をしている事に気がついた。
(……女?)
佐助の判断は一瞬である。女好きの佐助だが、命のやり取りをしている時にまで、煩悩に悩まされる男ではなかった。
戦いの時には全てを捨てる。己の命までも。そして全力を発揮する。勝ち負けに関わ りなく。それが戦を経験した者に共通する意識であったろう。
「何者だ?」
佐助は苦無の刃を黒装束――― 女忍者の首に押しつけながら囁いた。女忍者が妙な動きを見せれば、一瞬で首を裂くつもりである。
「……」
女は自身の命を佐助に握られている恐怖からか、黙って動けなくなっていた。
「言え」
「……」
「殺すぞ」
「……や、柳生」
女の口から、あまりにも意外な言葉が漏れた。
「や…… 柳生の、お、隠密……」
女忍者は慎重に言葉を紡ぐ。
佐助もまた慎重に女の言葉に聞き入った。
夜が明けて朝になると十兵衞は助九郎の元を辞した。なんともふんぎりのつかぬ、納得のいかぬ別れであった。
「我は柳生の一剣士」
昨夜、十兵衞と酒を飲み交わしながら、助九郎が導き出した答えは単純であった。
「例え忠長様に非あらずとも、我が剣は宗矩様に捧げております」
そう言って十兵衞を見据える助九郎の瞳には、決意を新たにした力強さが宿っていた。
「いずれは忠長様を斬る…… その為の剣であると心得くださいますよう」
助九郎の決意に、十兵衞は抗う事はなかった。石をも断つかのような強い意思、その気概こそ十兵衞の好む心意気であった。
「……いずれは剣を交えるのか」
「若が忠長様の臣として義に殉ずるならば」
助九郎の顔からは、すでに笑みが消えている。
「もし相対する時あるならば、その時は手加減無用と今からお頼み申し上げておきます」
「いや、俺の方からも頼む。助九郎の剣にならば、俺は斬られても本望だ」
「若! そのような心意気で、かかる重大一事に臨む所存でありまするか!」
助九郎の火を吹くような烈火の怒声が、一夜明けた十兵衞の耳の奥にまだ残っている。
十兵衞は道場を後にした。敷地の入り口から道場に振り返ると、すでに小さくなった助九郎の姿が見えた。それに手を振るでもなく、十兵衞は背を見せて帰路につく。
(助九郎……!)
十兵衞の心は泣いていた。幼い日の助九郎との修行を思い出しながら。助九郎は十兵衞にとって第二の父であった。その父と、やがては剣を交えねばならぬのか。
(だが手加減などせぬ、できぬ……!)
十兵衞は唇を噛み締めながら、霞の屋敷へと足を早めた。