5 死闘十兵衛
「忠長様が化け物だと? どういう事だ?」
十兵衞は佐助の言葉の意味を図りかねて聞いた。
「俺は見たのだ!」
佐助が怖い顔をして怒鳴った。十兵衞はそんな佐助を見るのは初めてだった。
「夜毎、城に忍び込み、忠長様の所業を見てきたのだ…… 俺は信じなかった! 名君と誉れ高かった忠長様が、悪鬼とも思えるような所業を行うなどと……!」
佐助の顔は憤怒の形相に変わっていた。忠長への嫌悪感から、怒りが生じているように見受けられる。
「……十兵衞、猿狩りだが」
何を見たのか、と質問しようとした十兵衞を遮り、佐助は言葉をつむいだ。
「二万人が動くらしい……」
「……二万!」
十兵衞は驚愕した。いかに忠長が駿河五十五万石の太守でも、家臣の数はおそらく五千人強であろう。その一族朗党全てをかき集めても、二万人に達するだろうか?
ましてや、忠長の家臣は江戸旗本の次男三男が中心ではなかったか。十兵衞の想像を遥かに越える驚愕すべき人員数であった。
「……浪人も雇われている」
佐助は吐き捨てるように言った。
「やつら、猿狩りを戦と勘違いしてやがる。猿を狩って、手柄にしようとしてるらしい……」
佐助は憤怒の形相で呟いた。やるせない気持ちなのだろう。猿飛の名の示す通り、猿は佐助にとって身近な存在なのだ。
「……ぬう!」
十兵衞は突然、佐助に背を向けて屋敷を出た。そして、十兵衞は駆け出した。猿狩りの件で一真と話がしたかった。
裏柳生はどうする気なのか、 と。
愛刀・三池典太は十兵衞の腰にある。
一真は何が起こったのか、わからなかった。一瞬で左腕が切断されていた。
左腕は、二の腕あたりで切断されて宙を飛ぶ。直後に走った激痛に耐えかねて、一真は両膝をついた。
「……あ! あー!」
一真は左腕を押さえて叫ぶ。傷口から流れ落ちる血は止まりそうもない。 そして一真は見た。美しい夕焼けの中に浮かぶ木立の影を。その中に蠢く、黒い人影を。その黒い人影の元に、一条の鎖が戻っていくのを。
「つ……!」
一真は土蜘蛛と言おうとしたが、激痛に耐え難く、言葉を続けられない 。
人影が身軽な跳躍を繰り返し、一真の元に近づいてきた。そして一真の前に立つ。細く長身の黒装束姿の全身に、激しい感情が満ちている。
「き、貴様……!」
一真は歯を食いしばりながら、土蜘蛛をにらみ据えた。
「……久しいな」
土蜘蛛は小さく呟いた。黒頭巾からのぞく瞳には、憎悪の色が浮かんで いた。右腕を切断した十兵衞への憎悪なのか。 その土蜘蛛の右腕は義手に変わっていた。肘から先は黒装束の袖に隠れてよくわからないが、手首の部分には三日月型の刃が取り付けられている 。
先ほど一真を襲ったのは、土蜘蛛の義手に取り付けられたこの刃であったのか。鎖をしこんだ、鎖鎌のような武器であるらしい。
「……三厳様は、あの屋敷か」
一真は答えない。激痛と出血に意識を保つだけで精一杯である。 半死半生の一真を見下ろして、土蜘蛛の目が笑った。
一真は切り落とされた左腕の痛みにこらえながら、土蜘蛛をにらみつけた。
「十兵衞様に何をするつもりだ……」
言いながら一真は立ち上がった。一真自身が思いもよらぬ気力の発揮であった。黒頭巾からのぞく土蜘蛛の目が、好奇に笑った。
「さ、逆恨みか……!」
一真は微かに全身を震わせながら、右手で刀を抜いた。そして土蜘蛛を前にして仁王立ちになる。全身の力が抜けそうになるのを一真は歯を食いしばって耐えた。
「……違う」
土蜘蛛の目は笑っている。
「……狩りだ」
「……何?」
「……三厳様は俺の獲物だ」
その瞬間、土蜘蛛の目が純粋な輝きを帯びたのは、奇異な事かもしれない。
「獲物だ、と……?」
「そうだ、あれほどの剣に巡り会えるとは幸運!」
土蜘蛛は興奮して熱を帯びているようだ。自分の右腕を切り落としたのが十兵衞だという事など、意にも介していないようである。
「関ヶ原でも、大阪でもあれほどの遣い手はいなかった…… 」
土蜘蛛は遠い目で空を見上げた。
関ヶ原、大阪といえば、戦の事であろう。大阪の陣には宗矩率いる裏柳生の忍びも多く参戦しているが 、天下分け目の決戦と言われた関ヶ原にまで土蜘蛛は参戦していたようだ 。もっとも裏柳生に参入する以前の話のようである。
「あやつは俺が狩る…… お前らに邪魔はさせん」
一真の眼前で土蜘蛛の右手が上がった。ジャラ、と鎖が鳴った。見れば 、右手の義手から鎖が垂れ落ちている。その先には一真の左腕を切断した三日月型の刃が陽光に反射して輝いていた。
(……これまでか!)
一真は死を悟った。土蜘蛛に抗う力はすでに残っていなかった。ならば、せめてもの抵抗と一真は土蜘蛛をにらみ据えた。
だが、土蜘蛛は一真の方を向いていなかった。土蜘蛛の視線は、夕陽の彼方の地平線を見ていた。霞の屋敷の方向である。
「……来たか!」
土蜘蛛が歓喜の声を上げた。土蜘蛛の義手の先で、鎖のついた鎌が揺れる。
「……十兵衞様!」
一真は夕陽を背にして、こちらに走り寄ってくる十兵衞の姿を見た。
一真は全身から力が抜けるのを感じていた。夕陽を背にして走り寄って くる人影は、正に十兵衞ではないか。その姿を見たら、なぜか心が安らい だ。一真は刀を取り落とし、両膝ついて、地に倒れた。
「……一真!」
と呼んだのは十兵衞だった。走りながら叫んだのである。十兵衞にとっては、あまりにも奇な事である。まさか、一真が帰りがけに襲われるとは ……
ましてや、その刺客が十兵衞の右目に深い傷痕を残した土蜘蛛であるとは!
裏柳生から姿を消したという話を聞いた時に考慮すべきであった、 配慮が足りぬ!と十兵衞は自身を叱責した。
「……十兵衞!」
叫んだのは土蜘蛛であった。一真が十兵衞と呼ぶのに感化されたか、土蜘蛛もまた、三厳から十兵衞へと呼び方を変えた。
土蜘蛛の頭上で鎖が回る。右手の義手に取り付けられた鎖鎌である。刃が光輝き、そして一直線に十兵衞向かって突き進む。
十兵衞は足を止めた。瞬時に右手が動く。抜き放った脇差しの一閃が、 鎖鎌を打ち払う。鋼の打ち合う音が虚空に響き渡った。
「おお!?」
土蜘蛛の声は歓喜であるのか。十兵衞の脇差しの一閃は絶妙と呼べる域に達していた。
「……児戯だな」
十兵衞は呟きながら、左手で愛刀・三池典太を抜いた。そして二刀を提げながら、土蜘蛛との間合いを一歩、また一歩、静かに詰めていく。
十兵衞は生来、左利きであった。幼少時に父・宗矩から剣を学んだ時に 、右利きに矯正された。
以後、独自の鍛練を続け左右いずれも刀を振るえるまでに至った。 また、寛永三年(一六二六)に家光の小姓を辞して京都へ隠密として赴いた際には、幾多の実戦を経て二刀の術を身につけた。
斬殺の修羅場を経て身につけた十兵衞の二刀は虚実に満ちた邪剣であるが、対峙する者を混乱と恐怖に陥れる必殺の剣である。
だが今、眼前の敵に十兵衞の二刀は通ずるのか―――
「……やりおる」
黒頭巾からのぞく土蜘蛛の目は狂喜に満ちていた。手元に引き寄せた鎖鎌を再び頭上で旋回させる。土蜘蛛の義手に連なった鎖鎌の刃が空を裂く。
土蜘蛛との間合いはおよそ五間(約九メートル)。十兵衞が刀で踏み込むには遠い距離である。
だが土蜘蛛の鎖鎌は届く。土蜘蛛に圧倒的有利な間合いであった。十兵衞はちらりと地に倒れた一真を見た。切断された左腕からは、おびただしい流血がある。
助けねばならぬ、だが土蜘蛛が十兵衞の前に立ち塞がる。
己の命も一真の命も土蜘蛛の手中にある。
その事実を前にして十兵衞の全身は冷えた汗を流す。
だが十兵衞の闘志は衰える事を知らぬ。
十兵衞は左手に三池典太、右手に脇差しを提げて土蜘蛛と対峙する。
十兵衞の心からは感情も理性も消える。
心は白紙となる。
十兵衞は一歩踏み込んだ。更に一歩。土蜘蛛の鎖鎌の間合いに十兵衞は臆した風もなく踏み込んでいく。
すでに十兵衞の頭に忠長はない。倒れ伏している一真の事もない。死の恐怖もない。
斬るという意志だけがある。その十兵衞の静かな気迫に気圧されて、土蜘蛛は鎖鎌を放つ事も忘れている。
ついに十兵衞は土蜘蛛の眼前一間(約一・八メートル)ほどの距離にまで踏み込んだ。
すでに土蜘蛛は鎖鎌を頭上で旋回させる事も忘れている。 十兵衞は更に一歩を踏み込んだ。 土蜘蛛が叫びながら左手の鉤爪を十兵衞に打ちこんだ。
十兵衞は右手の脇差しで土蜘蛛の鉤爪を横に払う。 そして三池典太の一刀を土蜘蛛の頭上に打ち下ろした。
夕陽の浮かぶ空に絶叫が響いた。土蜘蛛の身が後方へ飛んだ。 十兵衞の意識は現実に引き戻された。
十兵衞は左手の三池典太を降り下ろした姿勢のまま、眼前でうずくまる土蜘蛛の姿を見据えた 。土蜘蛛は左手で顔を押さえている。
「……十兵衞!」
土蜘蛛は顔を上げて、十兵衞をにらみ返してきた。土蜘蛛の左目は縦一直線に切り裂かれていた。十兵衞の一刀が刻んだ傷跡だ。その傷跡からは絶え間なく血が流れ落ちている。
更には土蜘蛛の顔が露になっていた。顔をすっぽり包んでいた黒頭巾は、切り裂かれて地に落ちている。土蜘蛛の頭部には火傷や刀創の傷跡が残り右耳もなかった。
一目見たら忘れられぬ無惨な傷跡に覆われた顔だった。おそらく全身にも傷跡が刻まれているのであろう。幾多の死線をくぐり抜けてきた名誉の負傷―――
敵である事も忘れ十兵衞は土蜘蛛の傷跡に敬意を抱いた。その土蜘蛛は年の頃五十代か。右の凶眼が鋭く十兵衞を刺してくる。
「……十兵衞!」
激しい怒りの声。
「貴様はわしが殺す……!」
土蜘蛛は十兵衞に背を向けて宙に飛んだ。木々を伝って、その影が夕陽の中に霞んで消えた。 十兵衞は土蜘蛛の姿が見えなくなると二刀を鞘に納め、地に伏した一 真の元に屈み込んだ。
「一真!」
一真は生きている。だが、虫の息だ。十兵衞は刀の下げ緒をほどき、一真の左腕に縛り付ける。荒療治の止血法だが果たして効果はあるのか。
「死なせはせぬ! 惜しい! 生きてくれ一真!」
十兵衞は一真を起こし肩を貸して歩き出した。その時、夕陽の向こうから一人の影が見えた。十兵衞の慌てぶりに追ってきた佐助である。
「佐助!」
十兵衞は叫んだ。
「この男死なせたくはない!」
十兵衞の叫びが夕闇の中にこだまする。
やがて夜が明けた。霞の屋敷には静寂が満ちていた。 土間には御座が敷かれ、その上に一真が寝かされていた。切り落とされた左腕には、包帯が十重二十重に巻かれている。
「ふう……」
格子窓から差し込む陽光の中で一真の側に座り込む才蔵老人が息をついた。顔には疲労が色濃く浮かんでいる。才蔵は一真の腕の切断面を縫合したのだ。幾多の戦場を経た才蔵は、外道医の術も学んでいた。戦で傷ついた仲間の治療を行った事もある。才蔵の経験と技術が、一真の命を救ったのだった。
「爺……」
才蔵の傍らでは、霞が泣きそうな顔で才蔵を見つめていた。
「姫……」
疲労困憊の才蔵だが、霞を前にして笑みが漏れた。霞は才蔵老人に抱きついて、おいおい泣いた。徹夜で人命を救う作業に没頭し、その行いに達成感と感動を覚えたと見える。
十兵衞と佐助は壁に背を預け満身創痍に喘いでいた。一真の左腕の切断面を縫合する為に骨を削り傷跡の一部を焼き、暴れる一真の体を押さえつけなければならなかった。一真の命がかかっていた
のだ。
十兵衞は立ち合いに似た緊張感を一晩中感じ続け、極限まで精神をすり減らしていた。
「はあ……」
十兵衞は深い溜め息と共に横たわる一真を見た。一真は精気のない蒼白い顔で眠っている。生きている。 十兵衞の隣で壁に背を預けていた佐助は寝ていた。十兵衞もまた、格子窓から差し込む陽光を美しいと感じながら、急速に意識を失った。
数日後、意識を取り戻した一真から、十兵衞は駿河の裏柳生を統べる元締の名を聞いた。
木村助九郎。
父・宗矩の高弟であり、かつて十兵衞も剣の指導を受けた事もある。
「申し訳ありませぬ……」
左腕を失い生死の境をさまよった一真だが、未だに裏柳生たる使命を忘れてはいないようだ。十兵衞には、その気概が好ましい。
「あとは任せよ」
十兵衞は腰に三池典太を差して霞の屋敷を後にした。木村助九郎に会わねばならなかった。
裏柳生による忠長暗殺の暴挙に一矢を射るために。