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柳生無明剣  作者: MIROKU
4/9

4 それぞれの暗躍



 十兵衞が目を覚ましたのは三日後だった。

 目覚めると、十兵衞は屋敷の一室に寝かされていたのだ。まだ体がよく動かない。右目には包帯が巻かれ、切り裂かれた傷がひどく痛む。

 寝床の中で唸り声を発していると、霞達が集まってきた。

「十兵衞……!」

 霞が涙ぐむ。袴姿ではなく着物姿だ。そうしていると高貴な身分の姫に見える。やはり真田幸村の血を引く、身分卑しからぬ娘なの だ。

「生き延びたな、十兵衞……」

 佐助は苦笑していた。佐助は十兵衞とどう接していいのかわからないようだ。

 三日前、夜襲をしかけてきたのは十兵衞の父の配下である裏柳生なのだから。

「十兵衞殿、話を聞かせていただきたい」

 才蔵老人は厳しい眼差しで十兵衞を見ていた。すでに温厚な老爺の面影はない。

 そう、かつて真田幸村配下の忍びとして勇名を馳せた霧隠才蔵の顔がそこにあった。

「爺!」

 霞の声にも才蔵は動じぬ。黙って十兵衞を見据えている。



 大納言忠長は朝の調練中であった。

 槍の調練だという。忠長の元に訪れた筆頭家老・朝倉宣正は目をむいた。忠長は庭に出て上半身裸で槍をしごいていたからだ。

 しかも槍の的は藁人形などではない。立てられた柱に縛りつけられていたのは、忠長の小姓の一人ではないか。

「……ふん!」

 忠長は引き締まった上半身に汗を浮かべて槍を突き出す。その穂先が縛りつけられている小姓の腹部に突き刺さる。

 小姓は声も立てぬ。見ればすでに何ヵ所も刺し貫かれていたようで、その全身は血に染まっていた 。小姓はもう死んでいるようだった。

「……忠長様」

 朝倉の声が微かに震えていた。この狂気の名君には服従するしかないのだった。

「どうした?」

 朝倉を向いた忠長の顔に表情はない。額に汗を浮かべ肩を弾ませてい る。小姓に突き刺した槍をそのままに忠長は朝倉に歩み寄る。

「……例の件、万事整いましてございます」

 朝倉は忠長の前に片膝ついて平伏した。

「そうか」

 忠長はそれだけ言った。例の件とは浅間山の件である。浅間山では白猿が神獣として崇められていたが、それ故に数が増えて、人里にまで下りてきて、作物を食い荒らしているのだ。

 民衆の必死の訴えに応じて忠長 は白猿狩りを行う事を決意したのである。千頭を越える白猿を狩る為に動員される人数は予定だけで一万人を越えていた。

 朝倉は、その準備が整った事を忠長に伝えに来たのである。

「……」

 しかし忠長の気は白猿狩りには向いていなかった。空を見上げて夢想しているようである。

「……忠長様?」

 朝倉の声に忠長は我に返ったように呟いた。

「姫は元気か?」

 姫とは愛妾の霞の事である。

「は、はい……」

「そうか……」

 忠長は再び空を見上げた。白い雲が青空を横切って流れていく。



 十兵衞が起きてから二日後、裏柳生の夜襲から五日が経過した昼下がりの事である。

 屋敷の庭で霞の稽古相手を務めていた十兵衞に、侍女が客人の来訪を告げた。

「……何、駿河の剣術指南?」

 訪れたのは駿河の剣術指南役だという。駿河五十五万石、家臣の数はおよそ五千。剣術指南だけでも十数人はいる。その中の一人であろうか 。父・宗矩の門弟達は、各地の諸大名の元に、剣術指 南役として送り込まれているはずだ。

「……会おう」

 十兵衞の中で何かが閃いた。膨れっ面で文句を垂れる霞に丁重に頭を下げながら、十兵衞は客人の待つ部屋へと向かう。

「……三厳様」

 侍女に通された部屋には年の頃三十代と思われる武士がいた。精悍な顔つきだが目元が優しい。その武士が座したまま、十兵衞に頭を下げた 。十兵衞は裏柳生の者だと直感した。

「……あの夜の者だな?」

 侍女が部屋を去った後、十兵衞は武士に尋ねた。

「いかにも……」

 武士は再び頭を下げた。

「拙者は、藍原一真と申します」  丁寧な物腰の中に鋼のような魂を感じて、十兵衞は感嘆する。恐らくは、かなりの遣い手である。

「……何の用だ?」

 十兵衞は一真の前に腰を下ろした。一真は忠長の剣術指南である以前に裏柳生の者でもある。そして、その裏柳生は五日前に屋敷に夜襲をかけてきているのだ。

 あの夜は土蜘蛛と名乗る忍びが霞を襲っただけで、他に何の被害もなかった。だが、油断のならぬ相手には違いない。

「この屋敷の者に手出しはならぬ」

 首筋に言い知れぬ緊張を感じながら十兵衞はぴしりと言った。

「この屋敷には忠長様の奥方様がおられるのだ。奥方様に手出しするなら 、この十兵衞がお相手する」

 十兵衞としても不思議な言葉が口から飛び出した。自分の言葉は父宗矩に反旗を翻すに等しい言葉ではないのか。

 つまりは、裏柳生の総帥の嫡男でありながら、裏柳生を敵に回そうとしているのではないか。その考えが十兵衞の心に緊張と不安を同時に生じさせて止まぬ。

「……三厳様」

 一真は額を畳みにこすりつけんばかりにして微かに呟いた。

「……忠長様は、すでに幕閣から見捨てられ申した」

「……何?」

 十兵衞には話が見えない。

 瞬間、時が止まったように感じられた。



 十兵衞は一真の話を聞く内に、心中に震えが走るのを感じていた。

 一真の話はある種、滑稽ですらある。 忠長は各地の大名に密書を差し出して倒幕を誘っているというのだ。

 現実的には不可能だろう。十万石以上の大名ですら、何の抵抗もせずに改易されているのだ。それほどに幕府の力は恐れられていた。いや、強大な存在と認識されていたのだ。

 だが十兵衞のように幕府の内情に詳しい者ならば、僅かな不安を覚えるものだ。現在の三代将軍・家光より、弟の忠長の方が諸大名に人気がある。もし、家光と忠長が覇を争うという事態に陥った場合、天下の諸大名はどちらにつくか?

 そして万民は? 

 何もわからないのだ。 更に十兵衞が懸念するのなら、それは人の心である。恨みや怨念の類である。諸大名を次々に改易した事によって巷には浪人があふれている 。全国に発生した浪人は、二十万人以上とも言われている。

 彼らの幕府への恨みを忘れてはならない。諸国を巡り各地の大名の情勢を探るかたわら、多くの浪人と関わってきた十兵衞ならばこそ理解できるのだ。

 浪人達の絶望を。

 浪人達の恨みを。

 浪人達の怒りを……

 それを軽視する事は十兵衞には 決してできぬ。 それとは別に、忠長は多くの腕の立つ浪人を集めている。十兵衞が忠長に召し抱えられたのも特例ではなかった。忠長は優秀な逸材ならば、どんな浪人にも声をかけていたのだ。

 しかし十兵衞にはそんな事はどうでもいい。忠長に士官を求められた時、十兵衞の心は正しく震えた。それは天の導きであったと信じて疑わぬろう。

「父上は何を考えている?」

「……」

「一真!」

「……大納言様暗殺……」

 一真の声は僅かに震えていた。

「暗殺!」

 十兵衞は口に出して呟いた。畏れ多くも将軍の弟を暗殺する。その意味に心胆が冷える心地がする。

 父・宗矩がそこまで考えているとは十兵衞には読めなかった。いや、あるいは将軍家光の密命なのかもしれぬ。

「……江戸より使者があり」

 一真は畳に額をこすりつけて後を続けた。

「大御所様、危急存亡に伏している、とも」

「何、大御所様が!」

 十兵衞は声を荒げた。大御所とは家光と忠長の父、秀忠であ

る。

 忠長を愛し家光を疎んじた父親でもある。家光が忠長憎しといえども何ら手を打てなかったのは秀忠の存在による。秀忠には忠長を廃する事などできはしない。

 家光は秀忠の心をよく理解していた。幼い頃から疎んじられてきたからだ。家光が忠長討伐の命を下しても大御所秀忠ある内は、そんな無謀が通るわけもない。

 その秀忠が危篤に伏しているならば、なるほど家光は動く。そして宗矩も動く。宗矩が動けば裏柳生の精鋭達が動く。

 忍び難きを忍び、耐え難きを耐え、為し難きを為し遂げてきた影の軍団・裏柳生ならば……

「ならぬ!」

 十兵衞は絶叫した。 十兵衞は許せなかった。忠長暗殺を試みる家光とそれを実行に移そうとする父の宗矩が。その二人への反発が口に出た。十兵衞自身、思いもよ らぬ感情の発露であった。

「一真!」

 十兵衞は眼前で顔を伏せる一真に向かって叫んだ。

「すでに遅いのか!?」

 火を吹くような形相で十兵衞が叫ぶ。一真はゆっくりと顔を上げて十兵衞を見た。先程までの優しげな目付きが、今は精悍なる眼光を放っている。

「……為しがたきを為すのが、我ら裏柳生でありますれば」

 いささか蒼白ながらも一真の口調に怯えはない。そういう態度が十兵衞は気に入った。しかし、それと忠長暗殺は話が別である。

「……いつだ?」

 と十兵衞は聞いた。父・宗矩の事である。秀忠危篤となれば早急に事を起こすだろう。

 剣の勝負と同じ事である。好機と見えれば果敢に打ち込むのが宗矩だ。僅かの隙であっても、それが命取りになる。

「……忠長様、浅間山にて猿狩りを催す御様子……」

「何?」

「家臣のみならず山師・浪人を集め、おそらく数万」

 一真の瞳が十兵衞を刺した。

「この戦と見まがうばかりの騒乱に紛れ、我ら裏柳生、事に臨む所存…… 」

 一真は再び額を畳にこすりつけた。一真は十兵衞を駿河での裏柳生の首領として扱っていた。

(何が間違ったのだ……)

 十兵衞は内心に呟いた。

(忠長様が俺を召し抱えたのは裏柳生の襲撃を予期し、霞を守る護衛としてだったのか…… それとも、ただの偶然なのか……)

 十兵衞は己の無知を嘆いた。運命とは人にはわからない。それが恐ろしいのである。

 十兵衞の心は光なき無明の世界に陥ったように、ただただ暗く深く沈んでいった。


 

 一真が帰ってからも十兵衞は一人部屋にいた。黙って腕組みしながら考える。自分は何者か。父・宗矩の下で裏柳生を率いる隠密なのか、それとも忠長に仕える一家臣か。

  答えが出ぬままに十兵衞は庭に出た。すでに日は暮れかけていた。鮮やかな色彩を放つ夕陽が十兵衞の視界に入る。

 その光の中に才蔵老人が厳しい眼差しをして十兵衞を見つめていた。

「才蔵殿……」

 十兵衞の声は力ない。

「……十兵衞殿、我々は」

 才蔵老人は何か秘密を暴露するような、慎重な口調で言葉を続ける。

「最初は…… 幕府への一矢を放つ為、その足掛かりとして忠長様に近づきました」

 やはり、と十兵衞は内心に呟いた。

「しかし忠長様は姫様を愛した…… 姫様もまた忠長様を愛した。その時、わしは自分の間違いに気付いた。姫様を利用して幕府転覆を図るなど、亡き主君への無礼に他ならぬと。わしも佐助も幕府への憎しみだけで動いておったが、それは間違いであった。姫様までも利用しようとした我が卑小なる性根、わしはそれが許せぬ!」

 才蔵老人の声に激しい怒気がこもった。

「わしは姫様の為に忠長様を御守りいたす。幸村様も許してくれよう。 十兵衞殿、裏柳生の者共が忠長様を狙うならば、この才蔵、修羅となる。たとえ十兵衞殿が相手でも……」

 才蔵老人の気配が夕陽の中に消えていく。なんたる玄妙なる術なのか才蔵老人の姿は夕陽の中に霞んで消えた。

 あるいは、その術こそが霧隠の異名の由来であるのか。大阪の陣では不思議な霧が度々発生し徳川方を混乱に陥れたという。

 十兵衞は無言のまま夕陽を見つめた。鮮やかな夕陽の中に、自分も消え去ってしまいそうな気がした。



 裏柳生による忠長暗殺の秘事、才蔵老人の忠長を守るという覚悟、そして己の進退……

 と悩む事は多々あれど、十兵衞は眠りについた。 夢の中で十兵衞は柳生の庄にいた。幼い頃に育った柳生の庄であった。

 十兵衞はいつしか大岩の前にいた。竹林の側にあるこの大岩は一刀岩と呼ばれている。身の丈を越える大きな岩が真っ二つに割れている。

 割ったのは十兵衞の祖父である石舟斎と伝えられていた。 その一刀岩を前にして十兵衞はたじろいだ。こんな岩を斬れるわけがないと。

 たとえ割るにしても、こんな大岩をどうしたら割れるのか?

 十兵衞には不可能にしか思えない。これを可能にするのは神憑り的な、文字どおりの神業だけであろう。

「……如何されたかな?」

 背後に老人の声を聞いて十兵衞は振り返った。腰の曲がった小柄な老人がいた。穏やかな表情の中に十兵衞は父宗矩の面影を見た。

「いや、この岩を斬るには、どうすれば斬れるかと思案しておりました 」

 十兵衞はすらすらと心情を述べた。老人はひょ、ひょ、ひょと奇妙な笑い声を上げた。

「信じる事じゃ、七郎」

 老人は十兵衞の幼名を呼んだ。

「信じるからこそ斬れるのじゃ」

 老人は尚も続けた。

「斬れぬと思えば斬れる物も斬れぬ…… 斬れるかもという疑念も即ち失敗に通じる…… 斬れると信じ、ただ繰り返し、そうして斬れるようになるのじゃ」

 十兵衞は老人の言葉に、剣の道の深奥を覗きこむようであった。

「見ておれ」

 老人は言った。言った途端に腰が伸びた。それだけではない。顔つきも声の調子も変わっていた。

 十兵衞は目を剥く思いであった。老人は十兵衞より頭一つ以上小さいのに、背筋を真っ直ぐに伸ばして鋭い眼光を放つ姿には、気圧されそうになる。

 老人はいつの間にか一刀を手にしていた。見れば一刀岩の割れ目も閉じていた。亀裂一つない巨岩を前に老人は静かに踏み込んでいく。

(夢だ、夢だ、これは夢だ……)

 十兵衞は今目にしている光景が夢だと認識していた。だが眼前の老人が放つ剣気は夢とは思えぬ凄まじさである。

 老人が剣尖を上げた。そして静かに一刀を巨岩に打ち込んだ。あまりにも静かで自然な一刀に十兵衞は見とれていた。芸術的とすら感じられるほどの滑らかな一刀であった。

 カンと軽い音がした。老人の一刀が巨岩の表面を滑った音だ。老 人が打ち込んだ巨岩の表面には小さな切れ目が生じていた。

 そして次の瞬間、巨岩は自らの意志で分かれるように二つに割れたのだ。

 老人が斬りつけた箇所から亀裂が広がったのが十兵衞には見えた。一刀を降り下ろした衝撃が巨岩の内部を伝わり真っ二つに割ったのだ。

「これが秘伝じゃ、七郎」

 老人は十兵衞に笑いかけた。親愛の情が浮かぶ微笑みであった。

「兵法の…… 舵を取りても、世の海を…… 渡り兼ねたる、石の舟かな ……」

 老人の歌と共に十兵衞の意識は急激に覚醒していった。



 十兵衞は夢から覚めた。不思議な夢であった。あの老人の歌が耳の奥に残っている。どこかで聞いた覚えのある歌であった。

(……祖父の歌伝か!)

 新陰流の剣の要訣を伝える歌伝に、石の舟というくだりがあった事を十兵衞は思い出した。 歌伝は流派の秘技を伝える密書のようなもので、他の流派の人間が読んでも理解できぬ内容となっている。

 その流派の技を追い求め術理を体得しなければ、歌伝の意味は理解できないのだ。

 いや、あの歌伝の意味は、夢に現れた老人が石舟斎である事を示す一種の証拠ではなかろうか。十兵衞が生まれる前年に他界したという柳生石舟斎宗厳その人だと。

「……お祖父殿か」

 十兵衞は思いを馳せた。夢の中で出会った老人の親愛の情、宗矩に似た面影、それらが血の繋がりを充分に意識させてくれた。不思議な暖かさすら感じる。

 十兵衞は寝床から起き上がると愛刀を鞘ごと握って庭に出た。庭の石燈籠の前に立つと刀を抜いた。

 愛刀・三池典太を正眼につけながら十兵衞は目を閉じた。閉じた目蓋の奥に祖父石舟斎の動きが蘇った。

 静かで無駄のない動作、芸術的とすら思えた鮮やかな一刀が。  

 かしゅ

 十兵衞の耳に妙な音が聞こえた。石と石が擦り合うような音であった。 十兵衞は目を開いた。そして気がついた。自分がいつの間にか一刀を降り下ろしていた事に。

 十兵衞が無意識に降り下ろした一刀は石燈籠を真っ二つに割いていた。

 石燈籠は二つに分かれて地面に転がっていた。その切断面は磨いたように滑らかであった。



 一ヶ月が過ぎた。

 十兵衞は相変わらず霞の屋敷に居住していた。忠長の元から、十兵衞の屋敷の手配が整った旨を伝える使者はない。

 もっとも十兵衞が一番気にしているのは裏柳生による忠長暗殺の秘事である。

「忙しいのかのう、忠長様は……」

 霞のなんとも緊張感のない声に、十兵衞は励まされる思いがする。自分一人が慌てたところで、事態が進展する訳でもない。霞は十兵衞にそろを悟らせてくれる。流石は真田幸村の遣女であった。

 何事にも動じぬ落ち着いた態度は、男子ならば一軍の大将たるに相応しい風格すら醸し出している。

「さ、十兵衞、今日も稽古じゃ!」

 と言って十兵衞に指導を求めてくるのは一月前に襲われた経験からか 。二度も不覚は取らぬという意思の現れか、霞は剣の修行に没頭する。不思議な事だが料理も上達してきている、と霞の側女の言である。

 屋敷の者にも変化があった。才蔵老人と佐助である。 佐助は屋敷から姿を消している時間が多くなった。どこに行っているのか、それはわからない。

 たまに夜分に霞の入浴を覗いて怒られているが 、気のせいか陽気な笑顔に元気がない。今は女にかまけている様子もないようだ。

 才蔵老人に到っては、もはや笑顔が消えている。庭で盆栽をいじり、何やら思案している風でもある。霞が心配して声をかけると僅かに笑顔を見せるが、それが無理をしている風でもあるので、次第に霞は才蔵老人とも接しなくなってきていた。

 十兵衞の元には一真が訪れるようになった。無論、裏柳生の徒としてである。十兵衞を総帥の嫡子、即ち駿河の裏柳生首領と見なしてである 。

 十兵衞は忠長暗殺など毛頭にはない。ただ、裏柳生の動静だ けは熟知しておきたかった。一真は十兵衞の気持ちを知ってか知らずか 、何も隠し事はしない。

「……土蜘蛛が消えた?」

「はい」

 十兵衞は、土蜘蛛が裏柳生の元を去った事を聞かされ、若干の驚きを感じている。十兵衞の右目に深く長い傷跡を残し、また、十兵衞によって右腕を切断された裏柳生の土蜘蛛は姿を消したという。

「……土蜘蛛は元々、我らとは源流が違いますれば、それが事の一因かと」

  一真が言うには、土蜘蛛は元々の裏柳生ではないらしい。一真の場合は 、一真の父が宗矩に仕えており、戦国時代から続く、生粋の裏柳生である と言ってよい。

「……奴は? 何者なのだ?」

「元は風魔と聞いております」

「風魔!」

 十兵衞は小さく叫んだ。 風魔忍びは、主である後北条氏滅亡後、江戸に流れて盗賊行為を働いていたが、慶長八年(一六〇三)、幕府に捕縛され、首領の小太郎以下全員が処刑された、と伝えられている。

「風魔の残党が…… なぜ?」

「大阪の陣の少し前に、数を減らした裏柳生が人員を補充いたしましたが 、その時、いずこからか参入した……とだけ聞いております」

 どうも、一真にも詳しい事情はわからないらしい。

「元は風魔の者という話ですが、腕は立ちまする…… 私などは足元にも及ばぬでしょう。更には……」

 一真は言い淀んだ後に続けた。土蜘蛛の悪行をである。 任務とあらば、女子供構わず殺し、盗み破壊する。裏柳生の者ながら 、密偵には向かず、もっぱら暗殺や破壊行動に携わっていたという。

 慶長十六年(一六一一)に加藤清正、真田昌幸といった豊臣に縁づく武将が急死している。共に病死とされているが、その裏には秀忠の命を受けた裏柳生が暗躍している。土蜘蛛は、その暗躍の先鋒としても大いに働いたらしい。

「……なんと!」

 十兵衞は小さく叫んだ。真田昌幸といえば霞の祖父に当たる人物である。その真田昌幸の死に、土蜘蛛が関わっているとは……

「如何されました、十兵衞様?」

 この頃では一真も十兵衞と呼んでいた。十兵衞も一真に心を許しているからである。

「いや……」

 霞達を真田の残党と看破している一真に敢えて説明はしないが、この時 、十兵衞は奇縁というものを深く感じていた。

 父・宗矩が秀忠の命によって真田昌幸を暗殺し、更に大阪の陣では決死隊三十人あまりを宗矩が撃退したが故に、真田幸村も勝利を得ずに戦死した。

 その幸村の娘・霞や、家臣であった才蔵・佐助から見れば、十兵衞は仇敵の嫡子として憎悪の対象であってもおかしくないのに、今は屋根を同じくして生活しているのだ。

 これを奇縁と呼ばずに何と呼ぶのか。

 十兵衞は人間の意志が及ばぬ何かを感じずにはいられない。

 神仏の存在と、その導きを感じずにはいられなかった。



 一真が帰路に着いたのは日も暮れた夕暮れ時であった。

「それでは御免」

 門から会釈して立ち去る一真を見送り、十兵衞は屋敷に戻った。一真とは入れ違いに屋敷に佐助が戻ってきていた。

「十兵衞、あいつは柳生の者か?」

 佐助の顔に、陽気な笑みはない。

「そうだ」

 十兵衞は短く答えた。

「なかなかいい度胸だな、一人でやってくるとは……」

「……それより、どこへ行っていた?」

 十兵衞の質問に、佐助は一呼吸置いて答えた。

「……忠長様のところさ」

 佐助は眉間に皺を寄せる。

「忠長様は化け物になってしまったよ、十兵衞……」



 一真は帰路に着いていた。早くも夕闇が降りてきている。

(十兵衞様か……)

 一真は十兵衞の事を思った。一真よりも年下だというのに、威厳溢れる雰囲気を醸し出している。あの風格には裏柳生の誰もが及ばない。

 それに十兵衞の逸話の凄まじさに、一真は心が震えるのだ。 十兵衞は小姓を辞して間もない頃、宗矩の命に従い京都に赴いた。夜半 、盗賊まがいの浪人団に襲われたが、十兵衞は浪人団を十二人まで斬って捨て、敗走させたという。

 並々ならぬ腕である。それほどの豪の者かと、一真は血が騒ぐのを感じている。いつの間にか十兵衞に魅せられている、と言っても過言ではない 。

 不意に、一真は足を止めた。町外れの霞の屋敷から、町中へと続く道の途中である。烏が数羽、騒がしく鳴いている。 一真は風を切る音を聞いたが遅かった。視界に入らぬ角度から飛来した刃が、一真の左腕を切断していた。

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