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柳生無明剣  作者: MIROKU
3/9

3 強襲裏柳生

 十兵衞の父・宗矩の逸話の中で、十兵衞が最も好んでいるのは、大阪の陣の話である。

 宗矩はその頃、徳川家に仕官し二代将軍秀忠の剣術指南として身辺に侍っていた。

 柳生一族の能力を最大限に活用し、徳川の勝利に貢献したと十兵衞は伝え聞いている。

 中でも、宗矩の逸話の凄まじさを伝える話は大阪夏の陣であった。

 秀忠の本陣に殺到した軽装歩兵達、三十人あまりを一人で敗走させしめた事である。

 戦場の緊張感の中、殺気走って秀忠本陣に攻めこんだ兵を前に宗矩は一人で応戦し、瞬く間に七人を切り捨て窮地を脱した。

 その功によって宗矩は秀忠の元で出世、ついには家光の剣術指南役にまで登りつめた。

 宗矩とは別に大阪の陣の伝説といえば、一人の勇将を十兵衞を思い出すのだった。

 圧倒的不利な豊臣方につき、義の一念を旗に一騎当千の勇士を率いて、徳川家という巨大な敵に立ち向かった勇将を。

 その名を真田信繁、通称を幸村という。



「真田幸村の…… 遺児ですと?」

「左様」

 十兵衞の呟きに才蔵は静かにうなずいた。

「……俺は正直」

 佐助が言葉を継いだ。

「お前が幕府の密偵かと疑った」

 佐助の顔から陽気な笑みは消えている。代わって全身からほとばしるのは激しい闘志である。それは十兵衞の心を萎縮させるほどの激しさを秘めていた。

「違う」

 十兵衞ははっきりと呟いた。十兵衞が忠長に仕えたのは、忠長が十兵衞を認めてくれたからなのだ。忠長に尽くす事はあっても、為にならぬ事をするつもりは毛頭ない。その意志だけを目に込めて、十兵衞は佐助を見据える。

「お前の親父が秀忠を守らなければ、幸村様も俺の親父も……」

「言うな、佐助!」

 才蔵に叱咤されて、佐助は面白くないのか背を見せて立ち去った。

「佐助の父は、幸村様と共に討ち死にした」

 才蔵は空を見上げて呟いた。雲一つない青空を見上げて、かつての大阪の陣を思い起こしているのか。

 十兵衞もしばし黙った。真昼に幽霊を見たような思いである。豊臣の残党、真田幸村の娘が忠長の愛妾となり、この駿河にいる。しかも当人同士は深く愛し合っている。仇敵と呼んでも差し支えない二人を結び付けたのは如何なる縁の為せる業なのか。

 そして、十兵衞自身が当惑する。自分がこの駿河に来たのは偶然なのか 。

 忠長に召し抱えられたのは、如何なる天の導きであるのかと。



 いつしか日が暮れた。十兵衞は屋敷で才蔵と語り明かしていた。

 霞は佐助を相手に剣の稽古か、可愛らしくも勇ましい声が時折庭から聞こえてきた。

「忠長殿に暗雲の兆しとは……」

 才蔵は腕組みして悩む。十兵衞の話は才蔵にとって寝耳に水であった。

「幕閣は忠長様を疎んじている」

 十兵衞は知っている。世間の評判に対して幕府の忠長への評価は悪い事を。三代将軍家光の弟と言えば聞こえはいいが、幕閣にとっては扱いにくい。将軍が二人いるようなものだ。 全国各地の諸大名は家光を軽んじ、忠長を敬っている。

 二人が幼き頃は 、誰もが忠長が将軍になると信じて疑わなかった。それが、暗愚の家光が将軍になったのだ。世間も幕閣も驚いた事だろう。

「……忠長様、これからどうなる?」

 とは才蔵の言である。

「父上の密偵が多数送り込まれてきている…… つまり」

 十兵衞は言葉を切った。障子窓の向こうは暗く、静かに雨の降る音が聞こえてくる。今夜は雨のようだ。

 雨音も十兵衞の不安も、夜が更けるにつれて次第に大きくなっていく 。夕方ごろから降り始めた雨は勢いも弱まり、今は霧雨となった。

 十兵 衞は一人、才蔵の去った部屋で瞑想している。心に思い浮かぶのは、自身の今後である。父・宗矩の命に従い、密偵として生きてきた。そんな自分が忠長の言葉に、あっさりと従うとは……

 密偵の命を投げ捨て、忠長の一家臣として 生きるのか。

 ―――それもよい。

 あっさりと答えが出た。

 士は己を知る者の為に死すである。

 家臣として義の為に生きる。

 十兵衞は想い定めた。

 外は霧雨も止み、静寂な夜の闇に包まれていた。



 霞は湯殿に身を浸していた。昼の稽古で流した汗を、湯に浸かって洗い落とす。霞には至福の一時である。よく引き締まった身の、玉のような肌が湯に濡れて輝いている。

 しばしの桃源郷に浸る霞は気づいていない。湯殿の外に微かな風が生じた事を。

 それは人の動きによって生じた風であった。決して出歯亀などではない。

 尋常ならざる練磨の末に体得した、卓越した体術を駆使する忍びの者の気配であった。

 湯殿の霞は外の気配に気がついた。外は夜の闇だ。その中に微かにうごめく気配を感じて、霞は美しい眉を吊り上げた。

(また佐助か!)

 霞は内心毒づいた。佐助は大の女好きである。女がいないと一日も生きられぬと、常々語っている。霞も何度、入浴を佐助に覗かれたか、わからない。

 霞は桶に湯を汲み、格子窓をにらみ据える。佐助が顔を見せたら、問答無用で湯を浴びせるつもりであった。 湯殿の部屋の隅では、灯りの蝋燭がほのかな光を放って、ゆらゆら揺れている。



「……三厳様」

 屋敷の庭から呼ぶ声に、十兵衞は部屋を出た。庭先には黒い影が一人うずくまっている。

 黒装束姿の忍びの者と思しき姿である。十兵衞の父宗矩の配下、裏柳生の者であった。

「……どうした?」

 十兵衞は静かな声で尋ねた。同時に頭の片隅で考える。 なぜ、ここに裏柳生の者が来たのか。忠長に仕えた事が父の命に背いたと判断され、十兵衞を消しに来たのか。ひょっとしたら、周囲に仲間が伏 せているのではないか、など。

「……三厳様、この屋敷の者、素性を教えてくだされませ」

 忍びの男の声には緊張がある。柳生の総帥の嫡男たる十兵衛への畏怖か。

「なにぶん、火急の用事ゆえ無礼をお許しくだされ」

「旅芸人一座だ」

 十兵衞は落ち着いて言った。同時に周囲の気配を探る。だが仲間が伏せているような気配はない。

「数年前に忠長様が一座を気に入り、この屋敷に住まわせているという 」

「……三厳様」

 男が顔を上げた。黒頭巾からのぞいている男の眼光は、闇夜を裂くかのように鋭い。

「この屋敷の者達は、ただの旅芸人ではありませぬ」

「何?」

 十兵衞は男の真意を探るべく務めて平静を装った。

「豊臣の、いや、真田幸村の残党でございます」

「……」

「奴らは忠長様に接近し、忠長様を担いで幕府転覆を企んでいるのです」

 男の声に力がこもる。屋敷内の者など、気にも止めない。おそら くは十兵衞の身を案じる警告の意もこめられているのだろうが、それ以上に、男を興奮させる何かがあるのだ。

「我らは今宵、きゃつらの暗殺を」

 男が言い終えぬうちに、女の悲鳴が十兵衞の耳に聞こえた。霞の声だった。

 霞の悲鳴を聞いて、十兵衞の中で何かが目覚めた。それは十兵衞の荒ぶる闘志であったか。

 十兵衞は庭に飛び出し地を駆ける。裏柳生の忍びが呆気に取られるほどの迅速な行動である。庭を駆けながら、十兵衞は屋敷の外れ の湯殿に向かう。



「きゃあー!」

 霞はようやくにして、声を振り絞った。叫ばなければ体が動かなかっただろう。両手で胸を隠しながら湯殿の隅に、ゆっくり後退する。視線は前方を見据えていた。

「これは…… いい女だ……」

 湯殿の壁を破壊し霞の前に現れた異形の者。湯殿の外の気配を佐助だと思っていた霞には、晴天の霹靂の如く感じられた。桶にくんでおいた湯を浴びせる事もできなかった。

「ああ……」

 両手で胸を隠す霞は羞恥と恐怖に耐えていた。裸身をさらす羞恥と、目の前に現れた異形の者への恐怖。日頃の勇ましさも消え入るばかりである。

「殺すに惜しいが仕事だ……」

 異形の者は呟いた。全身を黒装束に包み込んだ巨漢だ。その手足 は細く長く、霞は昆虫のカマキリを連想する。黒装束からのぞく眼光が 狂喜に満ちていた。

「だ、誰か……!」

 霞の震える声に異形はますます狂喜を眼光に現した。 異形の者が右手を霞に伸ばしてきた。薄い月明かりの中で異形の右手が輝く。金属の輝きである。何か特殊な籠手のようなものか。

「苦しまずに殺してやる……」

 異形の者の小さな呟き。その呟きを聞いて、霞は目を閉じた。裸身を晒し、恐怖に怯えた屈辱からか、霞は歯をくいしばった。閉じた目は涙ぐん でいる。

「……死ね」

 異形が右手を振り上げた。その指先が月光に反射して輝く。その五本の指の先には鋭利な刃が取り付けられていた。

 次の瞬間、異形は右手の爪を霞に振り下ろし―――

「待て!」

 突如、怒声が夜空に響いた。 異形の者が声の方を振り返った。 霞も恐る恐る目を開き、声のした方向を見た。

 そして「十兵衞!」 と霞は叫んだ。

 霞と異形の者の視線の先に、十兵衞が左手に愛刀・三池典太を鞘ごと握って立っていた。



 月光の下で、十兵衞と異形の視線が激突した。十兵衛は抜刀し鞘を投げ捨てた。

 異形の者は霞に背を向けて十兵衛の方を向いた。そして磁石が引き合うように、互いに相手に向かって動き出した。

 異形の者の興味は十兵衞に移り 、十兵衞もまた異形へと足を進めながら愛刀を構えた。

「くわっ!」

 叫んだのは十兵衞だった。空気を震わせる烈迫の気合い。それは霞が腰を抜かすほどの凄まじさであった。

 十兵衞は踏み込んだ。左から右に刀を横に薙ぐ。空を裂く刃鳴りの音と共に白刃の輝きが闇に流れた。

 その一刀を異形は避けた。後方にその身が飛んだ。巨体からは想像できぬ身軽さと素早さである。

 両者の間合いは再び広がった。およそ三間(約五・四メートル) ほどの間合いから両者は互いに対手を見据えた。

(……できる!)

 十兵衞は内心、舌打ちした。今の一刀は十兵衞の全力、会心の一刀とでも呼ぶべきほどの一刀なのだ。それを避けるほどの手練れだ。あるいは十兵衞も及ばぬかもしれぬ。

 だが、十兵衞には勝敗など関係ない。自分の全てを一刀にこめる。ただ、それだけだ。死の恐怖は幾多の死闘を経て克服していた。

 異形の者が静かに両手を前に出した。両手の先の鋭い刃が、月光に反射して輝いている。背を丸めた前傾姿勢であるのに、その上背は五尺七寸( 約百七十一センチメートル)の十兵衞よりも高い。

 二人の対峙を、霞は腰を抜かして呆然と眺めていた。月光が静かに三人を照らし出している。

 霞の眼前で、十兵衞と異形は対峙していた。霞は湯殿の床に尻餅ついて 、胸を隠すのも忘れて二人に見入っていた。

 十兵衞が剣尖を少しずつ下げながら間合いを詰めた。それに応じるように、異形も少しずつにじり寄る。異形の両手は細く長く、霞にはカマキリが獲物を捕食しようとしているように錯覚する。

 瞬間、稲妻が夜空を裂いた。稲光の中に二人の影がはっきり見えた。

 十兵衞の下段からの一刀が闇夜を裂いた。

 異形の両手の鋭い鉤爪が十兵衞に襲いかかった。

 一瞬の後、絶叫が夜空にこだました。 霞は見た。夜空に何かが舞い上がったのを。

 それは肘から下で切断された右腕だった。



 絶叫を上げたのは異形の者であった。右手を押さえて、地に伏した。その右腕は、肘から下で切り落とされている。先に宙を舞ったのは、切り落とされた異形の右腕だったのだ。

「ぬ……」

 十兵衞も片膝ついた。十兵衞は左手に愛刀を握りしめたまま、右手で右目を押さえた。押さえた掌から血潮が流れる。十兵衞もまた異形の者の鉤爪で、右目を深く切り裂かれていた。

 もっとも、十兵衞は幼い頃に修行で右目を失っていた。

「十兵衞!」

 霞は全裸のまま十兵衞に駆け寄ろうとした。だが 、それはできなかった。いつの間にか、周囲には黒装束姿の一団が集まっていたからだ。

 一団に気圧された霞だったが「姫!」と呼ぶ声に我を取り戻した。霞が振り返れば、庭の向こうから才蔵老人が走ってくる。

「うらあ!」

 更には屋根の上から飛び降りた影が霞を守るように、一団の前に立ちふさがった。佐助である。

「姫、遅れて申し訳ありませぬ!」

 佐助は霞を背にして黒装束の一団をにらみ据えた。一触即発の空気とは正に今を言うのだろう。

「十兵衞殿!」

 才蔵老人が十兵衞に駆け寄った。この歴戦の勇士たる二人は、湯殿から最も遠い屋敷の外れにいた。ゆえに十兵衞よりも到着が遅かった。

「……引けえ、裏柳生!」

 十兵衞は右手で右目を押さえたまま絶叫した。血を吐くような叫びであった。

「な、三厳様!?」

「三厳様が…… なぜ!?」

「土蜘蛛、貴様、三厳様に切りつけたのか!?」

 裏柳生の者達に走る動揺。あの異形の者は土蜘蛛というらしかった。その土蜘蛛は右手を押さえたままうずくまっていたが、不意に立ち上がると、 覆面を引き裂いて十兵衞をにらみ据えた。

「きゃあ~!」

 悲鳴を上げたのは霞だ。土蜘蛛の素顔が月光の下にさらされたのだ 。その顔は半分以上が火傷の跡に覆われた、この世の者とは思えぬ、おぞましい形相だったからである。

「三厳様…… だと?」

 土蜘蛛は呪詛に似た呟きを漏らした。

「引け! 引かぬかあ!」

 十兵衞は尚も叫ぶ。 顔を見合わせた裏柳生達は、次々と走り出して屋敷の塀を飛び越えて去っていく。

 土蜘蛛も最後に塀を飛び越えた。右腕を失っているとは思えぬほど、その動きは俊敏であった。戦いが長引けば、死んでいたのは十兵衞だったかもしれぬ。

「十兵衞!」

 全裸の霞が十兵衞に駆け寄った。その声も十兵衞の耳には届かない。 十兵衞は激痛と出血の為に意識を失っていた。

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