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柳生無明剣  作者: MIROKU
2/9

2 霞とその家臣

 空はよく晴れていた。青い空が広がっている。

 十兵衞は屋敷の庭を散歩していた。忠長の愛妾が住む屋敷である。 十兵衞は忠長に三百石で召し抱えられた。将軍家剣術指南役の嫡子とし ては、いささか低すぎる石高であるかもしれない。

 が、十兵衞は満足している。初めて主を得たのだ。それに、将軍家光の 不興を買い、宗矩に勘当された身である。世間的には浪人であるのだ。そ の浪人が仕官できたのだから、何の不満もない。名も知らぬ者を、幾人も 切り捨ててきた自分には、なんという厚待遇だろうか……

「三厳殿!」

 己の所業に思いを馳せていた十兵衞は、背後に若い女性の声を聞いて振 り返った。 振り返った先には、袴姿の美少女が眉をつり上げて十兵衞をにらんでい る。

「柳生新陰流を教授してくれる約束ではなかったのですか!」

 その剣幕に十兵衞も、たじたじとなる。美少女は額に鉢巻き、たすき掛 けの上に木剣まで手にしている。忠長の愛妾、霞であった。 愛妾というと聞こえは悪いが、忠長が愛してやまぬ女性である事には違 いない。忠長が駿河に赴任してきた頃に出会ったという。

 かれこれ三年ほ ど前の話だ。まだ十七歳だという。

「さあ、準備はできておる!」

 勇ましいというか、愛嬌なのか、十兵衞も苦笑せざるをえない。 そもそも霞は旅芸人一座の者で、戯れに一座を訪れた忠長が(無論、お 忍びで)一目で気に入り、以来、この屋敷に住まわせているという。

 女だてらに、二本の唐剣を振り回す艶やかさで、一座では一番の人気者 だったらしい。この屋敷には、霞と同じ旅芸人一座の者が居住しており、 十兵衞の家屋の手配が済むまでは仮の住まいとするように、とのお達しで あった。

 その配慮が、十兵衞には嬉しい。それほど、十兵衞を信用してい るという証ではないか。

「……承知しました」

 十兵衞は珍しく愛想よい笑顔を見せた。霞と話していると、自然に心が和むのだ。

 忠長としても出自の怪しい旅芸人の娘を、おおっびらに正室にできない体面もあろう。ひょっとしたら、忠長も霞も寂しい思いをしながら過ごしているのかもしれぬ、と十兵衞は思った。



 江戸の柳生宗矩の元に、駿河の密偵からの報告が届いた。西国大名の密 偵を終えた十兵衞が、途中立ち寄った駿河で浪人団を成敗、それが縁で忠 長に召し抱えられたという。

「……何?」

 宗矩は自室で呟いた。

 宗矩の頭には、江戸に戻ってきた十兵衞を駿河に密偵として放つという策があった。

 だが、それはまだ十兵衞には伝えていない。十兵衛は自分の策を見抜いていたと いうのだろうか?

 それにしては、話が出来すぎている。忠長に気に入られて仕官までするとは…… なんという偶然、なんという巡り合わせか。

 ましてや浪人を討ち果たすとは。

 天下に柳生新陰流あり、と喧伝した事にもなる。宗矩としては一石 二鳥の十兵衞の活躍ぶりである。

「……さて」

 宗矩の意識は切り替わる。忠長の事に切り替わったのだ。駿河大納言忠長は、最近、精神に異常をきたし、凶行が目につくようになったという。

 忠長の凶行の噂は幕閣にも届いていた。家臣を斬殺し、侍女を責め殺す 。元は家臣の手打ちから始まった忠長の凶行は、今では家臣を的に弓の調練をするに至ったという。

「……捨ておけんな」

 宗矩は呟いた。昨年に但馬守を名乗り、諸大名から最も恐れられる一人となった宗矩の顔は、人として何かを超越したような厳かさに満ちていた 。

 人はその相を修羅と呼ぶのだろう。



 十兵衞が忠長の愛妾・霞の屋敷に来てから三日が経過していた。

 十兵衞は、朝から霞に剣の指導を乞われていた。

「……こうして水の上に葉を浮かべ、これを切るのです」

 十兵衞は庭の池に木の葉を浮かべ、これを切るようにと霞に言う。

 霞は稽古着姿で池の端に立ち、刀を握りしめたまま、呆然と水面の木の葉を見つめていた。

 一座にいた時に振るっていたのは、細身の唐剣であった。日本刀とは、作りも重さも異なるものである。

 霞は初めて手にする刀の重さに戸惑いを感じつつ、更には水面にゆらゆ ら浮かぶ木の葉を前に、果たして自分にできるのか、と自問自答をしているようだ。

「……十兵衞にはできるのか?」

 霞が細く消え入りそうな声を出す。今では霞は十兵衞と呼ぶ。三厳と呼んでいた霞に十兵衞は通称で呼ぶように、と勧めたからだ。

 十兵衞は、親しい者にしか十兵衞と呼ばせない。 公の場では三厳であり、十兵衞と呼ぶのは身内か、信頼する者しかいない。十兵衞もまた、霞に心を許しているという事である。

「……やりまする」

 霞が一歩退くと、代わりに十兵衞が池の端に立った。霞は十兵衞の左隣に立って、十兵衞の手元をのぞきこむ。

 十兵衞は腰の大刀を静かに、ゆっくり鞘走らせた。

 霞が十兵衞の隣で息を飲む。十兵衞の愛刀は三池典太である。 刀身はやや長めの二尺八寸(約八十四センチ)、幅広く厚みがあり、 霞が手にした刀が子供の玩具に思えてならぬような、戦国の気風を物語る豪刀であった。

「……は!」

 十兵衞が静かな気合いを発した。頭上に振り上げた三池典太の刃が空を裂く。

 次の瞬間には水面の木の葉が二つに割れている。水面に波一つ立てる事なく、 十兵衞の一閃は水面にゆらゆら浮かぶ木の葉を両断したのだった。

 目を丸くして驚く霞を見つめ、十兵衞はニヤリと笑った。



 霞の屋敷には、十数人が生活している。

 元は旅芸人一座の者達だという 。彼らは十兵衞にも優しく接してくれる。

 しかし、と十兵衞は思う。例えば今、朝食後の調練と称して、軽業を披露している男はどうだろう。

「ほ、ほ」

 男は竹で編まれた高さ四尺(約百二十センチメートル)の篭の円周を歩く。篭の中には何も入っていない。子供ですら篭の縁に立つ事などできまい。

 それを男は、簡単にやってのける。

「どうだい、十兵衞?」

 篭から降りると、男は屈託のない笑顔を見せた。相手が将軍家剣術指南役の嫡子といえど、全く気を遣う素振りがない。十兵衞としては好ましい相手であった。

 男は三十を過ぎた年頃か、だがその笑顔が男を年よりも若く見せている。不思議な雰囲気を醸し出す男である。

 ましてや、男は非常な巨漢であった。六尺五寸(約百九十五センチメー トル)はあるだろうか。それでいて、この軽業……

 確かに旅芸人として大いに通用する手練れである。もしかすると忍び上がりなのだろうかと十兵衞は考える。

「どうされましたか」

 背後から突然声をかけられて、十兵衞は振り返る。振り返ると、小柄な好好爺が穏やかな笑みを浮かべていた。

 老人は一座の長で、霞は才蔵じいと呼んでいた。

「あ、いや……」

 十兵衞としては驚嘆すべき事であった。幼い頃に修行で右目を失った十兵衞は、代わりに聴覚と触覚が異常に発達している。

 その耳は風にそよぐ 木の葉の音すら聞き分け、その肌は闇夜に蠢く僅かな殺気すら感じ取るのだ。

 その十兵衞に全く気配を感じさせない老人はただ者ではない。 あるいは、この二人は十兵衞が死力を尽くして、尚、及ばぬほど の手練れではあるまいか。

 そう思うと、十兵衞の心は意識せずとも研ぎ澄まされていくのだった。十兵衞はためらいがちに才蔵老人に尋ねた。

「……あなた方は」

 そう口にするだけで憚られるような、ある種の不安が十兵衞の心に生じる。

「何者なのだ?」

 十兵衞の心身に走る緊張。それを察した才蔵老人の顔から笑みが消えた。

「……聞いてどうする?」

 声を発したのは、男の方だった。

「ただの旅芸人という答えを期待してるみたいじゃないようだな」

 男が笑いながら肩を揺すった。十兵衞より頭二つ大きい男の動作は、無駄のない、しなやかな動作であった。

 一瞬で十兵衞の首をへし折りそうな 。 「ここから先は命を失う覚悟が必要だぞ」 「佐助」

 才蔵老人が鋭い声を出す。先程までの好好爺然とした雰囲気からは想像できない鋭さであった。

「……聞きたい」

 十兵衞の答えに二人は意外な顔をした。

「これも奇縁であろう……」

 十兵衞の心はすでに無の境地に到っていた。何度も拾った命である。命を惜しんで密偵の務めも、己の信じる大義も成立しない事を十兵衞は知っていた。

 たとえ、この二人に敵わずとも、今の十兵衞には踏み込むしかないのだ。それが、いかなる死地であろうとも。

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