ある少年のはなし 4
目が覚めると、何やら屋敷中が騒がしかった。そして、一緒の部屋で寝ていたはずのミーシャがいない。ベッドはそのままだが、ミーシャだけがいないのだ。
はてな、とサーシャは寝ぼけた頭で考える。そして行きついたのは、今日が自分の誕生日だということだった。
きっと、みんなで準備してくれているんだ! 祝ってくれる人がいたんだ!
嬉しくなって、着替えはいつもよりも早く終わらせた。今日はいい子にしていようと、いつも言われてからでないとしない歯磨きと洗顔を済ます。踊りたくなるような気持ちを必死に抑えて、いつも通りに部屋のドアを開けた。楽しみにしているのを気取られるのは、なんとなく恥ずかしかったのだ。
しかしそこには誰もおらず、サーシャは拍子抜けした。
辺りを見回してみても、誰も通らない。うるさいのは相変わらず聞こえているが、それはどうやらここより少し遠いところのようだった。準備をしてくれているのだろうかとも思ったが、今まで通りならミーシャが真っ先におめでとうを言いに来てくれるはずだ。今年は驚かせる方針なのかなと、普通こういうものは案内役で誰か一人いるものじゃないのかとかなんとか言いながら、声のするほうに向かう。大きな嬉しさの影に、不安や疑問が顔を覗かせる。首をかしげながら、足早に廊下を進んだ。
ざわめきが大きくなるに連れて、人も多くなっていく。声を少しずつ拾って、サーシャは情報を得ていく。どうやらこの騒ぎは自分のためではないらしいことを知って、期待していた分だけ絶望する。
少し遠いところに、いつもの青くて長い、教育係用の服を着たミアータが見えた。サーシャは彼女に駆け寄る。どうしてこんな騒ぎになっているのかを知りたかったし、それよりもおめでとうと、誰かに言ってほしかった。
「ミアータさん! ミアータさん、どうしたの?」
「サーシャ様……? お部屋の近くに誰か人はいなかったのですか?」
「いなかったけど、それよりさ。何でこんな騒いでるの。ミーシャもいないし」
ミーシャ、という言葉にミアータが反応する。困った顔でうろうろと辺りを見回すと、サーシャに目線を合わせるように、少しだけかがむ。サーシャは不穏な空気を感じて、ごくりとつばを飲み込んだ。
ミアータがちらりと奥のドアに目を向ける。サーシャもつられてそこを見る。騒ぎの中心はそこであるようだった。しかし、ドアが開くことはない。
「ミーシャ様が、高い熱を出したんです。お医者様が、これはうつる病気だからミーシャ様を隔離しなくてはいけないと仰られて。ですから、今ミーシャ様はあのお部屋で治療を受けているんです」
「ミーシャが? で、でも、昨日は元気だっただろ?」
「突然、何の前触れもなく起こる病気もあるんですよ。いいですかサーシャ様、絶対にあの部屋には近づいてはいけません。ブルーノさんも、ルイスさんも、今はミーシャ様につきっきりです。人手が足りていなくて、みんなお手伝いをしなくてはならないので今日のお勉強とお稽古はお休みですと、言付かっています」
戸惑いながらも頷いたサーシャを見て、安心したようにミアータが立ち上がる。しかし、サーシャが思い出したように服をつかんだせいでまた引っ張られてしまった。不安げに揺れる青の瞳を見ながら、どうしたのかと問う。
「あの、と、父さんと母さんは……?」
「ミーシャ様についておいでですよ」
「お、俺の、誕生日……は?」
「……残念ですが、ミーシャ様の病気が治るまでは」
するりとサーシャの手が服から離れる。ミアータはサーシャの頭を軽く撫で、どこかへ行ってしまった。サーシャはぽつんと一人、残される。奥の部屋のドアは閉ざされたまま開かない。今日は誰もサーシャの側にはいてくれないとやっと理解したとき、サーシャは駆け出していた。
誕生日なのに、父も母も祝ってくれるどころか、ミーシャばかりについている。サーシャとてミーシャの事が心配でないわけではない。けれど、理不尽さに対する怒りや、今まで溜め込んできた気持ちが止まらなくなる。
どうしようもなくなって、サーシャは泣きながら走っていた。
はっと気が付いて立ち止まると、周りには誰もいなかった。
「……本当に、みんな……ミーシャのとこにいるんだな……」
何をしていようかと呟く。今日は一日中自由なのだ。書庫で本を読むでもいいし、一人で魔法の練習をするのもいいだろう。外へ出て、ちびのエレナをからかうのも面白いし、アルフレドと一緒にくだらない話をするのもきっと楽しい。
いつもなら、きっと楽しいことだったろう。
けれど今日は誕生日なのだ。十歳の誕生日で、特別な日なのだ。それを、どうしていつも通りに過ごさなければならないのか。
沈んだ顔で屋敷を出る。声をかけられても曖昧に笑うだけ。答える元気もなかった。とぼとぼと集落の外れの川まで歩くと、すとんと力が抜けたように座り込んだ。朝日が水に反射して、痛いくらいに眩しい。涙の跡を乱暴に洗い流して、サーシャは膝を抱えた。
手元にあった小さな石を掴んで、川に向かって投げる。
「ミーシャのほうがみんなに好かれてるんだから、ミーシャが……ミーシャが、父さんのあとを継いだらいいんだ。なんでも、できるし。俺よりも……」
小さな飛沫を上げて、石は沈む。
「もしかして……家出しても気付かれないのかな」
サーシャの頭には、昨日ミーシャと話した壊れた水門と壁の事が浮かんでいた。いつもならできないけれど、川の中を通れば今はあちら側へ行けるかもしれない。通る事ができないのなら、壊れた壁の部分を探せばいいのだ。しかも、そんなサーシャを怒る人は今日はいない。
誰も構ってくれないことへの怒りだとか、寂しさだとか、そんな気持ちが、更にその考えを後押しする。サーシャの足がゆっくりと水門のほうへ動いていく。
少し歩くと、大きな扉のようなものが見えてくる。息が上がっているのは、初めての家出に対する緊張や高揚も手伝っているのだろう。ぴりぴりとした魔力を肌で感じる。これは警戒のための魔法だと、サーシャにでもわかった。しかし水門が壊れているせいで、魔力も弱くなっている。
川に入って水門をくぐろうとしてみたが、思ったよりも流れが急で、しかも深い。サーシャは川から通ることを諦めて、壁の壊れた部分を探すことにした。辺りに生い茂る草を掻き分けてまで探していると、大きな藪に隠されるようにしてそれはあった。
サーシャが一人通れるくらいの小さな穴は、壁が古いこともあって周りまでボロボロになっていた。ためしにそっと触れてみると、ぽろりと崩れる。これじゃあ壁の意味がないじゃないかと思ったが、サーシャは今日ここから外に出るのだ。ブルーノやミアータにこれを教えて、直されてはいけない。
四つんばいでそこを抜けると、サーシャは後ろを振り返らずに走った。走って、走って、もう壁が見えないであろうところでゆっくり速度を落として、そっと振り返る。なんらかの魔法によって集落から出られないこと、そして、自分のしている事が誰かに見られていて、追いかけられていることを考えたからだ。しかし壁まで勝手に戻されてしまうこともなく、誰かがついてくることもなかった。ほっと安堵の息をついて歩き出す。川に沿って歩いていれば、下流のほうの町に着くはずだ。
もしも集落や町がないのなら真っ直ぐに歩いて行って着くのは、いつか命を掛けて遣える事になる王が住まう聖都だった。
「聖都に着いたら……王の姿って、見られんのかな。どんな人なのかな」
そのために聖都に行くのだと自分に、そして誰かに言い聞かせるようにしてサーシャは歩いていった。