ある少年のはなし 1
こつん、と軽く何かで頭を叩かれたことによって、サーシャの目は覚めた。頭を抑えながら体を起こすと、青と白で作られた紋様が目に入る。それが誰かの服であることを理解するのに、寝ぼけた頭では数秒かかった。
わざとらしく頭を抑えたまま、目の前に立つ女性を見上げる。気の強そうな薄い青の瞳が、真っ直ぐにサーシャを見ていた。
「サーシャ様、少しはミーシャ様を見習われてはどうですか?いつもいつも授業中に寝ていらっしゃいますけどね、この時間はお昼寝の時間ではないのですよ?」
隣から聞こえた小さな笑い声は、弟のミーシャのものだろう。横目でちらりと睨みながら、机を覗き込む。彼のノートは板書やメモで真っ黒だったが、サーシャのノートは真っ白だった。
決まり悪そうにがしがしと頭を掻きながら、サーシャは目を吊り上げるミアータを見上げた。言い訳はいつも同じ。
「だってミアータさん。おれ、じぶんの一族の歴史なんて、本でよんでしってるよ。もっとほかのことをしりたいのに」
その言い訳は、教育係である彼女としてはとても複雑な気持ちにさせられるそれであった。
予習をすることはいいことなのだが、それを理由に勉強をしないとなると話が違う。しかしサーシャの場合は予習の内容がしっかりと頭に入っていて、本当に、「本で読んで知っている」のだ。だから、新しい事が知りたいと言う。
困ったようにミアータは言った。毎回毎回これでは、一緒に勉強をしているミーシャのためにもならない。
「まったく、いつもそれですね。……ではサーシャ様、サーシャ様は何をお知りになりたいのですか? それを知る事ができたら、ちゃんとお勉強をしてくれるのですね?」
するとサーシャは途端に目をきらきらと輝かせ、がくがくと勢いよく首を縦に振った。いつもはそういうことに乗ってくることのないミーシャも、少しだけ身を乗り出している。
きっとミーシャは、サーシャが何を知りたいのかを知っているのだろう。そうミアータは思った。まったく、本当に仲のよろしいことで。
「おれはね、」とサーシャが口を開いた。
「おれはね、ミアータさん。世界がしりたい! 何でできてるの? だれが住んでるの? おれはこの、光の集落から出たことないけど、ほかにはどんな人たちが生きてるの?」
「世界……ですか……? それは、難しい質問ですね。……世界は沢山の魔法が複雑に絡まりあい、重なり合ってできています。そのどれか一つがなくなったとしても壊れないくらい、でもどこかに歪みが生じるくらい複雑に、です。……いえ、そう言われています。本当のことは誰にもわかりません」
「じゃあ、だれが住んでるの」
「私たちのような王をお守りする神族の他に、神族を束ね、世界を統治する偉大なる王、自由気ままに生きる妖精・精霊族、悪いものも多い魔族、ただの人間、獣人……沢山いますよ。きっと数えられないくらいでしょうね」
ミアータが説明していくごとに、サーシャの顔は不満げになっていく。ミアータが首を傾げ、どうしたのかと問う。知りたいと言っている事にはありったけの知識で答えたはずだし、古い本の内容まで引っ張ってきて、さらには学者、賢者達が唱えてきた説ももって説明した。だというのになぜ、不機嫌になっていくのか。
ミアータの問いに答えはせずに、サーシャは俯いた。一瞬、泣いているのかと思ってミアータは焦る。しかし、すぐに気付いた。こうやって彼が俯いてしまうのは、自分の言いたいことを考えているからだということに。きっとそれほどに伝えたい事があるのだろうと、ミアータは黙って彼が口を開くのを待つ。
ミーシャも心配そうにはしているが、何も言わない。
しばらくの沈黙の後、サーシャがばっと顔を上げた。二人の視線が彼に向く。大きな青の瞳が、何かを伝えようと意気込んで輝く。
「ちがうんだ! えっと、おれがしりたいのは、そういう、本に書いてあるようなことじゃない。ちゃんと、じぶんの目で見て、耳で聞いて、手でさわって、そうやってしったことをおれはしりたいんだ」
ミアータはまあ、と驚いた。同時に不安も覚えた。サーシャはまだ六歳で、だというのに、こんなに世界や、周りにある全てのことに興味を示している。
そういえばとミアータは思い出す。
試験の結果はいつもミーシャのほうがいい。それは、彼が真面目で努力家だからだ。けれどサーシャは、自由に研究するような課題を出せば、大人顔負けの結果を持ってくる。自分の好きなこと、興味のあることには、どんな労力も惜しまないのだ。
さっき言っていた「本で読んだ」というのも、きっとそういうことなのだろうとミアータは納得する。
集落にある書物は元々少ない。彼が世界の本当の姿を求めてその全てを読み漁ったのだとすれば、読みつくしてしまうのにさほど時間はかからなかったのだろう。
そんなサーシャは賢者や学者になったほうがいいと言う者もいた。歴史に名を残せるかもしれないし、好きなことをとことん突き詰めて研究することのできる職業じゃないかと。
けれどサーシャとミーシャは、光の一族の長の子供だった。
長になれるのはその子供だけで、つまり今のところ継承権があるのはサーシャとミーシャのみとなる。
どちらかが長を受け継げばいいのだからサーシャは知の都へ送ってもいいだろうという意見もあったが、ミーシャに何かあった場合どうすればいいのかという意見に対しては、誰も何も言えなかった。
知の都は、賢者や学者を目指す者たちのためにあるといっても過言ではない。勿論目指すだけではなく、その後は世界のために自分の知識の全てを費やして尽くすことになる。
知の都は他の都とは違い、完全に外との繋がりを断ち切っている。張り巡らされた高い壁を越えられるのは、情報伝達用の鳥達だけ。
元々都というものは大抵何かに守られている都市とその周辺の、神族の住む領域を示すが、知の都は壁の中のみを指す。周辺には何もない。なぜなら、外に出て生活をする必要が全くないからだ。
知の都に入った者は、たとえ親が死のうと妹が結婚しようと外に出ることは許されない。
その理由はわからないが、知の都に溢れる知識を漏れ出させないためだとか、非情ではあるが余計なことを考えさせないためだとか、いろいろと言われていることは多い。
「サーシャ様は、知の都に行きたいと思ったことはありますか?」
「知の都? ……そこで、おれのしりたいことがわかるんなら行ってもいいけど。でもミーシャや父さん、母さん、それに、ミアータさんに会えないの……おれ、やだな」
「そうですか……」
考え込んでしまったミアータに、サーシャは首をかしげた。ミーシャも不安げにミアータを見上げる。よく似た顔立ちの兄弟に見つめられて、ミアータは微笑んだ。
優しく二人の頭を撫でて、抱き寄せる。
「考えても仕方のないことでした。あなたがたはいつも一緒が一番です」
その一言に、二人の顔がぱあっと晴れる。なんだかんだ言って二人は、年が近くて、いつも自分たちを気にかけて、本当の母親のように、姉のように接してくれるミアータの事が大好きなのだ。彼女の暗い顔など見たくない。
そうして幸せな時間が過ぎる中、ふとミアータが時計を見て、悲鳴を上げる。二人の勉強をする時間はとうに過ぎていて、家族で過ごすための時間に入ってしまっていたのだ。
「ま、まだ勉強が終わってませんが……でも大丈夫です、明日で追いつけます。さっ、お二人はお父様とお母様のところへ! 早く!」
追い出されるようにして、二人は部屋を出た。そして、手を繋いで笑いながら走っていく。幼い笑い声が少しずつ遠くなっていくのを聞きながら、ミアータはサーシャの忘れていったノートを見ていた。
授業で教えたことは何一つ書いていないのに、サーシャの質問への答えだけはしっかりと書いてある。溜息をついてそれを抱え、ミアータはサーシャの部屋に向かった。
「まったくもう……せっかくお教えしたのに、忘れていくなんて!」
けれど彼女の表情は明るい。
なぜなら今、とても幸せだからだ。