向日葵の君
背中から前へと押し抱くように聳える濃緑の山々は、さながら、油蝉達の凝縮された生を賛美し、命の滾りを思う存分謳歌させるスピーカーの役割を買って出たらしい。彼等の大合唱が塊となって僕の背を押すようだ。
それにしても、暑い。
焼けるような陽射しが、真上から容赦なく大地を焦がす。
あつい!
こめかみから顎に向かい、汗が滝のように流れ落ちていく。
それでも僕は、右、左と交互に、両の太股に掛ける力を弛めない。上半身を前のめりに倒し、腰を高く上げ、左右に躰を思い切り揺らしながら重いペダルを漕ぐ。
もう少し。
右脚に全体重を掛ける。
次いで左脚。
あと一漕ぎだ! あそこさえ越えれば……!
躰を大きく右に傾ける。躰がゆっくり沈んでいく。
顎の先を汗が滴り落ちた。
刹那……。
パッと開けた視界。心地よい向かい風が、火照った頬を撫でる。
眼の前には小さな港街。だだっ広い畑の真ん中を突っ切るこの細い坂道は、街まで真っ直ぐ続いている。両脇を彩るのは背の高い向日葵並木。黄金色の花の匂いが充満して、苦しいくらいだ。
視線を少しだけ上げれば、奥に広がるのは真っ青に澄んだ一面の大海原。
空の蒼と海の青を分けるのは真っ白な入道雲の役目だ。それは天球を支える巨人さながらに立ち上がり、両手を一杯に広げて僕を迎えてくれるよう。彼の頭上から、くぐり天球を描いて僕の背後まで、夏の濃い蒼空が広がっている。
坂道を一直線、ブレーキもそこそこに飛ぶように駆け下る。
襟元から入り込んできた風が、シャツの背中を帆のように膨らませる。慌てて釦を外すと、裾が風にはためき、抵抗から解放された僕の躰は更にスピードを増す。
黄金の草原から、深い深い蒼に向かって飛び出していくような気分になる。
爽快!
さっきまで五月蠅いくらいに響いていた油蝉の声さえ遠退き、風の音だけが渦巻いて鼓膜を叩いている。
違う。
僕自身が風になったんた。
僕は風だ。
透明な風。
どこまでだって飛べる。
だって、ほら、大空は両手を広げ、僕を受け入れてくれるじゃないか!
※
白い壁。赤銅色の屋根。この街唯一の駅舎に到着したのは、暑さ真っ盛りの午後一時五分前。
一時間に一本きりの電車。到着時刻は午後一時丁度だ。
自転車のスタンドを倒すことさえまどろっこしく、倒れるに任せて、僕は舎内へと駆け込んだ。改札をすり抜け、そのままホームへと直行する。
二、三人の大人が、タオルで汗を拭いながら電車の到着を待っていたが、誰も僕を責めやしない。
のんびりとした田舎街。
ホームの端では、白のワイシャツ、濃紺の制帽を目深に被った駅長さんが、跳ね返りの陽射しに眉を顰めながら電車の進入を促している。
もうすぐだ。
僕の心臓がドキドキと高鳴る。鳴り止まないのは、自転車を飛ばしすぎたからなんかじゃない。
8月の今日。約束の日。
この小さな駅に、僕は君を迎えに来た。
白いセーラー服、長いおさげ髪の君は、きっとこの街の風景に似合うだろう。
だって、ここは僕の故郷。僕の大好きな街なのだから。
にやけてしまうのを誤魔化したくて、わざと空を見上げた。天球の中央から降り注ぐ射るような陽射しは、少し強めの海風に和らげられて、今の僕には逆に心地良い。
その時……。
ガタン、ガタン。
規則的な低い音が、最初は小さく、次第に大きく耳朶を打つ。誘われるように視線を送れば、ジリジリと照りつける太陽光に熱せられたコンクリートから湧き上がる、揺らめく大気の中、蜃気楼のようにゆらゆらと現れた白と緑のストライプ。一両編成の電車がホームへと滑り込んできた。
耳の奥でドキドキがどんどん大きくなる。周囲に聞かれないかと心配になるほどだ。
最初に、何を言えばいい?
暑かったかい? ……当たり前だ。
ようこそ。……なんか気取ってる。
それより、それよりも、一番大切なことは……!
少し邪な僕の考えを邪魔するように、ガタガタと大きな音を立て、三つしかないドアが開いた。
僕のドキドキは最高潮。胸が痛いくらいだ。
手を繋いでも、……いい、かな。海を背にする坂道、向日葵の花を渡しながら、出来るだけ然り気なく。……なんて、そんなことを考えていると、暑さとは別の汗が吹き出してくる。
ええい! もう、どうとでもなれ!
僕は顔を上げ、君の姿を探した。
一番先頭のドア、独りだけ降り立った女性。長い黒髪と白いワンピースが海風に靡く。胸に抱いた白い花束。
君だ!
ドキドキは、瞬間、どこかに消え去り、何も聞こえなくなる。頭の中は真っ白だ。あれこれ考えていた言葉なんか、何一つ出てきやしない。
嬉しさに何も考えられないままに、僕は手を振る。
君が気付いてくれるように。
僕の大好きな笑顔を、……向日葵のように眩しい笑顔を、僕に向けてくれるように。
手を振る。
大きく、大きく手を振る。
思い切り大きく、手を、振る。
手を、振って……。
僕の横を通り過ぎていく、君。
気付かない?
なぜ……?
振り向きざま、君の背に手を伸ばす。
指を伸ばし、柔らかなワンピースの肩に、もう少しで触れそうになって……。
けれど、僕の腕は力無く落ちていった。
……ああ、そうか。
君には僕が見えないんだ。
君のいる世界と、僕が今いる世界は、もう、違うんだ。
思い出した。
思い出して、僕は哀しくなった。
そうだ。あれは十年前。八月の今日。夏真っ盛りの晴天の日のことだった。
僕は、この駅に君を迎えに来た。迎えに来て、……けれど、君と手を繋ぐことはできなかったんだ。
あの日、僕の時間は止まってしまった。
動かない、静止したままの時の中で、僕は足掻いていたんだ。繰り返し、繰り返し、八月の今日、君を迎えに来ることを繰り返し、澱んだ空間の中を行ったり来たりしていたんだ。
そして、全ては僕だけを残していった。
立ち止まっているのは僕独りだけ。
君の時間は十年間、ちゃんと流れていたんだよね。
少し強い潮風が、君と僕との間を通り過ぎていく。
……そうだね。
十年前の今日、約束を守れなかったのは僕。なのに君は、それでも君は、毎年必ず、八月の今日、この駅に降り立ってくれたんだ。白い花束を僕に手向けるために。嘘吐きの僕を、一言も責めることさえしないで。
ごめんね。
君との約束、守れなくてごめんね。
嘘吐きで、ごめんね。
十年の歳月は、きっと君にとって、とても長くて重かっただろう。
ごめんね。ごめん。
でも、それも、今日で最後。
もう君は、この駅に降り立つことはない。
君の左手の薬指に光る綺麗な指輪が全部教えてくれた。それをくれた人は、きっと素敵なひとなんだろうね。すごく綺麗になった君。なにより、君が取り戻してくれた向日葵の笑顔。
君は幸せに向かって歩き出していくんだね。
充分だ。
それだけで、僕はもう充分だよ。
君と並んで向日葵の道を歩くのも、きっと、これが最後。
だから、……ごめんね、ほんの少し、いつもより距離を縮めたりして。
気付けば、吹き抜ける夏の風は、微かに涼しさを纏い始めている。空の蒼も深さを増し、透明度をも増して、次の季節へ移ろう準備をしている。
そうだね。
時は決してとどまることなく流れ続けていくんだ。
動けなかったのは僕だけ。前へ進めず立ち止まっていたのは、僕独りだけ。
どんなに望んでも、僕の時間は、もう君には追い付けない。
そうだね。
僕はもう、行かなければいけないんだ。僕が本当に居るべき場所へ。
幸せそうな君の笑顔が、僕の背を押してくれた。だから僕は風になり、空の果てまで飛んでいけるよ。
ありがとう、大好きな君。
ありがとう、向日葵の君。
夏の太陽のような君の笑顔を、僕は決して忘れない。
了