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卯化

掲載日:2026/10/04

○ 壱 ○


 自分の事を呼ぶ黒服の男が随分な巨人に見えた。だが、それは自分の視点が低いからなのだと気付くのに、数秒かかった。

 彼女、賀田了子は無垢な目の玉で男を見上げる。

 男は了子の鼻先に一枚のレタスを差し出していて、注意を引こうとしているのか左右に振ったり、上下に動かしたりしている。別にレタスには困っていないんだけど、と彼女は言おうと思ったが、言葉は出て来なかった。

「要らないのか」

男はぼそりとそう言って、彼女が食べてくれないレタスを自分の口に入れた。もしゃもしゃと咀嚼して、ひざを折り曲げてしゃがみ込んでいた体勢を正した。

 これはいったい何事だろう。

 彼女はこの不可思議な状況を理解しようと思考を巡らせたが、全く理解出来ない。混乱する彼女を放って男はぶつぶつ何かを言いながら歩いて、部屋から出て扉を後ろ手で閉めた。

 ちょっと待ってよ、と言おうと思ったが、やはり言葉が出ない。追いかけようと立ち上がろうとした処で、了子はようやく自分の異変に気が付いた。

 立ち上がれない。

薄暗い部屋と、静か過ぎる部屋と、謎の男。

 あ、そうか。

 この光景がいつも見る夢だと思い出すと、了子は問題無く平静を取り戻した。

 そして、あまりに同じ夢ばかりを見るので、現実とごっちゃに混ざってしまっているんだと自覚して、了子は自分で自分をちょっと笑った。

 混ざりそうになるくらいにこの夢の景色は自分に染み付き始めている。

 この、彼女自身が兎となって、黒服の男に飼われる夢は。

 その夢の中で彼女は真白い兎になる。しかし、どういう訳か、人語を解している。まぁ其処は、やはり夢なのだしとリアリティを容認しても、彼女の夢は実に現実感を帯びていた。

 まるでスライドで作った立体アニメーションを見せられているみたい。了子はこの夢を見る度、そんな感想を持つ。そして、そういう風に感じる自分を冷静に見た時に、小さな羞恥を味わうのだ。


「了子」

彼が消えていった方向から、声がした。

 彼女を飼う黒服の男は、低くぼそぼそした声で喋る。あまりに通らない声なので、近くで囁かないと聞こえないのではないかと思えた。しかし、この夢の世界の中で、男の声は隣の部屋からでもしっかりと耳に届いた。そのくらいにこの家は静か過ぎた。音を遮る光も薄い。

 薄暗く、静かな部屋。フローリングと白く貼られた壁が真四角に此方を囲む部屋。夢が始まる時はいつもこの光景で始まるから、随分見慣れてしまった。そして、了子がこの部屋の様相を認識してから、木製のドアがゆっくりと押されて開く。ドアノブが、がちゃりと言うのが何故かとても耳に付いた。

「了子」

ドアを開いたのは勿論、黒服の男だ。さっきよりも近い声でもう一度彼女は名前を呼ばれる。

 彼に呼ばれた了子は返事の代わりに男の方を見上げ、鼻をひくひくとさせた。男は何事か話しているが、了子の長い耳には内容が届かない。了子はただ、男の首を伝い肩まで届いて鬱陶しい黒髪をぼんやりと見ていた。

「切ればいいのに」

そう言ったつもりでも、夢の中では都合の良い時だけ完全に兎である。夢の中とは実に都合が良い代物だ。

「じゃあ、行ってくるよ」

黒い彼はひらひらと手をふり、重たい鉄のドアから出て行った。たぶん出掛けるとでも言っていたのだろう。

 了子は部屋の中で放し飼いされ、フローリングの上、遠く重苦しい玄関扉のねずみ色を見ていた。

 彼女は兎だから一人で向こう側には行けないのだ。




● 弐 ●


 朝目覚めて顔を洗って歯を磨き、制服に袖を通し、櫛で頭をセットした。台所へ行き、母が作ったお弁当の包みを鞄に入れ、玄関の外へ行き、電車の中へ移る。

 こうしたオートマティックに進む朝の儀式を通過すると、気づけば既に学校に居り、自分の席で授業が終わるのを待っていた。

 そして耐え忍んだ結果、今はもう四時間目の数Ⅱの授業が半分終わろうとしている。教室にはかりかりとシャープペンシルをプリントの上で滑らせる音が鳴っている。張り詰めた空気の中で欠伸を押し殺すのも一苦労だ。

 沈黙と忍耐と眠気。

 現実は何と退屈だろう、この机と椅子と黒板と無数の黙った人間たちの居る場所を見ていると、ひどく現実と言うものが退屈に思えて仕方が無い。半分以上は終わった数学のプリントをぼんやりと見ても、頭に入らない。秀才がすらすらと、或いは苦手な人が四苦八苦しながら解くこの数学の問題も、全くリアルではない。紙面に描かれた記号と数字の羅列は、面白く書かれていないファンタジーのように遠く感じる。

 早く解放されないだろうかと思っても、時間は止まってしまったように鈍い。どんなにさっさとシャープペンを走らせても、全く遅いように感じる。

 夜に見る夢の中などはこんなに不自由に感じない。衝撃的な事でもまるで映画のように楽しい出来事に変わる。例えば現実よりも現実的なのに不可思議で、都合の良い素敵な夢でも見れないだろうかと考え、そんな至高の世界が本当だったらどれだけ良いだろうと思う。けれど、現実はこのように、文字が書き連ねられて行くばかりのもの。

 そう思うと、途端、いくつかの溜め息が勝手に出てきてしまう。このまま不幸が逃げていったら、どうしよう。 

 うららかな昼時前のしゅわしゅわした時間を、窓際で呆けながら、彼はそんな事を思うのだった。




○ 参 ○


 今しがた、ようやっと半分やり終えた数学のプリントから、了子は目を離した。後頭部に触れると短い髪がえりあしの辺りで終わった。

 時計を見ると、授業は残り十分となった。数学が得意でも苦手でもないが、了子には今このプリントを達成する事が楽しい事だとは思えなかった。既にもう彼女の手はやっているフリで左右に動くばかりである。そして、その手作業すらそこそこに、兎化する夢に思いを馳せ始めた。その方が余程に楽しかったからだ。ぱっと見、クールな様相ですっかり夢想家の了子さんである。

 けれど、夢想家で無くても気になる夢見ではある。

一度だけ見る不思議な夢ならば気に留める事も無いが、こう何回も同じ夢を見ていれば一体何の意味があるのだろう、と考えてしまっても不思議ではない。しかも、兎となって人間に飼われる夢だなんて妙ちきりんな内容を見ていれば尚の事だ。あまりに何度も繰り返し見るので、いっそ向こうが現実なんじゃないかと夢想家らしく、了子は考えてしまう。

 夢の中で鏡に映した事は無いが、きっと本当に真白い綺麗な兎だと思う。自画自賛かもしれないが、了子は姿の見えない夢の中の自分を純白の兎だと疑わなかった。

 そして、夢に出てくる黒服の男は誰だろうと考える。見当もつかないし、誰かに似ているとも思わない。その人個人を表す為の顔や身体や雰囲気をしている。他の誰かに似させる為の模造品ではないように感じる。名付ける事を憚るくらいにリアルに思えるのに、名前も無い黒服の男。

 床に這いつくばるように存在している兎の了子に、伸ばされる骨ばった手や、スリッパだったり素足だったり靴下だったりする足元。

そして、思い浮かべる事の出来るあの顔。

 イメージをして、了子は他の誰かにバレてしまわないように小さくほくそ笑んだ。まるで乙女な様子の自分自身を、何処か遠くの意識で失笑しながらも。




● 肆 ●


 チャイムが鳴って、待望の昼休みとなる。

一時勉強に解放された生徒たちはばらばらと昼ご飯を求めて行動を始める。彼もまた同じように、持参した母手製の弁当を片手に、いつものランチタイムに突入した。

 彼は常日頃、二つ隣のクラスの連中と集って、わやわやと昼休みを経過しているのだが、今日に限って、弁当の包みの中に箸が入っていなかったので、購買で割箸を手にしようと廊下をぺたぺたと歩いていた。げらげらと言う笑い声が廊下にまで響いて、4階の階段から下へ降りていく間でも聞こえてくるので、自分の居る場所が日頃いかに煩いのかが分かってしまう。

 ああ煩せぇなぁと思いながら、彼は教室に取り残された賑やかさがどうしようもなく好きだと感じる。

 下る階段、冷たいコンクリートの柱を避けて、左に曲がる渡り廊下がある。筒抜けの半分外の道を通過しながら右を向けばグラウンドが見える。きっと今の時間は陸上部の精鋭たちが自主練習なんてしているようだった。 

 彼も又、陸上部員なのであるが、大会に出られるほど記録が良くないので、昼休みの練習は免除されている。スパルタ気味な顧問に選ばれなかった敗北感と引き換えに手にした、複雑な休息と言う訳だ。




○ 伍 ○


 似通ったものに反応してしまうのは、人間の脳にとってごく普通の摂理だ。

ふっと自販機に行った帰りなどに誰も居ない廊下の、静かで冷たい空間に遭遇してしまうと、あの夢の中の部屋を思い出してしまう。

 床はフローリングではなくてタイルで、壁は白い壁紙ではなくコンクリートだけれど、この人の居ない廊下の冷たさは、夢の中の住み家に共通している。あの部屋の雰囲気はその家主にも。

 了子は自分が人の居ない廊下に立ち止まっている事に気付いた。そして、すっかり侵食されてしまっている頭を振って、了子は夢想から現実に帰る。此処では自分は人間なのだから、と。

 了子はゴム底の上履きでタイルを踏みしめた。

 自販機コーナーから了子たちの学年の教室に戻る間には渡り廊下があり、其処からグラウンドが見える。廊下は案外長く、十メートルほど有りそうだ。左を向けば、グラウンドが見える。

 走者の為のトラックでは体操着姿が何人かランニングをしていた。たぶん、運動部の何かだろうと推測し、大変そうだと心の中で呟く。体育会系に縁の無い了子には、スポコン的なあの場所が一番遠い世界のように思えた。

「あ、なんだ。ガガーリンじゃん」

前方から聞き馴染みのある声。今、この渡り廊下にはソビエトの宇宙飛行士が居る訳ではないので、その声は了子に向けられたものだと察しがつく。

 無愛想な顔のまま、了子が振り向くと其処には彼が居た。




● 陸 ●


「誰がガガーリンか」

 彼がそう呼びかけると、呼びかけた人物は前を向いて此方を見据える。その顔は「やっぱりあいつか」と言いたげに見えた。

 彼は自発的に、からかい混じりの笑顔を作った。

「えー、だってガタだろ」

「カタだし」

「や、同じようなもんだし」

「違うし。あんたなんてブリキじゃないの」

「あ、ひでぇ。せめて元素記号で言ってよ」

 彼は言い返されてもからからと笑って、余計に軽口を叩いた。賀田了子が睨むこの男、名前を錫木俊矢と言う。

 了子から遠い処にあるはずの運動部員で、去年は同じクラスだった。何かの授業中に起こったガガーリン事件(単に錫木がガガーリンをガターリンと言い間違えた)を端緒に、対して俊矢の苗字に入っている錫がブリキに塗られている表面材だからと言う理由で、お互いそんな風に呼ばれたり、呼んだりしている。悪口や軽口を含んだようなアダ名で呼び合う、あまり平和だとは言えない関係だ。

「でも髪の毛短すぎて判んなかったぞ賀田ーリン。暗闇で見たらホラーだろうなーそれ」

日本人形みたいじゃん、と錫木。

「やかまし。私、本なんて読まないんだけど。ブリキだって短すぎじゃない」

「俺は運動系だからいいのー」

了子はやはり切り過ぎたと思っているのか、首元が気になっていますといった風に、2センチも無い後ろ毛を手で押さえた。

 錫木は了子の姿を見る度に、賀田は本を読んでそうだ、文学少女だ、きっと人里離れた屋敷に住んでる不思議少女系なんだと言う勝手なイメージを持っていた。その為、人に文庫本を押し付けて「さぁ存分に読め」と言った覚えもある。そういう風に見えるのが了子であり、そういう不可思議な人格をしたのが錫木俊矢である。ガガーリン事件から人格的に縁の無い人間だと了子は思っているようだが、こうして時折遭遇してしまうのだから因果である。

 了子が不可解を表情に浮かべるのを見届けて、錫木は満足そうに笑う。了子がいかにも不可解そうに眉をひそめるのを見ると、俊矢の中の了子のイメージがきちんと整ったように感じて、満足をするのだ。何も無かったように「じゃ、俺これから楽しいランチタイムだから」と自分の事情を語って、その場を去った。すれ違いざまの了子も、俊矢と反対方向に歩いていった。



○ 漆 ○

 夢の中では、今日も了子は白い飼い兎として過ごす。

与えられた餌をのそのそと食しながら、濁った灰色の玄関ドアをじぃっと睨んでいる。

 部屋の中にはレタスを食す音が響くばかり。

 部屋の空気は冷たいだけで、此処何日か黒服は家に帰っていないのだと判る。今の了子は、餌箱に用意されたにんじんやレタスを食い繋ぎ、飼い主の帰りを待っているのだ。

 開かないか、開かないか、と思ってドアを睨んでいると、思うが侭で、重い扉が開き、出て行った時とは違う黒い服を着た家主が現れた。だいぶ、足取りは怪しく、ふらふらとソファに辿り着いて、横に倒れ込んだ。

 了子は兎の姿のまま、定位置からソファまでひょこひょこと近寄ると、黒服の男はずるずるのシャツの腕を伸ばしてきた。逆らわない了子を拾い上げて、仰向けに横たわる自分の腹の上に乗せてやる。了子の位置からは、男の顎や顔がよく見えた。

 黒い者の上を白い小さな生物が陣取っている。了子は、この状況を優勢と捉えて一歩前に出る。

 間近で見る黒服の家主は、この前と違う服なのに、随分よれよれで、不精して髭まで伸びている。

「ぼろぼろだね」

兎のまま、了子は人語を解した。本当に意思の疎通をしたい時には、通じるように出来ているのである。

「あー、だって大変だったんだよ」

「服は?」

「着替えなきゃいけなかったから捨てた」

「髭は?」

「剃る暇なんて無いよ」

「お酒?」

「呑んでない」

「何でふらふらなの」

「疲れたから」

「何で?」

「全力疾走」

「逃げてたの?」

「そう」

質問と応答の応酬。兎と人間の会話は簡潔に成り立っていた。

「何やってたの?」

「お天道様の方を向いて歩けない御仕事」

「じゃあ私もお天道様に顔向け出来ないね」

「なんで? 了子はウサギ目ウサギ科で、職業が兎じゃないか」

「あの餌のレタスは貴方のお給料で買ったものじゃない。同罪になっちゃう」

彼は失笑して、

「お前は妻か」

とぼそぼそした蕎麦みたいな声で、飼い主は笑いながら言った。温度が低く感じる部屋で、だるそうに、微かに笑う姿は何だか珍しくて、兎の了子は戸惑った。

「別に、ちょっと正社員じゃないだけだよ」

黒服はそう言って、ずるずるとソファから滑り落ちて行った。了子はソファの背もたれ側に居たから、落ちていく黒服と背もたれの間に飛び降りて難を逃れる。

 がたんと音をたてて、黒服は床に落ちた。むがぁとか何とか呻いたが、起き上がる様子も無く、そのまま眠る気でいるらしい。

「ねぇ」

もう一度、了子が黒服に呼びかけると生返事のような反応があった。

「黒服さん、名前は?」

「    」

黒服はフローリングの上で寝返りを打った。




● 捌 ●


 昨日までの毎日と同じ、通学は殆どオートマティックだ。支度をして、意識をしていなくても電車に乗り込んで、通学路を移動している。頭の中ではひとつの考え事がメビウスの環のようにエンドレスしている。勝手に進んでいく足と、思考する事をやめない頭。まるで、頭と身体が分離してそれぞれ活動をしているかのようだ。

 電車の窓ががたがたと揺れて、景色をどんどん送っていく。住宅地から少し開けた処が見えてきたので、そろそろ終着駅だろう。其処から、また足を使って学校を目指さなければいけない。

 繰り返される光景は実に日常的だ。繰り返されるからこそ日常だし、日常だからこそ区切りに出会うまで、ずっと続いていくのである。

 ずっと続いていく中にある小さな隙間、その中にハマってしまったように、俊矢の考え事は止まない。頭を盗られたような、ぼんやり感。

 どんなに笑ってみても、空虚な時は空虚だし、走っていても授業中でも、ふと訪れる隙間がある。

 きっと埋めるものがあるはずだ、と俊矢は夢想する。この頭の中に隙間を与えない程の圧倒的な存在感。

 もしかしたら大会メンバーに選ばれたら、それを手に入れられたのかもな、と悪い風に、俊矢は考えていた。

 うわぁ、寂しい。

 彼は自分に向かって軽口を叩いた。そういう風にしている自分自身がより一層に寂しいんだと思う事は、やめておいた。





○ 玖 ○


 黒服の男と会話をした後、何故自分が名前を尋ねたのか、聞いた本人でもはっきり判らなかった。自分の頭の中で展開されているはずの夢なのだから、起きている時に勝手に名付けたって良いはずのものを、わざわざ夢の中で本人に訊いているのだから、我ながら律儀なものだと了子は思う。確かに名付けるのも憚るくらいに、リアルな人だとは思っていたけれど、と。

 やっぱり一方が名前を知っているなんて、不公平だと思ったから知れたのかしら。了子は自分の夢の不思議を正当化出来る様子を頭の中で探し巡った。


 現実に目を向ければ、又いつものように学校で、国語の授業を展開する教室の中に居て、授業が終わるのを待っていた。板書を取り、話を聴いて、これの何処がテストに出るものかと考える。そして、また授業の間に出来るちょっとした間で、了子の思考は兎の夢へと辿り着いてしまう。

 彼の仕事って何なのだろう。

 何から逃げていたのだろう。

 何でソファから落ちたんだろう。

 どうして兎と人間で会話が成立するのだろう。

 妙にリアルなテイストな癖に、不可思議な事ばかりの夢に、了子はリアリズムな答えを欲しがっていた。

 そんな調子だから、一度授業から脱線した思考はなかなか戻らず、昼休みも過ぎ、放課後も過ぎ、下校路を行く事がとても早く感じてしまってどうしようも無かった。

 早く夢が見たかったのだ。




● 拾 ●


 その夜、夢の中で兎になった。

 其処はフローリングの床と白い壁紙の張られた部屋で、明かりは薄く、仄暗い部屋だった。四角形に囲われているように、部屋の中程に形ばかりのケージが置いてあり、その周りには餌箱がある。この部屋には木製の扉があるけれども、自分自身でこれを開く事は出来ない。

 誰かが部屋を開けてくれるまでは、兎は部屋から出る事が出来ないのだ。

此処は薄暗い部屋と、静か過ぎる部屋と――。

ああ、これは、夢だ。





○ 拾壱 ○

 

 周りにあるのは暗い部屋ではなく、ギラギラしたネオンが上空で光る、明るい町並み。

 了子は黒服に連れ出されて、部屋の外、マンションの外、町の中に居た。夢の中、名前を聞きだしてからと言うもの、全くイレギュラな展開だ。自分の夢ながら了子は、この見ている夢がどうなるのかさっぱり判らなかった。何気無く、彼が外に出かけて、それに自分も付いて出ている事に了子はとてもビックリした。

 此処は何処にでもあるような、夜半の方が人の往来が多いようなベッドタウンのようだった。高いビルは大抵マンションだし、二十四時間営業の店が電灯を明々と灯し続けている夜の景色。あの部屋の外の世界はこんな風に現代的なものだったんだと、リアリズムを追求する了子の精神はふわふわと浮かれていた。

 了子は夢の通例の侭に、兎の姿だった。黒服の腕に抱えられ、その歩みと同じ振動を体験しながら街路を進んでいる。路傍には煙草やドリンクの自動販売機。日頃見ているものが、何て刺激的に見える事だろう。

 今、喋れるのだろうか。了子は思い、声を出す。

「    」

呼んでも気付かれない。折角手にした名前で呼んでも、全く効果が無い。男はそのまま、小さなマンションの玄関口に入り、すぐ傍にあった同じような顔で並んでいるポストのひとつに、了子は押し込められた。隙間があるから苦しくはないけれど、男は何も言わずに立ち去ろうとして、蓋を閉めかける。

 とても不吉な光景。

 ちょ、待って。了子は懸命に前進し、ポストの縁から飛び出した。

 すとっ、と着地する。膝を打った。

 あれ?

 落下すると、いつもより視点が高かった。靴ではなく、細い黒服の足が見えた。見上げると、やっぱり、とでも言いたそうな黒服の困った顔があった。

「え?」

「あー…、早いな」

 どういうことかと訊くより前に、黒服は了子の腕に手を伸ばした。手首より上を掴まれ、了子は引っ張られるように同じ方向へ。

 マンションの入り口を出て、元歩いていた道を再び歩き出す。展開が速すぎてついていけない。

 了子よりも高い彼の身長を見上げ、掴まれた腕の感触を意識する。白いブラウス越しの手の感触は、夢なのにリアルだった。兎の了子だったら、こんな高さに視点は無いし、ブラウスなど着ていない。

 これは、夢だ。

 了子は今更ながらこれが夢だと自覚しようとする。何の夢なのか、誰の夢なのか?

「    !」

黒服の男の、名前を呼んでみた。

 けれど、彼は了子の腕を同じ強さで掴んだ侭、ずんずんと前へ歩いていく。腕の中に、兎の居る様子は無い。

 自分はもう兎ではないのだ、と了子は理解した。

 携帯ショップの前を通った時に聴こえた流行りの男性ヴォーカルの声が、耳についた了子は不愉快だった。

 まるで現実のようだったから、不愉快だった。




● 拾弐 ●


 此処は寒い、此処は寒い、誰も居ない、ひとりぼっち、檻の中、誰も居ない夢の中、自分ひとり、夢の中は自分ひとり、ひとりぼっち、暗くて寒い、此処は何処だ、鳴けない、鳴けない、届かない、空は無い、音も聞こえない、此処は何処だ、此処は夢の中、僕の夢の中、走れない夢の中、夢の中。

 俺が兎だったら、きっと寂しくて死ぬって言う結末になるんだろう。

 俊矢は夢の中、うんと苦しくうなされて、夢の中の檻をがたがた揺らした。




○ 拾参 ○


 交差点を渡って、路地を曲がった。

 曲がった先には小さなローカルのコンビニエンスストア。了子は引っ張られた侭、店舗の敷地の隅っこに設置された自販機の隣に、配置された。目の前に黒服が立っているから、そこから逃げられない。

 黒服は了子の腕を放して、鬱陶しい前髪の向こうから了子を見た。

「いいか、これは夢だ」

知ってる。

「なぁ、そろそろさ、起きて仕事しなきゃいけないし」

どうして。

「もうこんな事ばかりしていられなくなった」

どうして終わるのか。

「それに」

何てつまらない。

「もうそろそろ俺は、別の夢が見たいんだ」

これは夢だから、別に涙も出ない。

「おはよう」

 ふ、と。黒服がそう言って、何も無かったように消えた。黒服の存在が取り消されて、無効になってしまった。消しゴムをかけるのよりも綺麗に、目の前から黒服は消えた。

 これは夢だから、了子は別に涙は出なかったが、どんな失恋よりも手痛い終わり方だと思った。


 了子は、自販機のすぐ其処にあるコンビニで、軍手とサンドウィッチと、何故だか売っていた小さくて簡単な錠前の鍵を、レジへ持っていった。そうしたら、ポケットの中には七百五十二円しか入っていなかったので、軍手を減らしてもらった。コンビニの店員は何処にでもいそうな普通のおじさんだった。

 これは誰の夢?

 来た道が正確に判る不思議さと、どうして彼が消えた途端、この夢も終わってくれなかったのだろうという疑問と一緒に、了子は乾いた目で帰り道を歩いた。




● 拾肆 ●


 がちゃ、がちゃ。

 暴れて檻が動いた、のではない音がした。

 重そうな扉が開くのを俊矢は見た。

 見た事の無いマークの付いたビニール袋を提げた、白ずくめの女がひとり。俊矢は檻を鳴らさなかった。

 ばたん、と冷たい玄関が音を発して、閉まった。がさがさと言うビニールの音と、足音の無い女の歩き方。髪の短い少女は頭まで真っ白だったが、一点だけ髪がこげ茶に染まっている処があった。目は乾いていたが、赤く充血していて、もしかして泣いた?と訊きたくなった。が、俊矢は今、きっと人ではないので、たぶん喋れないだろうと自己解決する。

 白い女は俊矢の檻の前で座り込んで、檻の中をじっと見た。

「お前は茶色いのね」

どうせなら、真っ黒いのが良かったのに。と、女はぼそりと言った。それからビニール袋からハムサンドを取り出して、開封し、レタスだけ引き抜いて、俊矢の前に出した。

「……要らないの?」

 其処で変な夢は終わった。

 目覚めて俊矢は笑った。




○ 拾伍 ○


 朝目覚めて、了子は夢が終わってしまったのだと理解した。平日だったので、仕方なく、ベッドから這い出して、顔を洗い、歯を磨き、着替えて、切り過ぎた髪の毛を梳かした。

 夢の影響か、まだすっきりしない頭で、バスに乗り、学校の前まで。下駄箱で靴を履き替えると、

「あ」

昇降口側から声がしたので、顔を上げた。声から察知できた通り、錫木俊矢の姿が其処にあった。

「よぉ、ガガーリ…」

「うっさいブリキ」

昨日と同じで、相変わらず悪態をつきあった。

「お前さ、変な夢見た事ある?」

反対側の下駄箱で自分の上履きに履き替えながら、俊矢がそんな事を言うので、了子は内心どきりとし「昨日終わっちゃったばかりよ」と言い掛けた。

 了子の返事も待たず、俊矢は妙につやつやした顔で続ける。

「やー俺さ、変な夢見たんだけど、結構な悪夢だったんだけど起きたらなんかすっきりしてんだよね」

「へー」

心無い返事の了子。

「何か暗い部屋に白い女が……」

「へー」

「レタスを……」

「へー」

「聞けよガターリン」

「へー」

了子は投げやりに、卯化する夢を一蹴した。

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