かねのおと
初夏の昼下がり──
由紀子は、幹線道路沿いのがらんとした駐車場に、レンタカーを停めた。
やたら大きく「龍神沼」と書かれた看板の下には、簡単な地図も描かれてる。
どうやら、駐車場脇の林道をまっすぐ行けば良いらしい。
周囲には、誰もいない。
携帯型の日傘を広げ、由紀子は杉の木立に囲まれた林道を降りていった。
空は晴れ渡り、気温は高いが、まだらに落ちた木漏れ日がゆらゆらと揺れている。
暑いのは暑いが、高原らしい、爽やかな天気だ。
自然、足取りも軽くなる。
本当は、こんなところに来るはずではなかった。
同僚の急病で、代わりに担当することになった地方出張。
無事、仕事が終わった夕方、隣の市の外れに、祖母の実家・機越 (はたごえ)家があるのを由紀子は思い出した。
祖母が亡くなったのは、由紀子が十歳の時。
葬式は東京で行ったものの、祖母本人が強く希望していたとかで、遺骨は機越家の墓に収められ、そちらで供養されることとなった。
祖母の新盆の時、父に連れられて、一度だけ墓参りに行った記憶がある。
映画「犬神家の一族」や「八つ墓村」に出てくるような、座敷がどこまでも連なっている、どこか薄暗い、大きな屋敷だった。
だが、「機越」との縁はそれっきり。
一周忌などの法要はあちらで行われ、父も出ていない。
だいぶ経ってから、祖母は、駆け落ち同然に祖父と一緒になったため、もともと疎遠だったのだと聞いた。
祖母の実家のあたりには、縄文時代の遺跡が多い。
大学生だった祖父は、指導教授の調査の手伝いに来て、遺跡を掘っているうちに祖母と知り合ったのだそうだ。
出張は木曜だったので、翌日の金曜は有給休暇にしていた。
自腹で後泊し、軽く観光でもして東京に戻るつもりだったから、そのついでに行こうと思えば行ける。
祖母のことはあまり記憶にないのだが、かわいがってもらった印象はうっすらある。
この地方に来る機会はそうないのだし、この際、墓参りくらいしてもいいのではないか。
東京にいる父に聞いてみたら、「あそこは難しい家だから」と気が進まない様子だったが、住所と電話番号、そして家のすぐ裏手にある墓の、だいたいの場所を教えてくれた。
念のため、教えてもらった番号に電話してみると、不通になっていた。
もう、誰も住んでいないのかもしれない。
ならばむしろ、気が楽だ。
地図を見ると、避暑地として有名な高原のはずれにあたる。
もし、墓参りが巧くいかなくても、観光はできそうだ。
というわけで、適当な宿に泊まった翌朝。
駅前で車を借り、有名な渓谷に立ち寄ってしばし絶景を楽しんでから、由紀子は、父から聞いた住所をカーナビに入力した。
観光道路で隣の市に降り、閉店したままの店や空き家が目立つ小さな市街地を抜けていく。
やがて、道はゆるやかな上り坂になった。
両側は、どこまでも広がるキャベツ畑と、青々とした田んぼ。
太陽光パネルを並べた休耕地も、やけに多い。
信号すらほとんどない、まっすぐな道を駆け抜けているうち、由紀子は運転に飽きてきた。
少し歩きたいし、冷たいものでも飲みたい。
だが、幹線道路なのに、コンビニも、ファミレスも、見当たらない。
一度、ログハウス風の喫茶店が見えたが、休みだった。
観光客目当ての、休日だけ開ける店なのだろう。
そんな中、気になりだしたのは「龍神沼」の方向表示だ。
「龍神沼 ↑5km」
「龍神沼 ↑4km」
「龍神沼 ↑3km」
由紀子は、和物のホラー・ミステリーが好きだ。
横溝正史は大好きだし、京極夏彦の作品や、三津田信三の「刀城言耶」シリーズも揃えている。
龍神沼。
いかにも伝説の一つもありそうな名前だが、一体、どういうところなのだろう。
いずれにしても、こんなに表示があるのなら、相応の名所のはず。
休憩所くらいありそうだ。
しかも、機越家に行く途中だから、遠回りにもならない。
というわけで、「龍神沼」に立ち寄るつもりになったのだが──
林道を少し行ったところで、由紀子は拍子抜けした。
小さな広場に、大きな看板が出ている。
別荘地の区割り図だ。
木立の間には、別荘らしい煙突のついた赤い屋根も見えた。
どうやら、このあたりは財閥系ディベロッパーが開発した別荘地らしい。
敷地図の端には、ついでのように「龍神沼」の位置も描きこまれていた。
これでは、神秘的な沼を期待しては駄目だろう。
ま、せっかくだし、行ってしまうしかない。
林道はすぐに突き当たり、左に折れていた。
その曲がり角から、右ななめ下に向かって、丸太に似せたコンクリートの棒で土留めした階段が伸びている。
十数メートルほどの階段を降りると、沼をめぐる遊歩道だった。
びっしりと生い茂った笹薮の向こうに、水面が見える。
一周二十分くらいで回れそうな沼があり、沼をめぐる遊歩道があるだけのようだ。
休憩所どころか、自動販売機すらない。
しかし、木々の濃い緑を映す、初夏の高原の水面は美しかった。
あたりは静まり返り、遠くで鳴き交わす鳥の声、そしてさやさやと揺れる笹の葉擦れの音しか聞こえない。
場所によってはだいぶ浅いようで、底の泥が金色に輝いてみえるところもある。
由紀子は、遊歩道をゆっくりと歩き始めた。
沼の真ん中には、島があった。
都会育ちの由紀子には名前のわからない、ひときわ深い緑の樹が、水面に覆いかぶさるように影を落としていて、良いコントラストになっている。
ふと、向こう岸で、男性が水面を覗き込んでいるのに由紀子は気がついた。
こちら側は岸が高い上、笹薮が邪魔になって水面に近づけないが、向こうは遊歩道から沼のすぐ傍まで行けるようだ。
男は、白い服を着ていた。
白いシャツに白のパンツ。
バケット型の帽子も白だ。
いったい、なにを覗き込んでいるのだろう。
魚でもいるのだろうか。
いや、違う。
男は、微動だにしない。
浅い沼の底の一点を、魅入られたように、ただ見つめている。
──あそこに、なにかあるのだ。
そう思った瞬間、由紀子の胸の奥が熱くなった。
自分も、見てみたい。
いや、見なければならない。
きっと、あそこにはあるのだ。
自分が、ずっと探し求めていたなにか。
いくら仕事をしても、恋をしても、得られないなにかが。
由紀子は、こくりと喉を鳴らした。
汗で滑りかけた日傘を、ぐっと握り直す。
早く。早く行かなければ。
あの男のところに、行かなければ。
由紀子が一歩踏み出した瞬間、リィン!と大きな音が耳元でした。
驚いて、飛び上がりかけたほどの音だ。
リィン!
リィン!
リィン!
緊急地震警報よりも、大きい。
なにかの警報だろうか。
まさか、熊!? 熊が出現した警報なのか!?
由紀子は慌てて、スカートのポケットに突っ込んでいたスマホを取り出した。
が、何も表示はない。
そこに、別荘地の方から、小型犬を連れた老人が坂道を降りてきた。
いかにも賢そうなシュナウザーを先に立たせ、悠揚と歩む姿は、老紳士と言った方がしっくりくる。
リィン! リィン! と尋常でない音が鳴り響く中、老紳士はすたすたと近づいてきた。
一瞬、視線が交錯する。
老紳士は、穏やかな表情を浮かべたまま、目礼しながら由紀子とすれ違った。
由紀子は直感した。
この音は、老紳士には聞こえていない。
自分にしか聞こえていないのだ。
はっと、由紀子は池の向こう側を見た。
あの白い男は、音に反応しているだろうか。
しかし、男性の姿は消えていた。
いや、そんなはずはない。
眼を離したのは、ほんの数十秒。
一分も経っていない。
向こう岸の遊歩道は、池の縁に沿っている。
どちら側に走っても、由紀子の位置から見えなくなるところまで走り切れるはずがない。
それとも、どこか、由紀子の死角に入れるような脇道があるのだろうか。
向こう側に行けば、わかるのだろうか。
急に、ぞくりと寒気を感じた。
腕に鳥肌が立っている。
いや、行きたくない。
向こう側には、行ってはならない。
祖母の墓参もやめよう。
もう、東京に帰ろう。
由紀子は、足早に老紳士が降りてきた坂道を登った。
思った通り、駐車場へ向かう林道に合流している。
気がつけば、謎の音は聞こえなくなっている。
だが、由紀子は、最初は早足で、やがて小走りに車へ戻った。
一人暮らしのマンションに、そのまま戻りたくなくて、土産を渡すのを口実に、由紀子は実家に立ち寄った。
由紀子は二人姉弟で、弟の達郎は先に結婚し、もう子供もいる。
実家の近くに住む弟一家は、ちょいちょい実家に顔を出すので、ついでに弟夫婦への土産も託すことにした。
今日、あったことを話していると、父と母はさっと顔色を変えて、顔を見合わせた。
「由紀子。お前、覚えていないのか?」
「え?」
「小さい頃、あなたよく引きつけを起こしてたのよ。
その度に、おばあちゃんが、あなたの耳元で鐘を鳴らしてくれたの。
そしたら、すぐに落ち着いてくれて……
あれは、不思議だったわ」
「鐘? 家の中で?」
寺の鐘を連想した由紀子は、首を傾げた。
違う違う、と父が手を横に振る。
「ほら、福引で大当たりが出たら、からんからんと鐘を鳴らすだろう。
木の棒に、金属で出来たベルがついていて、棒を握って振れば、結構な音が出る」
「あ」
由紀子は、息を飲んだ。
まさに、そんな音だった。
そうだ、思い出した。
祖母は、苦しがる由紀子の頭を自分の膝の上に乗せ、左の手のひらで由紀子の眼を覆うと、右の耳元で鐘を鳴らしながら、なにかずっと呟いてくれた。
やがて、由紀子が落ち着くと、「悪いもんはもうおらん。目、あけてみねぇ」と優しく声をかけてくれた。
おずおずと言われたようにすると、まず目に入るのは、不思議な文様がびっしりと描かれた祖母の手のひら。
手のひらがそっと外されると、いつも通りの世界が待っている。
いつも通りの世界?
いや、自分は、ああなる前に、なにを見たのだ?
「お前が危ないと思って、母さんが出てきたのかもしれないな」
父は、しみじみと言った。
「危ないって?」
内心、混乱していた由紀子は、努めて平静を装いながら訊ねた。
「いや……ふらふらっと、その男のところに行っていたら、神隠しとかそういう話にしかならないじゃないか。
だいたい、白ずくめの男なんて、怪しすぎる。
カルト宗教じゃあるまいに」
「えええええ……
だって、令和だよ? 子供ならとにかく、私はいい大人なんだし」
由紀子は、思わず半笑いした。
「というか、おばあちゃん、どうして実家のお墓に入ることにしたの?
おじいちゃんのお墓でいいじゃない。
普通は、嫁いだ家のお墓に入るものでしょう?」
祖父の墓は、祖父が生まれ育った埼玉にある。
田舎は田舎だが、車があれば行きやすいところだ。
また、父と母は顔を見合わせた。
「それが……機越は、占い? だか、まじない? をする家だったらしいんだ。
その仕事を継がされるのが厭で、父さんと一緒になったんだとかなんとか。
で、倒れて……亡くなる前に『由紀子や、達郎の娘が呼ばれることがあるかもしれない。私があっちに行って抑えた方がいい』と言い出して」
「なにそれ!? こわっ!
だったら、私が行くって言った時に、止めてよ!」
父は視線を泳がせ、母は「言ったでしょ」とばかりに父を睨んだ。
「そうは言っても、そんな話をいきなり聞かされて、信じられるか?
正直、せん妄かなにかじゃないかとも思ってたんだ。
それに、母さんの墓が、どうなったのか気にはなっていたし、お前が見に行ってくれるのなら、ちょうどいいと……」
父は、ため息をついて、首を横に振った。
「だが、やっぱり、あっちにはかかわらない方が、いいのかもしれないなぁ」
「そうねぇ……」
母も、微妙顔で頷く。
「ま、母さんの位牌はこっちにあるんだ。
ついでだから、お参りしていきなさい」
古い家だから、仏壇もある。
祖母の部屋だった、一階の和室に置かれている。
そういえば、祖母が株で儲けた金でこの家を建てたのだと、聞いたこともあったのを思い出しながら、
由紀子は仏壇を開いた。
土産に買ってきたルバーブのジャムを供え、線香を焚いて、父母と一緒に手を合わせる。
祖母が鳴らしていたという鐘を見てみたかったが、父が言うには、機越に返してほしいと言われたので、祖母の遺骨と一緒に渡したそうだ。
夕食を父母と一緒に食べ、由紀子は自分のマンションに戻った。
まずは窓を全開に開き、換気扇も回しながら、蒸れた空気を追い出す。
そのまま荷解きをすませ、ごろりとベッドに転がった。
ふと、本棚に並ぶ、和風ホラー小説の背表紙が眼に入った。
怪異を描く作品に心を惹かれやすいのは、自分が「そういう血筋」だからなのだろうか。
でも、本当に、本当の本当にそういうことがありえるのなら。
もう、こんな作品は恐ろしくて読めない。
こうして背表紙を眺めているだけで、ぞっとする。
そうだ。明日にでも、古本屋に持ち込んでみよう。
ほとんどが文庫本だから、たいした値段にはならないだろうが、売れたらそのお金でちょい飲みでもして、忘れてしまいたい。
やおら起き上がると、由紀子は窓を締め、エアコンをつけた。
紙袋に本を詰め、玄関先へ持ってゆく。
一通り、片付けてしまうと、すっきりした気持ちになった。
だが──
シャワーを浴び、電気を消して横になったところで、由紀子は気づいた。
自分は、引きつけを起こしたことをまったく覚えていない。
十歳まで一緒に暮らしていたのに、異様なくらい祖母自身のことも覚えていない。
七歳の時に亡くなった祖父のことは、顔や口癖、褒めてくれた言葉、その表情などをはっきり覚えているのに。
自分の目を覆っていた、祖母の手のひらの文様と鐘。
あれは、この世ならざる恐怖を忘れさせる術だったのではないか。
その副作用で、祖母のことも忘れてしまったのではないか。
それでも、自分はいい。
祖母に守られて、無事育つことができた。
だが、姪の加奈子はどうなるのだ。
可愛い加奈子は、最初の誕生日を迎えたばかり。
もし彼女が怪異に遭いやすい体質? だったら、どうすればいいのだ。
加奈子を守ってやる術を、自分たちはなにも知らないのだ。
その術を知っている可能性が高い、機越に頼るしかない。
由紀子は、慌ててベッドから出た。
ノートパソコンを立ち上げ、「機越」と検索する。
機械関係の用語や企業が出るが、人名としては該当なし。
AIが、そんな言葉は存在しない、なにを検索するつもりなのかと遠回しに聞いてきた。
そんなはずは、と家名のデータベースサイトで検索しても、未登録と出る。
由紀子は、唖然とした。
そんなことが、今の世の中にありえるのだろうか。
確かに、父は「機越」と交渉したのだし、自分たちも新盆に行ったことがあるのに。
固定電話だって、昔は契約していたはずだ。
父から聞いた、「機越」の住所を打ち込んで地図検索をかける。
当然、こちらはヒットした。
今日、迷い込んだ別荘地の西、山の端にある。
衛星写真に切り替えてズームすると、屋根瓦が連なる、和風の大邸宅のようだ。
南側に芝生の広い庭があり、池もあり、離れもある。
これも、おぼろな記憶に合う。
写真は、去年撮影されたものだが、屋根瓦はちゃんとしているし、庭も荒れている様子はない。
新盆で訪問した時には、大人も子供もたくさんいた。
子供だけで、七、八人はいたと思う。
一人は、中学生で、有名な全寮制の男子校の生徒だと言っていた。
祖母世代は年が年だから、もう亡くなっているかもしれない。
だが、親世代か、自分と同じ世代の誰かが、ここに住んでいるはずだ。
どうすればいいのだろう。
歓迎されないとしても、今度こそこの屋敷に行くべきなのだろうか。
でもそれは、「寝た子を起こす」ことになってしまうのではないだろうか。
しかし、ことが起き始めてから動くのでは、間に合わないかもしれない。
いやいやいやいや。加奈子に怪異が起きるとは限らない。
そもそも、今日起きたことが怪異だったとも限らない。
たまたま、白ずくめの男性を見た。
たまたま、幻聴が聞こえた。
それだけのことで、いいじゃないか。
同僚の急病で仕事が増えて、ここのところずっと忙しかったのだ。
けれど。本当に、そう言い切れるのか。
由紀子は、無意識に、指先で衛星写真を動かしながら考え込んだ。
そうだ、沼の男は、ゆったりとした長袖のシャツを着ていた。
高原とはいえ、三十度を超える夏日に。
袖も裾も、ふわりと垂れ下がり、風にそよいでいた。
温度感覚が人とは違う者もある。
肌にトラブルがあって、真夏でも長袖を欠かさない者もいる。
だが、やはりおかしい。
そもそも、あれは服だったのだろうか。
人間は服を着ているものだと思いこんでいるから、違うものが服に見えたのではないか。
そうだ。あの男の姿勢。
やや前かがみになった、独特の佇まい。
私は、あの男を、前にも見たことがある。
どこで、いつ見たのか思い出せないけれど、見たことがある。
ずっとずっと昔。
遠い昔に。
人ではない、白いひとがたを──
リィン。
記憶にこびりついたあの鐘の音が、残響のように脳裏に響いて、由紀子は肩を跳ねさせた。
急にうそ寒さを覚えて、エアコンを切る。
あれを、思い出してはならないのかもしれない。
けれど、思い出さなければ、それで無事に暮らしていけるのだろうか。
万一の時、加奈子を守ってやることができるのだろうか。
由紀子は、まんじりともせず夜明けを迎えた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
感想、お星さま、いいね、レビューなどなど、御心のままに賜れますと、作者のテンションが上がって、また謎作品を投稿するかもです…
普段は、「異世界恋愛ミステリ」として、破天荒な公爵令嬢が、高笑いしつつ事件を華麗に解決するアホな感じの話を書いています。
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