平民の俺に婚約破棄の証人を頼まないでください
「ユリウス・ハルト、前へ出ろ!」
卒業祝賀会の壇上から、王太子アルフォンス殿下が俺を指名した。
今夜の祝賀会には卒業生だけでなく、教師や家族、後見人まで招かれている。貴族の卒業は、そのまま社交界へのお披露目でもあるらしい。平民の俺には、無料で肉料理を食べられる夜という認識しかなかったが。
断りたかった。俺は平民だが、王子の命令を無視して無事に卒業できるほど豪胆ではない。しかも今夜の目的だった肉料理は、まだ二口しか食べていなかった。皿を置いて人垣を抜ける間にも、給仕が残りを片づけていく。王子、食べ物の恨みって怖いんですよ。
「この者は、セレーネ・グランディス公爵令嬢の悪行を知る証人だ」
知らない。
壇上では殿下の婚約者であるセレーネ様が一人で立ち、その向かいで、リリア・モーゼ男爵令嬢が殿下の腕に縋っていた。俺が来たことで勝ったつもりになったらしく、リリアは目元を押さえながら小さくうなずいた。
殿下の目は、早くうなずけと命じていた。平民の俺が公爵令嬢を恐れず告発すれば、ずいぶん見栄えがいいのだろう。
冗談ではない。課題を見せてくれ、壊した魔導具を直してくれ、先生には黙っていてくれ。そのたびに「困っている女の子を見捨てないでしょう?」と笑った女のために、最後まで便利に使われてたまるか。
男爵令嬢でも、平民の俺には立派な貴族だ。まして殿下のお気に入りと知れ渡った相手に、嫌ですと言えるほど、俺の卒業資格は頑丈ではなかった。
「恐れながら、殿下。俺が目撃したのは、どの悪行でしょうか」
「実験棟で、セレーネがリリアを脅した件だ」
「ち、違います。図書室で教本を取り上げられた件ですわ」
リリアが慌てて殿下を見上げた。殿下も彼女を見る。俺へ渡すはずだった話を、二人とも打ち合わせていなかったらしい。
「両方だ!」と殿下が押し切った。「彼は両方を知っている」
「図書室の件は存じません。実験棟でしたら、リリア様が魔力測定器を壊したところに居合わせました」
近くにいた同級生が、口をつけかけた杯を下ろした。リリアの指が殿下の袖へ食い込む。
「あれはセレーネ様に、危険な実験をするよう命じられたからで……」
「では、なぜ俺に実験報告を書き直させたのですか。ご自分の研究が成功したように見せたい、と仰いましたよね」
「怖くて混乱していたのです!」
泣けば誰かが後始末をしてくれる。今までは、それで通った。だが今夜は、自分から学園中を集めてしまったのだ。俺まで巻き込んだのなら、せめて最後まで自分の言葉で説明してもらおう。
「殿下は、その事情をご存じだったのですか?」
「当然だ。リリアからすべて聞いている!」
勢いよく答えた殿下に、今まで黙っていたセレーネ様が顔を向けた。
「では殿下は、いまユリウスさんが証言した、測定器の破損と報告書の書き直しもご承知だったのですね?」
「それは……」
殿下の勢いが止まり、リリアは縋っていた袖から指を離した。ほんの少し前まで二人で俺を証人にするつもりだったのに、今度はどちらが先に相手を切り捨てるかで迷っている。
肉料理は惜しい。だが、ここまで来ると続きを見届ける価値はありそうだった。
「ユリウスさんが勝手に書いたのです」
先に俺を捨てたのはリリアだった。
「私が失敗したのを見て、恩を売るつもりで報告書をすり替えたのですわ。怖くて殿下に相談できなくて……」
「相談を受けたから、私は彼を証人に選んだのだ」
殿下まで乗ってきた。二人の話がようやく揃ったのは結構だが、そのために俺一人を不正者に仕立てる必要があったらしい。
「では、俺が書いたという報告書の内容を、リリア様はご存じないのですね」
「ええ。見せてもらえませんでしたもの」
「測定値を三百二十七と直したことも?」
「知りません! 私は三百十二と書くようお願いしただけで――」
リリアは口元を押さえた。
俺は何も言わず、殿下を見た。自分で考えて発言すると邪魔になるので、次の言葉を待ってほしい。そんな願いを込めたつもりはないが、殿下には通じたらしい。
「今のは言葉のあやだ。追い詰められて混乱しているのだろう」
「三百十二なら、基準点を超えますわね」
セレーネ様が口を挟むと、リリアの顔から泣きそうな表情が消えた。
「一年生でも知っております。測定値が三百を超えれば、上級魔法実習への参加資格を得られる。リリア様がどうしても入りたがっていた実習です」
「それは、セレーネ様が私だけ参加させないと仰ったからです!」
「わたくしに参加者を決める権限はございません」
近くで誰かが噴き出した。すぐ咳払いに化けたが、隣の生徒まで肩を揺らしたので手遅れだった。
リリアは殿下の腕を取り直した。
「殿下、私、怖いです。ユリウスさんは平民なのに、皆の前で私を陥れようとしています」
「身分をわきまえろ、ユリウス」
これまでリリアに何を押しつけられても、俺は卒業資格を得るために「嫌です」を飲み込んできた。殿下の一言は、俺が逆らえなかった理由を学園中へ説明してくれたようなものだった。
「承知しました。では証言を終え、下がらせていただきます」
「待て。セレーネの悪行を証言してからだ」
「平民の証言を信じてよいのですか?」
殿下の眉間に皺が寄る。俺を黙らせたいのか、利用したいのか。そろそろ片方に決めていただきたい。
「リリアに不利な話は虚偽だ。セレーネに関する証言だけを述べればよい」
今度は咳払いでは済まなかった。笑い声が広がり、殿下はようやく自分が何を命じたのかに気づいたらしい。
セレーネ様は笑わなかった。ただ、婚約者を見る目から、最後の遠慮だけがなくなっていた。
「殿下。わたくしの悪行とは、虚偽の証言がなければ証明できないものなのですか?」
「虚偽ではない! そこの平民が話を歪めているだけだ」
「でしたら、その平民を証人として呼んだのは失敗でしたわね」
セレーネ様の指摘は短かった。殿下は俺を睨んだが、失敗を壇上へ呼びつけたのは殿下自身である。俺にできるのは、申し訳なさそうな顔を作らないことくらいだった。
「もうよい。セレーネ、私はお前との婚約を破棄する。リリアを新たな婚約者とし、卒業後は彼女に王太子妃教育を受けてもらう」
リリアの頬が明るくなった。ようやく望んでいた言葉を聞けたのだろう。殿下の腕へ両手を絡め、涙の残った顔でセレーネ様を見た。
「セレーネ様。私、殿下を必ずお幸せにします。身分は低くても、愛があれば乗り越えられると信じていますから」
「頼もしいお言葉ですわ」
セレーネ様は素直にうなずいた。
「では、明朝から王太子妃教育をお引き継ぎください。外交史、領地法、宮廷礼法に加えて、三日後には北方使節の歓迎式がございます。式次第は今夜中に覚える必要がありますが、愛があれば問題ございませんわね」
「え……明朝から?」
「当然だろう、リリア。君ならできる」
殿下が励ますと、リリアは笑顔のまま固まった。助けを求めるようにセレーネ様を見たものの、婚約者の座を奪った相手へ授業の代役まで頼むのは、さすがに被害者らしく見えないと気づいたらしい。
「でも私、卒業したばかりで体調も……」
「ご安心ください。わたくしも同じ年齢で始めました」
「セレーネ様は公爵令嬢だから慣れていらっしゃるでしょう? 私には、少しずつでないと……」
少し前まで、身分は愛で乗り越えられると言っていたはずだ。リリアの言う愛は、授業開始まで保たなかった。
「ならば婚約者の変更は、教育を終えてからにするべきですわね」
「なぜセレーネが残る話になる!」
殿下が声を荒らげると、セレーネ様は不思議そうに首を傾けた。
「残りません。婚約破棄は、ただいま承りました」
初めて、殿下の顔から怒りが抜けた。
「わたくしは明朝、自領へ戻ります。北方使節との調整も、王家への魔石供給も、今後は新しい婚約者とご相談くださいませ」
王都の街灯から学園の結界まで、グランディス公爵領の魔石で動いている。それを俺でも知っているのだから、殿下が知らないはずはない。
「待て。魔石供給は婚約とは別の話だ」
殿下はようやく、セレーネ様ではなく、その背後にあったものを見始めた。
「王家とグランディス家の取り決めは、今後も変わらない。そうだろう、セレーネ」
殿下の声から、先ほどまでの勢いが消えていた。
「公爵家から王家へ魔石を優先供給する理由は、わたくしが王太子妃となる予定だったからです。婚約を破棄された以上、父が同じ条件を残すとは思えません」
「ならば婚約破棄は保留とする」
殿下があっさり言うと、リリアの両手が腕から外れた。
「殿下?」
「誤解があったのだ。セレーネにも反省の機会は必要だろう」
反省するのはセレーネ様らしい。婚約を破棄すると宣言し、証人に偽証を命じ、平民は黙れと言った殿下には、特に機会が必要ないと見える。
「わたくしは保留を望みません」
「感情的になるな。王太子妃には冷静さが必要だ」
「でしたら、愛にあふれたリリア様が適任ですわ」
セレーネ様が譲ると、殿下は返事をせずリリアを見た。先ほどまであれほど守ろうとしていた相手なのに、王太子妃として見直すには時間が必要らしい。
「私には無理です!」
リリアが叫び、今度は全員の視線を集めた。
「私は殿下のおそばにいたいだけです。外交も領地法も分かりませんし、歓迎式なんて失敗したら皆に笑われます。セレーネ様が今までどおりなさればよいではありませんか」
「では、殿下の婚約者はどなたになるのです?」
「私です。でも王太子妃のお仕事は、慣れているセレーネ様が――」
笑い声は起きなかった。
同情していた令嬢が、リリアから半歩離れた。ほかの生徒も続き、いつの間にか殿下とリリアの周りだけが空いている。
「リリア、今の発言は撤回しろ」
「だって殿下は、私には苦労させないと仰ったではありませんか!」
「それはセレーネが王太子妃として支える前提で――」
殿下は途中で黙った。
今夜いちばん見事な証言だった。王太子妃の地位だけをリリアに与え、面倒な仕事は捨てた婚約者へ続けさせる。二人が描いていた将来を、殿下自身が皆の前で説明してくれた。
「俺は、もう下がってもよろしいでしょうか」
「黙っていろ!」
「先ほどから、そのようにしております」
今さら俺が何か足す必要はない。二人とも、こちらが口を挟む暇もないほど立派に自滅していた。
セレーネ様が俺を見て、ほんの少し口元を緩めた。笑われたのか感謝されたのかは分からないが、少なくとも怒らせてはいないらしい。
「殿下。婚約破棄の宣言は撤回できません」
保護者席から壇上へ上がったグランディス公爵が、娘の隣に立った。
「正式な手続きは後日となりましょう。しかし我が娘を罪人と呼び、別の女性を婚約者にすると公言された。その事実まで、保留の一言で消せるとお考えですか」
「公爵、これは若者同士の行き違いだ」
「では、若者同士で収めていただきましょう。セレーネは婚約破棄を受け入れました。私も娘の意思を尊重します」
殿下はそこで初めて、公爵へ向けていた顔をセレーネ様へ戻した。
「お前から説明しろ。父上に、私を支える意思は変わらないと」
「変わりました」
助けを命じられて、セレーネ様は迷いもしなかった。
「わたくしが王太子妃教育に耐えてきたのは、いずれ殿下と国を支えるためです。リリア様との愛を支えるためではございません」
「だが、お前にしかできない仕事がある!」
「それを理由に婚約を続けたいと、なぜ破棄を宣言する前に思い出してくださらなかったのです?」
殿下は答えず、今度はリリアを睨んだ。
「君がユリウスの証言は確実だと言ったのだぞ」
「殿下が、平民なら命じれば従うと仰ったのでしょう!」
リリアは殿下の腕を押し返した。
「私はセレーネ様が怖かったとお話ししただけです。婚約を破棄するなんて、殿下がお決めになったことですわ」
「君を守るためだ!」
「守ってくださると仰ったのに、王太子妃の仕事を押しつけるのですか?」
「王太子妃になりたいと言ったのは君だろう!」
「殿下のお嫁さんになりたいと言ったのです!」
似たようなものだと思っていたのだろう。その先に歓迎式や外交史が待っているとは考えなかったらしい。
もっとも、殿下も考えていなかった点では仲がよい。
「ユリウス!」
突然呼ばれ、俺は肉料理のことを考えるのをやめた。
「お前が余計なことを言わなければ、こうはならなかった。今すぐ証言を撤回しろ」
「リリア様が測定器を壊し、報告書を書き直させたという証言を、嘘だったことにしろと?」
「そうだ。それでよい」
「では、殿下が『リリア様からすべて聞いている』と仰ったことは、どういたしましょう」
殿下は答えられなかった。俺の証言を嘘にすれば、存在しない不正をリリアから聞き、それを承知で俺に告発させようとしたことになる。
「ユリウス君」
公爵に呼ばれ、今度こそ背筋を伸ばした。王子と違って、この人に睨まれたら肉どころか俺の将来が消えかねない。
「娘のために証言してくれたこと、礼を言う」
「いえ。俺は事実を答えただけです」
「そうか。ならば、その事実を理由に君の卒業を妨げる者が現れた時は、私に知らせなさい」
殿下が俺を黙らせるために使った身分差を、公爵が一言でひっくり返した。
卒業資格を人質に取れないと分かった殿下の顔を見て、俺はようやく、今夜の食事を諦めた甲斐があったと思えた。
「話は聞かせてもらいました」
教師席から学園長が立ち上がった。
リリアが俺に書かせた報告書は、上級魔法実習へ進むための成績資料として提出されている。本人が数値の書き直しを頼んだと認めた以上、学園も聞かなかったことにはできない。
「リリア・モーゼ。卒業認定を一時保留とします。測定器の破損と、過去の提出物について調べが終わるまで、卒業生を名乗ることは認めません」
「そんな! たった一度、少し数字を直しただけです!」
「では、ほかの提出物には問題がないのですね?」
「それは……」
リリアの目が俺へ向いた。
課題を見せてくれ。ここだけ直してくれ。提出期限に間に合わないから代わりに仕上げてくれ。俺の記憶には、彼女が忘れてくれそうな出来事がいくつも残っている。
「ユリウスさんに、意地悪をされました」
リリアはやはり被害者になった。
「平民だからと私を妬んで、親切にした見返りを求めてきたのです。断ったら、昔のことまで悪く言うようになって……」
「俺が何を求めたのですか?」
「それは、口にできません」
うまい逃げ方だった。内容を言わなければ、聞いた側が勝手に下品な想像をしてくれる。
「ならば、俺がリリア様へ送った手紙や贈り物を確認してください。何かを求めたなら、残っているはずです」
「捨てました!」
「一度も送っていません」
今度の笑い声は、誰も隠さなかった。
リリアは殿下を振り返ったが、殿下は手を差し伸べなかった。彼女を庇えば、虚偽の訴えまで信じたことになる。とはいえ見捨てれば、愛のために婚約を破棄したという今夜の筋書きが壊れる。
「リリア。あとは学園の調査に従いなさい」
「殿下まで私を疑うのですか?」
「君が余計なことを言うからだ!」
「殿下がユリウスさんを呼んだのでしょう!」
二人は互いを指さした。セレーネ様を断罪するために並んでいた時より、よほど息が合っている。
「殿下については、私から陛下へ今夜の件をご報告します」
公爵が告げると、殿下はようやくリリアから目を離した。
「父上には私から説明する」
「ええ。偽証を求めた理由も、平民の証言を都合で真偽に分けた理由も、ぜひご自身の言葉で」
説明すればするほど悪くなる気がするが、俺が心配することではない。
セレーネ様が父親の腕を取り、壇上を降りようとした。殿下がその背へ一歩踏み出したものの、呼び止める言葉は出てこない。
愛しているでは遅すぎるし、魔石が必要だでは正直すぎる。どちらを選んでも、もう格好はつかなかった。
俺は、そろそろ帰っていいだろうと判断した。
殿下は教師に囲まれている。リリアは令嬢たちから距離を置かれ、学園長は教員へ指示を飛ばしていた。誰も平民の卒業生など見ていない。
つまり、今なら肉を取りに行ける。
俺は壁際を回り、大皿の前まで戻った。
残っていたのは、香草と、脂を吸った玉ねぎだけだった。王太子殿下の自滅を見物している間に、お目当ての肉はすっかりなくなっていた。
「王子、食べ物の恨みって怖いんですよ」
本人へ届かない大きさで恨みを述べる。聞こえたら不敬で、聞こえなければ独り言だ。平民の処世術である。
「ユリウスさん」
振り返ると、セレーネ様がいた。公爵は少し離れた場所で教師と話している。父親に任せて帰るつもりはないらしい。
「先ほどは助かりました」
「俺は事実を答えただけです」
「ええ。だからです。殿下の望む答えではなく、事実を選ぶ方が必要なのです」
礼を言われているはずなのに、俺はすぐ返事をしなかった。リリアの「助けてください」に何度も負けた身としては、貴族の好意をそのまま飲み込むほど腹が丈夫ではない。
「グランディス領には魔石の採掘場と、魔導具を扱う工房があります。測定器の不調に気づけて、報告書の数字も読める人材を探しておりました」
「今夜の俺は、就職試験を受けていたのでしょうか」
「受けさせる側の不手際で、かなり実戦的な内容になりましたわ」
否定はしてくれなかった。
「卒業後、わたくしの領で働く気はありませんか」
皿を置いた。ここから先は、玉ねぎをつつきながら聞く話ではない。
「確認してもよろしいでしょうか。俺がセレーネ様に都合のよい証言をしたから、ではありませんね」
「違います。都合のよい答えだけを返す方なら、もっと扱いやすい人を探します」
「扱いやすさは求めないのですか」
「測定器の前では、扱いやすい人より、数字をごまかさない人が必要です」
それなら少し分かる。俺は王子を倒したかったわけでも、リリアを泣かせたかったわけでもない。卒業して、働き口を得て、自分の食い扶持くらいは自分で稼ぎたかっただけだ。
「仕事は、魔導具の点検と報告書の確認ですか」
「ええ。職人の方々へ意見を聞くこともあります。机の上だけで分かることには限りがありますから」
「俺は嫌われませんか。学園を出たばかりの平民が、工房で数字を見せろと言うわけですよね」
「嫌われるでしょうね」
そこは嘘でも否定してほしかった。
「ただし、文句はあなたではなく、わたくしへ言わせます。あなたを雇うのはわたくしです」
責任の置き場所をはっきりさせる人だと思った。殿下なら、たぶん俺が勝手に働きたがったことにする。
「条件を伺っても?」
「給金は学園の研究補助員より上。個室。研究資料の閲覧許可。休日は月に六日。工房は食事付きです」
「食事付き」
思わず復唱した俺を、セレーネ様は笑わなかった。
「とても大事な条件でしょう?」
「はい」
即答した。平民の生活を分かっている貴族は少ない。分かっていなくても、聞く気があるなら十分だ。
「では、卒業認定が無事に下りましたら、グランディス領へ伺います」
「待っていますわ、ユリウスさん」
握手はなかった。俺は助かったと思った。令嬢の手を取る作法など、卒業試験に出ていない。
貴族の間では当たり前でも、平民には失敗した時の罰だけが先に見える。働く前から作法で転ぶのは御免だ。
その代わり、セレーネ様は空になった皿を見て、少しだけ眉を下げた。
「今夜の食事を邪魔したことは、覚えておきます」
「それは殿下のせいです」
「ええ。ですから、わたくしは別の形で埋め合わせます」
殿下がこちらを見た。俺は皿を給仕に返し、何も言わなかった。
言うべきことは、もう十分に口にした。
一か月後、俺の卒業は正式に認められた。
無事と言っても、何もなかったわけではない。学園長から三度呼ばれ、同じ話を三度させられた。リリアが壊した測定器、書き直した報告書、俺に押しつけた課題。三度目の聞き取りでは茶を出してもらえたので、平民相手の扱いとしてはかなり良い。
リリアの卒業は保留のまま、下級課程の再履修になった。温情らしい。本人は最後まで「怖かった」と訴えたそうだが、測定値は涙で薄まらない。三百十二は三百十二で、壊した測定器は壊れたままだ。
殿下は王太子の仕事をしばらく外され、王宮の奥で礼法と政務をやり直すことになったと聞いた。愛を選んだはずの人が、まず選ばされたのは勉強だった。少しだけ同情したが、俺の卒業まで巻き込まれかけたので、長くは続かなかった。
セレーネ様は先にグランディス領へ戻った。出発前、俺のところへ一通の紹介状が届いた。封を開けると、工房長宛てにこう書いてあった。
ユリウス・ハルトは、数字を盛らず、身分に怯えながらも最後は事実を曲げなかった者である。
そこまで書かれると、少しむず痒い。怯えた部分まで正確に残さなくてもよかったのではないか。
卒業後、俺はグランディス領へ向かった。
工房長は分厚い腕を組み、紹介状と俺を交互に見た。
「公爵令嬢のお気に入りか?」
「数字をごまかしたら怒られる側です」
「ならいい。測定器は嘘をつかん。人間はつく」
初日に渡されたのは、古い魔力測定器だった。針は少し右へ寄り、記録用の紙には前任者の癖が残っている。俺はそれを見て、なぜか少し落ち着いた。
壊れているものは、壊れていると言えばいい。
怖い相手がいても、数値は勝手に正しくならない。
その日の夕食には、肉入りの煮込みが並んだ。量は多くない。だが、自分の仕事のあとで食べる一皿は、祝賀会で取り逃がした皿よりずっと落ち着いて味がした。
こうして俺は、王太子の婚約破棄の証人に呼ばれ、予定外の就職先を得た。
損か得かで言えば、得だと思う。
ただし次に誰かが婚約破棄の証人を頼んできたら、俺はまず確認する。
「その話、食事のあとでよろしいですか」と。




