それぞれの正義
夜は、音が遅れて届く。
先に光が走り、
次に地面が揺れ、
最後に音が鼓膜を叩く。
街が壊れていく順番を、
俺の身体は、もう覚えてしまっていた。
崩れた塀の陰で銃を抱え、息を整える。
寒いはずなのに、指先だけが熱い。
手袋の中で汗がにじみ、
引き金に触れるたび、体温が移る。
「動くな。出てくるな」
誰に向けた言葉でもない。
自分を止めるための声だった。
瓦礫が、わずかに動いた。
乾いた擦れる音。
照準を合わせる。
息を吐く。
止める。
影が、塀の向こうから滑り出た。
「止まれ!」
声が夜を裂く。
影は一瞬止まり、
次の瞬間、走った。
指が引き金を引く。
衝撃が腕から胸へ来る。
銃声は遅れて耳に刺さる。
火花が散り、
影が崩れて、地面に落ちる音。
俺はすぐには近づけなかった。
顔を見れば、次が遅れる。
遅れは、仲間の死につながる。
そう教えられてきた。
それでも、確認に行く。
倒れた人の手には、銃はなかった。
刃物も、爆薬もない。
小さな布の包み。
中にはパンが二つ。
乾いて、固そうなやつ。
それと、小さな薬瓶。
胸の奥が軋んだ。
ポケットから、紙が落ちる。
折られた紙。
家の絵。
太陽。
三人の棒人間。
その横に、小さな犬みたいなもの。
言葉は読めない。
それでも、意味だけは分かる。
――帰ってきて。
そのとき、
かすかに甘い匂いが鼻をかすめた。
パンの匂いじゃない。
誰かの体に残っていた、
ぬくもりの匂いだった。
遠くで、また光が走る。
遅れて、地面が揺れる。
最後に、音が追いつく。
俺は紙を握りつぶす。
ゴミにしたい。
意味を消したい。
だが、消えない。
俺は立ち上がり、
銃を抱え直す。
守るために撃った。
そう言えば、立っていられる。
でも、その言葉は、
もう前ほど強くなかった。
次の影が、動いた。
引き金の温度が、
また、上がる。
***
窓が割れてから、
時間の形が分からなくなった。
明るくても安心できず、
暗くても眠れない。
空の色は、危険の濃さを教えるだけ。
私は子どもの背中を抱き寄せる。
小さな背中。
熱がある。
呼吸が浅い。
「大丈夫。大丈夫」
意味があるかは分からない。
でも口を止めると、
何かが折れてしまいそうで。
避難所は、学校だった。
黒板。
机。
壁の絵。
壊れる前の世界の顔が、
そのまま残っている。
廊下を、列が埋めている。
パンが配られる日だ。
パンがあるだけで、
空気が少し軽くなる。
誰も笑っていないのに。
列に並びながら、
ふと、手が止まる。
教室の壁に、
子どもが描いた絵が残っていた。
青い空。
赤い屋根。
煙突から出る白い煙。
家の前に三人。
その横に、犬。
私は目を閉じる。
昔、朝の台所でパンを焼いた。
窓を開けると、隣の家からも同じ匂いがした。
子どもが椅子に立って、窓の外を見て、
「雪みたい」と言った。
粉砂糖が、指にくっついて笑った。
そのときの光は、柔らかかった。
音は、遅れてこなかった。
今は、匂いも光も、すぐ消える。
「ママ……お水」
現実が、服を引く。
「あるよ。あとでね」
列が進む。
子どもが、私の服を掴む。
その手が、小さい。
配給の机が近づく。
私の番が来た。
パン二つ。
小さな水の袋。
「薬は?」
一瞬、迷う。
それでも正直に言う。
「……少しだけ」
男は黙って、
小さな瓶を差し出した。
「半分。
分けられるなら」
息が止まる。
見ず知らずの人が、
命を割る。
そのとき、
外で乾いた銃声がひとつ響いた。
胸の奥が、
理由もなく締めつけられる。
爆発。
揺れ。
埃。
瓶が床を転がる。
小さな音。
(落としたら終わる)
私は必死に瓶を掴む。
祈りの言葉は、持っていない。
だから、手を動かす。
水を少し含ませる。
パンを小さくちぎる。
薬を半分に割る。
それが、
今日を生きるための行為だった。
***
ぼくは、
音で今日を数える。
ドン。
ズン。
パパパパ。
ママの服をつかんでいる。
ママの手が動くと、安心する。
廊下は長い。
顔がいっぱい。
泣いてる顔。
怒ってる顔。
空っぽの顔。
こわいのは、人じゃない。
こわい顔になるしかない世界だ。
パンを見ると、
頭の中で音が鳴る。
カリ。
ガリ。
でも、その音でもいい。
口に入れば、
今日を越えられる。
外で、
パンッと音がした。
理由は分からない。
でも、誰かの顔が消えた気がする。
ママの手が震えながら、
パンをちぎる。
「だいすき」
ぼくが言うと、
ママの顔が、少しだけ変わる。
帰る顔になる。
外で、
光。
ゆれ。
おと。
ぼくはママの手をにぎる。
はなさない。
おねがいは、
ひとつだけ。
勝ち負けじゃない。
ただ、
今日が、
ここで終わらないでほしい。
夜は、音が遅れて届く。
先に光が走り、
次に地面が揺れ、
最後に音が追いつく。
その順番の中で、
今日も、誰かが生き残る。
終。




