水面の底から見た天井は
海の音が聞こえる。
潮騒のささやかな音。
都会のど真ん中で聞くには、少しおかしい音だがなにかのBGMとしては普通かもしれない。
「波音なんて、素敵ね」
そう声をかけたときの青ざめた顔を変に思ったことを覚えていた。あのときにきちんと問いただすべきだった。
それが私が水に沈んでようやく気がついたこと。
もう、なにもかも遅い。
ああ、水面がきらきらして……。
空気の泡がふわりふわり。
彼との出会いは海だった。日差しのある明るい海ではなく、日も暮れそうな禍々しいほどに赤い夕日の日のこと。
慣れぬ砂浜で足を取られて転んでしまった。友人はどんくさいと笑った。それでもちょいと冷やすもの用意してくると去っていった。砂浜で使ったクーラーボックスは弟に運ばせてしまったあとだったから。
「どうしました?」
「あの、足をひねったみたいで」
「じゃあ、肩を貸しましょうか」
軽く言われて断る間もなく私の手を引いた。軽そうと言いながら、抱き上げるまでが流れるようだった。
手慣れているのではと少しは疑問に思うべきだった。
「どこです? 車」
「あっちで、友達と弟が」
「わかりました」
がっしりとした体躯は揺らぎなく、驚くほどに安定していた。彼も友人と海に来たんですよと明るく笑う。それにどきりとした。屈託なく笑うような男性の知り合いはほとんどいなかったからだ。しかめっ面しかしないような弟とか、真面目な幼馴染とか。
友人たちとの元に連れて行かれて礼をいう頃にはもうふわふわとした気持ちになっていた。お礼をしますと連絡先を交換したのは当然の流れ。もう一度会えるということに浮足立っていた。
それだけではなく弟の警戒をあらわにした態度に少しばかり腹を立てていた。一人で会うなという話も子供扱いされているようで意固地になったところもある。
そして、一度会うだけのつもりがその後何度も会い、ついには結婚することになった。
初めて会った海に近い教会で挙式し、子供にも恵まれ、幸せになったはずだった。
「やあ、久しぶりだね」
そう声をかけられるまでは、信じていた。
古い知り合いという彼女は借金の精算を求めていた。連絡が取れなくてねと軽く笑うが金額が金額だけにそれをそのまま受け取れない。
青ざめた夫は返済を約束した。
家に帰って借金の返済については二人で話し合った。貯蓄からきちんと返済をするようにして、ほっとしたがその日から彼は落ち着かなかった。
明らかに借金以外のなにかがある。彼女の名前を誰からも聞いたことがない。夫にも友人はいた。しかし、彼には学生時代からの友人はいなかった。この数年分の知り合いだけ。昔の話を聞ける相手は誰もいない。
行方不明だった、という話も引っかかった。まるで、もう、いない、と知っていたかのような言い方をしていたように思えた。
思い過ごしと日々を過ごしていたが、夫の様子はおかしくなるばかり。なにもないところで水音がするといったり、食事に魚を出すとそれに怯えたように捨てた。
そして、娘に対しても怯えたような視線を向けることも。
意を決して彼女を探すことにした。なにか隠されていることもあると。
すぐに見つかった。
しかし、それは水死体が見つかったという記事だった。見つかったのは半年前。その時点で死後数年経過しており、身元の確認がとれたのが最近。
半年前。
それは彼女に会った頃。事件と事故の両方で調べているという。
黙っていることなどできなかった。
帰ってきた夫に問いただせば、別人だと青ざめた顔で言う。それからは、部屋に引きこもり出てくることはなかった。怯えた娘を実家に預けたのは、危機感があったからだ。
何もかも疑わしい。
しかし、問うことをせず離婚届を用意して、置いて出ていこうと思った。そっと用意して、去ろうとした時、夫が部屋から出てきた。
虚ろな目で、おまえが、悪いのだと呟く。
「私の何が悪いというの?」
「仕方ないだろう。おまえが、結婚したいって言うから。
あいつは故郷に帰るというし。そうなったら全部、わかってしまう」
「あの人、恋人だったの?」
「ちがう。勝手に付きまとわれたんだ。だから、じゃまになって」
「殺したの?」
するりと出てきたのは思ってみない言葉だった。いや、疑っていたが言ってはならない言葉だった。
ざざっと波の音が響く。
「勝手に落ちたんだよ」
「助けなかったの」
「怒って帰ったと思ったんだ。わかるだろう。勘違いしたんだ。俺は悪くない」
そう言って頭を抱えうずくまる。
「俺より大事なものがいるなんていうから。
俺がいないとだめなはずなのに」
ブツブツと呟く声。私は音を立てずに部屋を出ようとした。どう考えても正気ではない。
「俺を捨てるなんてありえない」
あと少しで、ドアにたどりつく。
そう思ったところで、かつんと何かが落ちた。結婚式の日に海で拾った貝殻だった。粉々に砕け散る白い貝。
夫は顔を上げた。そして、私を見る。
「おまえも、ゆるさない」
逃げなくてはと思っても足が動かなかった。
苦しいと思った頃には意識は沈んで。
「残念ながら、あなたは死んでしまいました」
私はその声に聞き覚えがあった。私にすこしの疑念を植付けた声。
「見ないふりをしていればよかったのに。
水に沈めてしまえば何もなかったことになると思っているのよ。あの人」
私がなにか声をあげようとしてもごぼりと音がするだけだった。
「大丈夫、あなたも私達の仲間に入れてあげる。
人魚になるのよ」
ああ、水面はきらきらして、きれい。
人魚になったら、ずっときれいなものを見ていられるかもしれない。
水で、この部屋も家も全部満たしてしまえば、わたしたちは自由ね。
20XX年7月某日未明。
夫婦喧嘩の通報があったが、その家には男性のみがいた。妻と娘は実家に帰ったと警察に言い、確かに家の中にはなにもなかった。
翌日、男性が家から大荷物を抱えてどこかに行くことが目撃される。
その一週間後、男性は死亡した。
寝ている間に水死したということだったが、水道の元栓は閉まっており水が出ない状態だった。不可解な状況ではあったが、変死として処理されることになる。
娘は他家に養子として出され、養父母を本当の父母と信じて育っていきます。ただし、霊感少女として少しばかり変わった青春を過ごすことに。
前日譚
海の近く生まれたら山に。山の近くに生まれたら海に。
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後日譚
水に踊る
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