第二話 監獄
「ラクトさん、お久しぶりです」
背後から掛けられた声に、ラクトは足を止めた。
日本全土がAR区画化されてから数日。想像していたほどの混乱も起きず、街は不気味なほど平穏を保っている。そんな日常の隙間を縫うように、その男は現れた。
「どうしたんですか。久しぶりですね、ハクさん」
振り返った先にいたのは、細身の中年男性だった。短く整えられた白髪が印象的なその人物――湊ハク。
かつてラクトをA.R.Mへとスカウトした張本人でもある。
「A.R.Mには、秘密裏にお伝えしたいことがあります。今から少し、お時間は大丈夫ですか?」
ラクトは宙に向かって軽く指を振った。
空間に半透明のインターフェースが展開され、カレンダーが表示される。
「AR化されると、どこでも情報を出力できてしまいますからね。便利と言えば便利ですが……」
「まあ、既にこの国はARに染まり過ぎてました。混乱が起きにくいのも、そのせいでしょう」
予定が空いていることを確認し、ラクトはハクに同行することを選んだ。
人通りの少ない細い路地へ入り、さらにコンクリートの壁を――そのまま突き抜ける。
ARによって拡張された視覚情報は、こうした“隠れ家”を作る上で非常に都合がいい。
指定されていない者が近づけば、壁にぶつかったという錯覚と痛覚が返される。侵入は容易ではない。
中は小さな部屋だった。
壁際に椅子が五つ並んでいるだけの、簡素な空間。
「適当に腰掛けてください」
言われるまま椅子に座った、その瞬間。
視界の左隅に、メール受信を示すアイコンが浮かび上がった。
「完全なAR社会になれば、携帯端末すら不要になります。通信は脳で、保存はARクラウド。実に合理的だ」
ハクの言葉を聞き流しながら、ラクトはメールを開いた。
表示されたのは、一人の女性の写真。
銀色の髪、澄んだ青の瞳。
――白銀ゼーレ。
「……」
「昔、私の所属について簡単に話したのを覚えていますか?」
ラクトは静かに頷いた。
「その時にもお伝えしましたが、私はA.R.Mではありません。LEG。A.R.Mへのスカウトを主とする組織です」
「覚えてる。それが**HEAD**からの命令なんだろ」
「その通りです。そして――その女性。白銀ゼーレの確保を、我々LEGは指示されています」
言葉が、重く胸に沈んだ。
ラクトは考える。
なぜ、わざわざ自分にこの話をするのか。
ゼーレと自分の接点を、彼らはすでに把握しているということか。
「もう間もなく、あなた達にも声が掛かるでしょう」
「A.R.Mに、か?」
「ええ。A.R.Mは“日の当たる場所”で動ける存在です。我々とは違います」
「……それなら、どうして俺に?」
一瞬の沈黙の後、ハクは低く告げた。
「彼女は――このAR世界にとって、極めて大きな影響を与える存在だと推測されています。そして、HEADに確保されれば……あまり良い未来は待っていない」
胸の奥がざわつく。
「AR化、かつて流行し、そして禁止されたVR。すべての源であるAI。人を便利にするための技術だったはずが、今や日本は監獄になりつつある。この国は、ARと共に新たな秩序を作る実験台だ」
ハクは立ち上がり、ラクトを真っ直ぐに見つめた。
「彼女は“秩序のバグ”です。――それがHEADの見解」
「どういう意味だ?」
「これ以上は無理ですね。ARセキュリティの監視範囲に入りました」
ハクは視線を逸らし、小さく続ける。
「本部に戻りなさい。もうすぐ、色々始まりますよ。――混沌が」
次の瞬間、ハクの姿は粒子のように分解され、静かに消えた。
ラクトは、頭の中で今の会話を反芻しながら、A.R.M本部へと歩き出した。
棺の街は、すでに動き始めている。




