第十七話 始まる拡張世界の入り口を
無機質な会議室の扉が静かに閉まる音が、やけに重く響いた。
上司に促され、一歩足を踏み入れたラクトの視線の先――窓際の椅子に腰掛け、深く背を預けた老人がいた。
皺だらけの手が机の端をゆるやかに叩き、淡い灰色の瞳がじっとラクトを見据える。
「君が――如月ラクトか」
その声は低く、乾いた響きを持っていた。
老人は名乗らなかったが、上司は一礼して静かに退室した。残されたのは二人だけ。
「私の名は……コード・フォー」
その響きは、数字と単語が不自然に繋ぎ合わされたような異質さを持っていた。
意味を問いかけるより早く、老人は机の引き出しから分厚い書類束を取り出し、目の前に置く。
「選ばれし世代――黄金世代と呼ばれた君たちが、本当の意味で活躍する場面が、明日から幕を開ける」
静かに置かれた書類の紙質に、ラクトは違和感を覚える。電子端末が主流のこの時代、紙はもはや珍品に近い。
視線が表紙のタイトルに吸い寄せられる。
――《国家AR化実験対象 日本について》
息が詰まった。指先が勝手に紙をめくる。
次のページに記された一文が、頭に焼き付く。
《次元歴十五年・六月 準備が整い次第、国家AR実験及び世界AR法の新規法案導入、生命力システム実施》
――明日だ。
脳裏に、つい先ほどまでの戦闘やゼーレとの邂逅が一瞬で遠のく。
生命力システムが正式導入される日、それは日常の基盤そのものが塗り替えられる瞬間だ。
だが、それ以上に《国家AR化実験》という文言が、言い知れぬ不安を呼び起こした。
「……実験?」
かろうじて絞り出した声に、コード・フォーは口角をわずかに上げる。
「世界連盟は、その動揺すら実験の対象なのだよ」
淡々とした口調に、悪意はない。ただ事実を述べているだけ――だからこそ、言葉の重さが際立つ。
「事実は否定しても覆らない。未来のために、君は何をすべきか考えろ」
机に置かれた書類を指で叩きながら、老人は続けた。
「ある程度は国家として動いてくれるそうだよ。この国のお偉いさんもな」
ラクトは返す言葉を持たなかった。
部屋の空気が、現実とARの境界のように不確かで、けれど逃げ場なく絡みつく。
明日――その言葉が、胸の奥で不吉な鐘を鳴らし続けていた。




