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救世と破滅の円舞曲(ダンス・マカブル)  作者: epsilon
第一章 終焉に咲く,黒き契約(オブリヴィオン・ブロッサム)
3/3

第三話 旅立ちの決意(リゾルブ・オブ・ソウル)

昏い光が差す、崩壊した天井の隙間から覗く空は、やけに静かだった。


ユリウスは地下祭壇の石段を、重たい足取りで登っていた。

契約──《常闇ノ理》との邂逅の後、彼の内には確かに“何か”が刻まれていた。

左手の甲に浮かぶ、黒い刻印。その意味も、重さも、まだ彼には理解できていない。


だが、理解するよりも先に、向き合わねばならない現実があった。


地上に出た瞬間、肺に焼け焦げた空気が入り込み、咳き込む。

視界に広がったのは、――瓦礫と灰と、崩れた街並み。


「……嘘、だろ……」


呟いた声は、誰に届くこともなかった。

そこにあるはずだった家も、人々の暮らしも、すべてが灰燼と化していた。


ユリウスはよろめきながら、自宅のあった場所へと向かう。

その途中、焼け崩れた石壁の隙間から、煤に塗れた金属の輝きが見えた。


拾い上げると、それは父・ジンがいつも胸に下げていた、古びた懐中時計だった。

表面の装飾は焦げて歪み、針は──午後9時十38分で止まっていた。


(この時間……何か、引っかかる)


だが、その意味を考える余裕は、今の彼にはない。


更に歩を進め、焦げた木材を押しのけて──姉の部屋があった場所に辿り着く。

そこにあったのは、彼女の首飾りだけだった。

銀色のチェーンが、瓦礫の隙間から覗いている。

だが、アナスタシアの遺体は、どこにもなかった。


(姉さん……本当に、ここにいたのか……?)


まるで、それすらも現実なのか確信できないまま、ユリウスは首飾りを胸に抱きしめる。

温度のない銀の鎖が、ただ冷たく、彼の指先に絡みついた。


そこへ、遠くから鈍い音が響いた。

崩れた建物の向こうに、わずかに人影が見える。

焼け残った教会の一角、そこに人々が身を寄せ合っていた。


ユリウスが駆け寄ると、中から老いた司祭が顔を覗かせる。

その目には、戦火をくぐり抜けた者だけが持つ、深い疲労と、それでもなお人を見捨てぬ慈愛の色があった。


「……生きて、いたのか……」


司祭は驚きと共に彼を迎え入れた。

ユリウスはその場に崩れ落ちる。疲労、悲しみ、そして、救われたという事実が、同時に彼の身体を襲った。


「地下に、まだ避難民がいる。君も……ここで、少し休むといい」


案内された教会の地下室。

狭く、薄暗い空間には、数十人ほどの避難者たちが身を寄せ合っていた。

負傷者、泣きじゃくる子供、黙り込む老人。

誰一人、無事な者などいなかった。


ユリウスはその中に座り込み、燃え残った布を背にして、静かに目を閉じた。


左手の刻印が、微かに熱を帯びる。

その奥から、またあの声が響く。


──アズリエル。

地下祭壇で彼と契約した天使。

名を名乗ったその存在が、深い夜の底から囁くように語りかける。


「……いずれ、“彼”が目覚めるとき、お前は裁く者となる。

 まだお前は何も知らぬ。ただ、それでも……進むしかない」


声はすぐに消える。

そして残るのは、胸の内に空いた、大きな“喪失”の穴。


(失ったものが大きすぎる。

 それでも……)


彼は、止まったままの時計を見つめる。

時を動かすことは、もうできない。

けれど、止まったその先へ、歩を進めることだけは──できるはずだった。


焼け落ちた街の中で、ユリウスは息をするだけでも苦しさを覚えていた。

それでも、祭壇でのあの“契約”が、彼に立ち上がるための力を与えていた。


教会の地下に逃れていた生存者たちに事情を聞いた後、ユリウスはかつて父が務めていた都市管理局へと向かった。そこは崩落寸前で、瓦礫をかき分けながら進む彼の指先は血に染まっていく。


「父さん……」


静かに呟いたその声に応えるように、奥の端末がかすかに点滅していた。

奇跡的に稼働していたその記録装置を操作すると、最後に記された都市管理者の音声記録が再生された。


『……ここはもう持たない……あの“瘴気”が南方から流れ込んでいる。腐食の源だ……禁域が……開いたのか……!』


録音はそこで途切れ、続けて映像の記録が浮かび上がった。

黒い靄が街を飲み込み、空すら曇らせていく様子。映像の右下には、奇妙な地図データが添えられていた。


「腐食の……源……」


手が震える。

だがユリウスは、その震えが恐怖ではないと悟った。


「ここに……行かなきゃならない」


崩れ落ちた記録室の壁を背に、彼は一枚の地図を握りしめる。

教会の地下に戻った彼は、避難していた人々に向かって言った。


「俺は、南に向かう。原因を突き止めたい」


驚きと困惑、そして怒り。

彼の言葉に対する反応は様々だったが、誰もが口を揃えてこう言った。


「死にに行くつもりか!」


「君が戦えたのは奇跡だ! 今度はそうはいかない!」


だが、ユリウスの眼差しに迷いはなかった。


「俺はもう……力を手にした。……あの日、何も守れなかった。でも、今度は違う」


その言葉に、誰もが言葉を失った。


――あの夜、世界が終わったように思えた。

けれど、ユリウスの中で何かが始まっていた。


ふと、彼は教会の地下室の片隅にある小さな休憩室に腰を下ろした。

懐中時計を取り出し、その針が示す“21時38分”を静かに見つめる。


「姉さん、父さん……アリス……」


家族の名を呟くと、閉じかけた記憶がわずかに開いた。


――子供の頃の記憶。


ノアと並んで夕暮れの街を歩いていた日々。

アナスタシアが二人に微笑みながら焼き菓子を渡してくれた時間。

「いつか世界を見に行こうぜ」

そう言ったノアの声が、やけに鮮明だった。


(あいつは……)


ユリウスはその場にうずくまり、拳を握り締めた。


(ノアは……まだどこかで生きている……!)


その確信めいた感覚に突き動かされるように、彼は再び立ち上がる。


「だったら俺は――」


言いかけた瞬間、胸元の刻印が熱を帯びた。

痛みではなく、何かが脈動するような、不気味な感覚。


衣の下に手を差し込み、刻印を確認すると、そこには本来一つであるはずの“契約の紋”が、二重に重なり合って浮かんでいた。


「……これが、“契約”?」


教会の神父がかつて語っていた。神器との契約には必ず、身体のどこかに契約刻印が刻まれると。


だがユリウスのものは、明らかに“異質”だった。

複雑に絡まりあうような模様と、中心で鼓動するように動くもう一つの刻印――


「これは……なんだ……」


その時、またしても声が頭の奥に響いた。


『裁きの刻は、いずれ訪れる。彼が目覚める時、お前は――』


声は途中で途切れた。

ユリウスは額に汗を浮かべ、息を荒げる。


「……“彼”って……誰だ……?」


けれど、答えはなかった。

ただ一つ、彼の中で確かになったのは――


「今度は、俺が守る」


その言葉だった。


地図を握りしめた彼の瞳に、迷いはない。

闇の中でも確かに輝く意志だけが、彼を次の道へと導いていた。


そしてその夜、彼は《常闇ノ理》を静かに見つめながら語りかけた。


「なあ……この力の意味、教えてくれよ。俺は、誰と戦えばいい?」


答えはない。

だがその沈黙すら、ユリウスにとっては確かな“声”のように思えた。


――夜が、静かに明けていく。


朝日が薄く差し込む中、ユリウスは教会の外に立っていた。瓦礫の街がまだ静まり返り、煙の匂いが薄く立ち込める。前日、彼は教会の一室で旅立ちの準備を終え、心を決めた。彼の眼差しはどこか遠くを見つめているようだったが、その先に何が待っているのかを知る者は誰もいなかった。


ユリウスはゆっくりと懐中時計を取り出し、その針を見つめる。その時刻はもう止まってしまっている。父ジンの遺品だったその時計は、ユリウスが家族を失った証であり、またこれからの道を示すかのように彼を導くものでもあった。


“ノア”という名前が、再び心に浮かぶ。死に際の悪魔が呟いたその名前。ユリウスにはわかっていた。ノアが生きているのか、死んだのか、それは今はどうでもいいことだ。彼を探し、救い出さなければならないという気持ちが彼を突き動かしていた。


教会の門を開ける音が静寂の中に響き、ユリウスは振り返らずに一歩踏み出す。その足音がやけに響く。まるで荒廃した街が彼の存在を確かめるかのように。ユリウスは、心の中で静かに決意を固める。


出発前夜のことを思い返す。ユリウスはひとり、祠の中で天使に語りかけていた。《常闇ノ理》の契約天使の声は、今も耳の奥で鮮明に響いている。


「復讐か、希望か。選ぶのはお前だ。」


その問いに、ユリウスは迷わず答えた。


「どちらでもいい。あいつ(ノア)がまだ生きているなら、救いたい。」


それが、彼を前に進ませるすべてだった。失われたものを取り戻すため、全てを捨てて戦う覚悟が、彼の心に強く宿った。


教会を出たユリウスは、何度も振り返ることなく歩き続ける。空はどこまでも広がり、朝日が新たな一日を告げている。しかしその先には、彼の背を押すように、朽ちた瓦礫が並ぶだけだった。足元には不安定な道が広がり、時折風が冷たく吹き付ける。


腐食地域へ向かうその道の途中、ユリウスは自分の内側で響く心の声に耳を傾ける。「ノア…」彼の心にその名前が強く鳴り響く度に、ユリウスは歩みを速める。だが、周囲の景色は不気味に変わり始める。空気がひんやりと冷たく感じ、風の音も次第に静まり返っていった。まるで、何かが待ち構えているかのような、圧倒的な沈黙が辺りを包み込んでいった。


ユリウスはその気配に気づいていない。だが、その背後からじっと彼を見守っている者がいる。それは一人の男――。誰かはわからないが、その男の存在は、明らかにユリウスの歩みに影を落としている。


男の姿は遠く、薄暗い陰に隠れて見え隠れしている。彼は決して近づかず、ただユリウスの背中を見守るように立ち続けていた。目立たぬよう、しかしその目には確かな焦点が定まっている。


ユリウスが振り返ることはない。男の姿が一層遠ざかっていく様子に気づくことはない。ただただ、前に進み続けていく。


だが、男の視線がユリウスを捉えていることに、彼は今、まだ気づくことはなかった。男の存在が、何かを示唆していることに、ユリウスはこれから先、確実に気づくことになるだろう。


そして、ユリウスは何も知らずに、腐食地域への道を進んでいく。その先には、ノアとの再会が待っているのか、それとも新たな闇が彼を待ち受けているのかは、誰にもわからない。


ユリウスはただ一心に、歩み続ける。


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