第二話 常闇契約(トワイライト・コントラクト)
「姉……アナスタシア……?」
暗い地下の石床に、膝をついた。
痛みが遅れて押し寄せる。脇腹を裂かれ、腿にまで刃が届いていた。けれど、それ以上に胸が、痛かった。
先ほどまで、共に逃げていた。
血を流しながらも、必死に手を引いてくれた姉は、最後の瞬間、自らを囮にして術式を放った。転移の光が視界を包み込んだその刹那、姉の喉元に赤黒い爪が食い込む光景が、確かに見えた。
「なんで……」
呆然と呟く声は、自分のものではないようだった。
立ち上がる気力も出ない。
気付けば涙が頬を伝っていた。張り裂けるほどに胸が苦しくて、呼吸すら上手くできない。
――父さん、母さん、姉さん……どうして、みんな……。
家族を、全部奪われた。
守ると誓ったものを、何一つ守れなかった。
焼け落ちた家の記憶が脳裏を過る。
立ち尽くした瓦礫の中、誰もいなかった。父ジンも、母アリスも、姉アナスタシアも――誰一人、残されていなかった。唯一無事だったのは、父の書斎と、その奥にあるという隠された部屋の扉だけだった。
「こんな場所で……死ねるかよ」
虚ろな声で呟き、ユリウスは立ち上がった。
傷口が開き、血が滴る。だがそれでも、進まねばならないと思った。
――なぜ転移術式の座標がここだったのか。
――父の書斎の奥、その地下の先にあるこの部屋に、何があるのか。
ふらつく足を引きずるように、ユリウスは奥へと進む。
壁に刻まれた古い術式陣、埃をかぶった書棚、そして――その最奥。
重厚な扉を押し開けた先に、それはあった。
無音。
空気すら凍り付いたような、沈黙の空間。
正面の祭壇に、浮かんでいた。
漆黒の剣。台座から数センチ宙に浮かび、淡く揺らめく影を纏っている。
「……剣?」
近づくにつれて、空間が軋む音がした。
剣が、呼んでいる――そんな錯覚に囚われる。
指先が、柄に触れた。
――その瞬間、世界が、反転した。
目の前が暗転し、何もかもが塗り潰される。
重力が反転し、意識が深淵に引きずり込まれていく。
重苦しい気配。だがその中心に、ひとつの“声”が現れた。
「汝に問う。正義を貫くか、復讐を選ぶか」
静かな声音。
男とも女ともつかない、中性的でありながら、澄んだ力を帯びた声。
「……誰だ……?」
返答はない。
声は再び問いを重ねる。
「選べ。お前の魂が、本当に望むものを。怒りか、悲しみか。それとも――裁きか」
ユリウスの頭に、アナスタシアの最期の顔が蘇った。
笑っていた。自分を庇いながら、あの人は微笑んでいた。
そしてその背後に、何故か“時計”が揺れる映像が交錯する。
(なぜ、あの記憶に……時計が?)
思考が掻き乱される。
だが――。
「……復讐だ。俺は、あいつらを絶対に許さない」
言葉は自然と口を突いていた。
すると、剣が震え、光を放つ。
ユリウスの左手に、焼けつくような痺れが走る。
気付けば、その腕に“刻印”が浮かび上がっていた。
……いや、“二重の”刻印。
同心円のように重なる二重構造の紋章。
見たこともないその異形の印に、声が静かに告げる。
「選ばれし者よ。汝の意志は刻まれた。
いずれ、“彼”が目覚めるとき――お前は裁く者となる」
“彼”。
その言葉に、胸の奥がざわついた。
誰のことを言っているのか。なぜ、自分が裁くのか。
声の主は、なおもその名を明かさない。
ただ、剣の影が空間を覆い、世界が再び現実へと戻る。
次の瞬間、ユリウスの目の前に、悪魔の気配が迫る――。
闇が揺れる。
それは地下室に広がる影ではない。
契約によってその身に刻まれた、得体の知れぬ闇が、ユリウスの内奥で蠢いていた。
左手に浮かぶ“印”を見つめながら、ユリウスはかすかに息を飲む。
禍々しい刻印。円環に交差する二重の魔紋。父の遺した文献には、契約によって刻まれる“神器の印”は一つのはずだった。
それが、彼には“ふたつ”ある。
「……これは……なんなんだ……?」
疑問は答えられることなく、ただ印の奥から脈動する何かが、ゆっくりと意識に染み込んでいく。
そのとき――
「見つけたぞ……神器の気配が……まさか、この地に顕現するとはな」
地の底を揺らすような声。
扉のないはずの祭壇の奥――空間が黒く引き裂かれ、禍々しい気配が滲み出る。
ユリウスが身構える前に、影の中から何かが姿を現した。
それは人ではなかった。
皮膚の下に赤黒い筋が蠢き、片方の腕は異形の刃と化している。口は縦に裂け、無数の眼が体の各所に浮かぶ――悪魔。
「……っ、なんだ……あれは……!」
悪魔は嬉々としたように、ユリウスを見据えた。
「その剣……“常闇ノ理”……。なるほど、久しぶりに見たな。かつて多くの我らを葬った“終焉の鍵”。まさか、まだこの世に残っていたとは」
「……常闇、ノ理……?」
その名前に、ユリウスの眉が動く。
黒鉄の剣。その名さえ知らなかった彼にとって、それは初めて聞く名だった。
「知らぬか。そうだな、契約したばかりか……だが貴様が持つには過ぎた代物よ、人間」
次の瞬間、悪魔が突撃する。
黒い爪が振り下ろされ、石床を抉る。ユリウスは身を翻して回避し、即座に剣を構えた。
その瞬間、剣の中から“声”が脳裏に響く。
――刻印が揃った。命令を。意志を。告げよ。
「……行ける……やれるのか……?」
指が、自然と黒鉄の刃を走る。
契約の印が光り、闇が剣に集束する。
「《常闇斬葬》ッ……!」
その言葉と共に、黒い光が奔る。
空気を裂いて放たれた斬撃波が、悪魔の左腕を抉り、断面から濁った血液が吹き出した。
だが、悪魔は怯まない。むしろ快楽のように笑った。
「その力だ……それこそが“常闇ノ理”。そしてその印……貴様、“双重契約者”か」
「双重……? どういう意味だ、それは……!」
「貴様のような“器”は、いずれ狂う。力に呑まれ、正気を保てまい……」
言葉と同時に、悪魔の体から煙のような影が溢れ出す。
一瞬、ユリウスの視界が歪んだ。周囲の影が蠢き、目が眩む。だが――
(落ち着け。おれは……この力を、呑まれはしない……!)
その意志が、剣を導く。
ユリウスは影の奔流に踏み込み、剣を振り下ろす。
「《虚影断層》……!」
刹那、悪魔の影が裂かれ、肉体が切り裂かれた。
剣が闇を断ち、形骸化していた体を“存在”ごと切り刻む。
ぐらり、と悪魔がよろめいた。
血の代わりに、黒い霧が噴き出す。
「ク、ククク……それでこそ、“彼”の友よ……」
「……は?」
死に際の悪魔が、かすれた声で嗤う。
「我が主は……ノア・フィル=ヴァイス……虚無を統べる者……いずれ貴様の前に現れるだろう……」
「……ノア……?」
ユリウスの意識が、そこで凍りついた。
足元が崩れるような感覚。
「ノア……ノアって……おまえ、今……なんて……?」
問い返す声に応えることなく、悪魔は影と共に崩れ去った。
一人残された祭壇の中央。
ユリウスは剣を握りしめたまま、動けなかった。
ノア。
死んだはずの親友。
五年前に、命を落としたはずの――。
「ノア……お前が……“あの側”に……?」
信じられなかった。
否定したかった。
けれど、その名前を口にした悪魔の表情が――確かに、真実を知る者のものだった。
握り締めた拳に、力が入る。
「ノア……お前が生きてるなら……俺は、お前を……この手で……!」
地下の闇に、震える声が響いた。
その剣が、復讐のためではなく、誰かを救うために振るわれると決めるまで――あとわずかだった。
「ノア……」
その名を呟いた瞬間、全身から力が抜けた。
剣を握る手は震え、膝が砕け落ちる。
祭壇の中央で、ユリウスはただその場に崩れ落ちた。
心臓が脈打つたび、焼き付いた過去が脳裏に甦る。
幼き日々。笑い合った日々。血を分けたわけでもないのに、兄弟のように過ごした時間。
その全てが、いま――黒に塗りつぶされようとしていた。
「ノアが……敵に?」
信じられるはずがなかった。
けれど、悪魔の口から紡がれた“あの声”には、確かな真実の響きがあった。
「ユリウス」
静かに、どこか優しい声が降ってきた。
剣の奥から、低く、落ち着いた響き。
まるで、すぐそばで囁くような声だった。
「――我が名は、アズリエル。かつて汝の先祖と契りを結びし、天の理を司る者」
「……アズ、リエル……」
その名を繰り返すと、胸の奥に不思議な感覚が広がった。
懐かしさにも似た感覚。それは、どこか遠い記憶を撫でるような温かさだった。
「お前は、この“常闇ノ理”と契約した。それは選び取った意志の証。復讐を選び、剣を抜いたお前は、いずれ“裁く者”となるだろう」
「裁く……?」
「いずれ、“彼”が目覚めるとき――お前は、選ばねばならぬ。友を討つか、救うか。正義を貫くか、あるいは――すべてを壊すか」
ユリウスは息を呑んだ。
「ノアが、“彼”だというのか……?」
アズリエルは、肯定も否定もしなかった。ただ、続ける。
「お前の契約は、他の者とは異なる。“双重の刻印”――それは、ひとつの器にふたつの意志が宿っている証」
「ふたつの意志……?」
「今はまだ、そのすべてを知るには早すぎる。だが、お前はもう選んだ。ならば進め、ユリウス・アルヴェイン。憎しみの先に、何を見るか」
静寂が落ちる。
ユリウスは、改めて剣を見つめた。
黒く、禍々しく、それでいて美しい刃。
その剣がもたらす未来が、希望か破滅かはまだわからない。
だが、それでも――
「……ノアを……取り戻す」
小さく呟く。
「何があったのか知らない。けれど、あいつが生きているなら……今度こそ、俺が助ける。たとえ、世界を敵に回しても」
その決意に、アズリエルの声が静かに響いた。
「ならば――汝に力を。その選択が、悔いなきものであることを、祈ろう」
祭壇の灯が、ゆっくりと消えていく。
黒い剣を携えた少年は、暗がりの中に立ち上がった。
その瞳には、確かな炎が宿っていた。
これは、ただの復讐ではない。
過去と向き合い、未来を選ぶための――戦いの始まり。
そしてその手にあるのは、常闇を切り裂く“理”の剣。
闇が深くなるほど、光は鮮烈に輝く。
その運命が、誰かの希望となるのか、それとも終焉を招く鍵となるのか――
まだ、誰にもわからない。
だが、ユリウスは歩き始めた。
失われた家族を胸に。
奪われた親友を取り戻すために。
その一歩が、世界の運命を変える。