その罪はどんな罰も見合わない。
結婚して幸せだったかと問われたら、ミレイユは深く頷いて夫の事を思い浮かべる。
夫クロードは、とても善良な人だった。
コンスタン公爵という地位を引き継ぐ身でありながら、決して人を貶めない、常に他人に対して女神様の教え通りに愛をもって接し、様々な事情を鑑みて物事を考えられる人だった。
しかし、そんなクロードにはまったく正反対の性質を持った姉がいた。
彼女はヴィクトワールと言ってとても美しく気高い人だった。
家格は下だけれどブランジェ伯爵家へと嫁に行き、幸せな新婚生活を送っている真っただ中であるはずだった。
けれども彼女は頻繁に実家であるコンスタン公爵家へと顔を出していた。
そんな彼女にひどくいじめられていた過去があるクロードだったが、それでも丁寧に対応して、一泊以上屋敷に泊めることもままあった。
けれどもミレイユの腹の中には愛おしいクロードとの子供が宿った。
だからこそクロードは、頻繁に帰ってくる彼女と話をつけることにした。
ヴィクトワールにとって義弟に当たる子をいじめて楽しんでいると声高に自慢する彼女ときちんと話をする。
その話の内容によっては、新しいミレイユとの子供の為にも縁を切ろうと思っているという彼の話を聞いたのが、ほんの一週間ほど前の事。
そしてついに帰ってきたヴィクトワールと決意を固めて話し合いに望んだのが昨日の出来事だ。
「嘘、うそ、嘘でしょう。ああ、女神様、どうか、どうかっ!!」
そして今、ミレイユの前には血だまりが広がっていた。
愛おしいクロードの顔には血の気がない。
そして人のぬくもりも消えている。それでもミレイユは状況を理解できずに、ドレスをその血に染めて夫を抱きしめていた。
魔力を振り絞って水の魔法道具を使う。しかしどれほど魔力を使ってもクロードの頭の傷はふさがることなない。
周りを囲んでいる使用人たちは騒然としていて、誰もミレイユに声をかけることができず、一定の距離を保って見つめていた。
「どうか、助けて。クロードを連れていかないで。ありえない、こんなこと、あり得るはずがない」
ぶつぶつとつぶやくように口にしながらミレイユは魔力の光を纏いながら冷たいクロードを抱きしめた。
こんな風に抱きしめたら彼は、ミレイユに手を回して優しく抱きしめ返してくれるはずで、温かいその胸に体を預けると心地よい心音が聞こえてくるはずなのだ。
今はまったくそんなことは無く、ただミレイユの言葉は空虚に消えて誰にも届かない。
それでも受け入れることなどできない、ただ血で冷たい芝生の上で夫を抱きしめた。
どうしてこうなったのか頭の中では理解が出来る。
この中庭に彼がいるということは、部屋のバルコニーから落ちたのだろう。落ちて運悪く頭をぶつけてそのまま……。
……そのまま、そのまま死んだっていうの? そんなの嘘だ、ありえない、ありえないでしょう?!
自分の思考すらも否定してミレイユはクロードの手を握る。硬くて冷たくてまるで氷の彫像のようだった。
次第に涙に視界がにじんで喉が苦しい。大声をあげて泣きわめきたい、けれどそんなことをしたら彼が死んでしまったと認めるようではないか、まだ助かる、そのはずだ。
クロードは死んでなんかいない、ミレイユの夫は、大切な愛した人は、ここにいる。
まだ抱きしめることが出来る。
必死に搔き抱いた。
しかし、ガツン、と大きな衝撃が走る。
何が起こったのか今度こそ理解が出来ない。
パリンッと何かが割れる音がして、重たい痛みが体に走った。たまらず地面に転がって、体に力が入らない。
視線だけで状況を確認しようとすると、クロードの部屋のバルコニーが目に入った。
そこはよくクロードと二人で楽しく会話をしたり、お茶会をした場所だ。ミレイユの趣味で鉢植えに季節の草花を植えて育てていた。
その場所にたたずむ女性の影、夫によく似た美しい落ち葉色の髪が靡いていた。
……ヴィクトワール。
彼女は真っ赤な唇で弧を描いて笑みを浮かべていた。
「きゃあ!」
「奥様!」
「誰か早く医者を」
「ミレイユ様!」
使用人たちの声がする。次第に視界がかすんでミレイユは意識を失い、こうしてミレイユの幸せな結婚は幕を閉じた。
数日後意識がはっきりしたミレイユに、医師から告げられた言葉はこの世の終わりにも感じるものだった。
「酷く出血しましたし、なにより母体に酷いストレスがかかったようですから、期待はできません」
「っ……」
「原因は、断定はできませんが事故で落ちた鉢植えが当たった衝撃もあるかと思われます」
なにが言いたいのかというと、つまりは流れたという事だろう。
ミレイユの中にいた大切な存在は、すでに体の中から消え去って、連れていかれてしまった。この場にいないクロードとともに。
……どうして? いえ、ああ、理由はもういいのよ。理由が知りたいんじゃないのよ。理由ではなくて、なぜ彼らなの。
何故、選りにも選って彼らがいなくなってしまったのか、見当もつかない。
……運命? それとも必然? なんなの? なに?
「ですがどうか気を落とさずに、あまり思い悩んではお体に差し障りますから、安静に。……妊娠中の不慮の事故はよくあることです。誰のせいでもないんですから」
医師は、必死に言いづらい事を一生懸命に口にしている様子で、どうやらミレイユの体を想って励まそうとしてくれている様子だった。
しかし、今のミレイユにはその言葉すべてが癪に触って仕方がない、それになんて言った、事故だと?
彼らがいなくなったのはそういう運命で必然だったからだと彼も言いたいのか、けれどもミレイユは見たのだ。
……だめ、だめよ。これ以上は考えては、女神様、私はどうにか受け入れなければならない事なのよね。
しかし見たんだ。ミレイユはあのバルコニーにいた人影を見た。
運命なんかじゃない、必然でもない、女神さまの思し召しでもない。奪われた。
……考えたら、駄目。クロードも望んでない、赤ちゃんも望んでない。
「…………事故ですって? 事故だって???」
「ええ、コンスタン公爵様よりそう伺っております。ですから━━━━」
「ああ、居なくなった息子の事よりも、せめて嫁に出した有望なヴィクトワールを優先したのね」
ミレイユがどんなに心の中で良心を働かせようとも、口は正直に動いた。
愛するクロードはとても善良な人だった。ミレイユの愛する彼は復讐など、他人を恨むことなど望まない、絶対に、そんなことは一番この世でミレイユが理解している。
赤ちゃんだってそんなことを母に求めたりしないだろう。ただ二人そろって天国へと歩いて行っただけだ。
受け入れて悲しんで、ミレイユも彼らと将来同じ場所に行けるように努めるのが、母として、妻として、美しく善良で良い事だ。
「っ……」
ぐっと奥歯をかみしめて言葉を呑み込む。
復讐は駄目だ、やってはいけない、思っても恨んでもいけない。
しかしどうすればこの腹の中に残った激情は収まるのだろうか、復讐は罪だ、犯してはならない。
天国へ行った彼らを追いかけるためにミレイユは復讐をすることは出来ない。
しかし……しかし罪に対する罰ならばどうだろうか。
罪にたいする正当な罰ならば、与えることを誰が咎められようか。
「そうよ……そうよ! 罪に罰を! 当然の報いでしょう。誰も私を止められない。止める必要もない! あはは、あははっ」
「お、奥様……」
「それがいいわ!決まりよ! ははははっ」
周りにいる人間の反応など、ミレイユにはもはやどうでもよかった。しかし、笑いながら泣いているミレイユの状態は見て誰もが異常だった。
そしてその日を境にしてミレイユはコンスタン公爵家から忽然と姿を消したのだった。
ミレイユはとあるお屋敷に勤めていた。美しくのばしていた髪を切り、ドレスを脱いで使用人服に身をつつめばだれもが貴族だなんて疑わなかった。
因縁の相手であるヴィクトワールですら、前髪で目元をかくしているだけでミレイユの事に気がつかなかった。
しかしそれも当たり前の事だろう、彼女は平民の事を人だとすら思っていない、そんな人間の顔など認識していないし、ただ命令すれば働く道具だと思っているのだ。
だから彼女の嫁入り先であるブランジェ伯爵家にミレイユが潜入している事などそもそも思いつきもしない。
そして使用人を人とすら思っていないからこそ、彼女のいじめについて知ることが出来た。
ヴィクトワールは狡猾にその事実をブランジェ伯爵夫妻や、夫であるダヴィドに隠している様子だったが、いじめを受けている義弟のエミールは彼女を見ただけで酷く怯えている様子を見せる。
その行動が癪に障るのか、さらにヴィクトワールからのいじめはひどくなる一方だった。
「っ、ううっ、ひっ……っ」
エミールは兄の結婚相手からいじめを受けているなんて家族にとって不都合なことを相談することもできず、しょっちゅう自室のベッドの上で泣いていた。
情報収集や暗躍をしながらもミレイユはその無力なエミールが虐められているのを見て、どうにも見ていられなくて、手を貸すことが割とあった。
「エミール……また泣いてるの?」
仕事の合間を縫って少年の元へと向かい、こっそりと声をかけた。
エミールはとても綺麗な金髪をしている美少年で、はかなげな美しさがある。
そのあいらしさがヴィクトワールの怒りを買っているようだった。
「! ……ミレイユ、来てくれたんだっ」
ミレイユが彼を覗き込むと、ここ最近たまに現れるようになった不思議な使用人にぱっと表情を明るくして声をあげた。しかしあまり大きな声をあげられては困る。
ヴィクトワールのエミールに対しての仕打ちを見て見ぬふりをする為にわざと席を外している部屋付きの使用人が、いつもと違う様子に気がついて入ってきたら彼を助けることが出来なくなる。
「しっ、いつも言ってるでしょう?」
なのですぐに人差し指を口に当てて静かにするように示す。すると彼は泣きはらした目をこすって頷きながら、静かにベッドのそばまで来ていたミレイユの腹に抱き着いた。
「うん。ごめんなさい……来てくれたんだ」
「ええ……いつも通り傷を見せて、早く」
抱き着いてきた彼にミレイユは仕方なく頭を撫でた。
もう母親に甘える様な年齢ではないはずなのだが、実年齢よりも彼はずっと幼く見えるのでミレイユもついつい優しくしてしまう。
しかし、仕事を抜けてこっそりと彼の為に来ているのだ。あまり長く構ってやることは出来ない。
意外とお屋敷勤めというのは忙しいし、新参者は雑用も多い。
彼と悠長に話をしている時間はなかった。
「うん。……でももうちょっとだけ頭を撫でてくれない?」
この後にはシーツを洗濯しなければならないし、破けてしまった使用人の制服を繕ったり、屋敷の窓掃除の時間も必要だ。
つまりはそんなことをしている暇はない。ミレイユは自分のやることで忙しく、本当ならばこんな気弱な少年の相手をしている場合じゃないのだ。
と考えながら、乱暴にそのくるくるとした天然の金髪を撫でまわして仕方がないので抱きしめてやる。
するとエミールはミレイユの猛烈な抱擁に「わぷっ」とおぼれたような声を出して、それから離してやれば「あははっ」と無邪気な笑みをこぼす。
こんなことぐらいで彼の心が少しでも楽になるなら、お安い御用だと考えそうになるが、そんなことを考えている場合ではない。本当にそろそろ傷を出してくれなければ困るのだ。
「はい、早く傷を出して」
「うん。いつもありがとう」
ミレイユがお願いを聞いたことによってエミールは満足したらしく、大人しく着ていた白いシャツのボタンをはずして半裸の姿になる。
その姿を見てミレイユはぐっと顔をしかめて、すぐに服の中に仕込んでいた水の魔法道具を手にして魔力を使う。
「今日は、いつもより酷くつねられちゃった」
「そうね」
「でも僕、平気だよ?」
「ええ、あなたは強い子ね」
「なんかその言い方、子ども扱いに聞こえるんだけど」
「子供でしょう」
「違うもん」
「大人は”違うもん”なんて言わないわ」
指摘しつつ腕についている、内出血を治していく、ところどころ力いっぱいつねったのか青く痣になっている部分もあって、彼の二の腕はとても痛々しい事になっていた。
しかしこれでもこまめに治しているので、少しはマシになってきたところなのだ。
「他にはない? 水の魔法はできるだけ早いうちに治さないと、傷が残ったり、変に治ったりしてしまうから」
ゆっくりとエミールの体から傷が消えていくのを眺めながらミレイユは聞いた。
すると彼は、すこしも間を置かずに「ないよ」と短く答える。
その返答にすぐに別の事もされたのだろうという事がわかる。しかし、聞かれたくないという彼の自尊心を感じた。
だからこそミレイユは何も指摘せずにすこしだけ笑みを浮かべた。
「そう、ならいいの。でもいつでも言って、魔力だけは使い道がなくて余ってるから」
「うん。ありがとうミレイユ」
彼も貴族で、本来ならばミレイユと同じように魔力を使って自分の傷を治すことが出来る。
しかし、そうしないのは大人しくエミールがヴィクトワールからの暴行を受けている原因でもある、魔力欠乏の症状のせいもある。
……普通はその領地の貴族皆で領地運営にかかわる魔法道具の魔力を捻出して領地を豊かにするものなんだけど。
どうしてかこの家では、エミールだけが、魔力欠乏になってベッドから降りられなくなるぐらい魔力を使っている様子だった。
詳しい事情はわからないし、ミレイユがこの屋敷にいる理由はヴィクトワールに罰を与えるためだ。
家族の問題に首を突っ込む気はない。しかしそれでも、気弱で善良であったクロードと重ねて心配になってしまう。
……この子がどうにか自分の主張を通せるようになればいいけど……。
それはとても難しそうで、とにもかくにもヴィクトワールがここにいれば彼が苦しむのは事実だ。
最後にもう一回子供のように抱き着いてくるエミールがとてもミレイユに懐いてくれているのを嬉しく思うけれど、それと同時に、ミレイユは彼に好かれていることに罪悪感があった。
彼の為にもなるけれど、ミレイユはエミールを利用している。
今だってそのための布石をしているにすぎないのだ。
「ねえ、エミール。……私から一つお願いがあるの」
ミレイユは複雑な感情のままそう切り出した、もうすぐ仕込みは終わる。
罰を与える日は近い、その時の保険としてエミールの方からも動いてほしい、そうすればより勝率が上がるだろう。
無邪気に「いいよ! どんなお願い?」と聞いてくる彼に、ミレイユは日時と場所だけを指定したのだった。
とある日の午後、ミレイユはこの屋敷で一番使用人に厳しいヴィクトワールの部屋にノックもなしに入った。
ドアの間にストッパーを挟んで少し開けて置き、突然の事に驚いて、そして使用人だと気がつきイラついた様子でこちらをみるヴィクトワールと目を合わせた。
「……なによあんた。ダヴィドからの呼び出し? それにしても私の部屋に急に入ってくるなんて何様のつもりよ」
ソファーでくつろぎながらお菓子を食べていた彼女は、食べかすをこぼしながらミレイユに視線を向けた。
「……」
「減給処分にさせるから名前を言いなさい、ああ、いえ、クビよクビ、今日すぐにこの屋敷から出ていきなさい」
「……」
「聞いてるの? あんたはクビよ。っていうか早く用件を伝えなさいよ」
一向に喋らないミレイユに対して、せかすようにヴィクトワールはいい、さらに無言のまま近づこうとしたミレイユにむかって訝しんだ顔をしてお菓子の皿を投げつけた。
そのお皿はコントロール悪くあらぬ方向へと飛んでいったが、クッキーが散らばってそれをサクサクと踏んでミレイユは彼女のそばへと寄った。
すると流石に異常を察知したらしく、ヴィクトワールは驚いてソファーから立ち上がりミレイユを睨みつけながら、魔法道具を出した。
「風の魔法でずたずたにされたくなければ、そこで止まりなさい! 誰か!すぐに来て!!」
彼女は人を呼ぶためにおおきな悲鳴のような声を出す。
しかしそんなことをしても意味はない。
ミレイユは満を持して笑みを浮かべて口を開いた。
「……久しぶりね、ヴィクトワール。私よ、誰だかわからない?」
前髪を払って、彼女を見つめた。
すると警戒しながらも彼女はじっとミレイユを見て、それからハッと驚いたような顔をして「ミレイユ」と小さくつぶやいた。
「そう、あなたの義理の妹よ。ずっとこうして話がしたかった!」
心底嬉しいとばかりにミレイユは顔をあげて手を広げた。それから必死に早口でまくし立てる。
「あの日の事があってから、私はずっとあなたとこうして会う機会を探していたの! お義父さまもお義母さまもヴィクトワールは悪くないと言っていて私はあなたを追い詰める証拠も何もなかった!」
「……」
「だからこそ、ここまで来た! こうして直接会えば、きっと罪を認めてくれると思って!お願い、ヴィクトワール、あなたは二人も殺した、私のお腹の子と私の夫!! 二人とも大切な私の家族だったの!お願い真実を言って!」
ヴィクトワールに詰め寄ると、彼女はそのミレイユの熱量に気おされてか後退して距離をとる。
しかし、その表情には反省の色も何もなく、むしろ不服そうな表情だった。
それから、少し考えた後で彼女は馬鹿にしたような顔をして、鼻で笑ってミレイユに言った。
「……はいはい、じゃあ殺したわ。それで? これで満足? っていうか使用人に紛れてこの屋敷の中まで入ってきて気持ち悪いわね。それにあなたコンスタン公爵家からクロードの死後に離縁されて、実家からも死亡扱いにされて貴族でもなんでもないんでしょう?」
「……どうしてそんなこと」
「ただの平民の癖に私の罪が立証できるかしら? ていうか馬鹿じゃないの? なにが真実を言ってよ。言ったから何なのよ、お父様もお母様も私を守るのに誰が私を罰するの?」
はぁ、と呆れたようなため息をついてヴィクトワールは腰に手を当ててミレイユをあざ笑った。
「誰も私が罪を犯していても文句なんてないのに何故、罰されると思うの? 馬鹿じゃない?」
「……そんな、でも殺人なんて許されない」
「だから、許されたでしょ? 黙認されたでしょ? それにね、私、そんなに馬鹿じゃないからそういう人以外手を出したりしないのよ」
「……っ」
「ああ、それを言うなら今のあなたも同じね。魔力量なら公爵家出身の私の方が圧倒的に多いはず、痛い目見せてあげましょうか?」
言いながら彼女は強気にミレイユに近づいてくる、しかしミレイユは一歩も引かずにヴィクトワールと向き合った。それから最後の切り札を出す。
「で、でも! それじゃあ、今、エミールをいじめていることはどうなの?! 彼は魔力でこの領地に沢山貢献している! それなのに彼にあんなことをして許されるはずがない!」
「なに言ってるのよ。許してるじゃない……知ろうとしない、気がつこうとしない、見て見ぬふりをする使用人たち、ほら、許してる」
「そんな、そんなことない! 彼が可哀想よ!」
声を大きくしてヴィクトワールに怒鳴りつけた。すると彼女もミレイユに同じく怒鳴るように言った。
「だからあんたの主観なんて微塵も意味なんてないのよ!! ブランジェ伯爵家は子供が凌辱されていても、面倒事に手を出したくないから何も言わないそういう愚かな貴族たちの家系なのよ!!」
「なんてことを……」
「ただの事実よ! 私ったらこんな場所にお嫁に来られて幸運だったわ!!」
彼女の言葉を聞いて、ミレイユは安堵した。これでやっと彼女に罰を与えられる。
勝ち誇ったような顔をしているヴィクトワールに、ミレイユは笑みを浮かべて体を翻す。
それから彼女の部屋の扉をあけ放った。
そこにいるのはブランジェ伯爵家の貴族全員である。伯爵夫妻も夫のダヴィドもエミールも勢ぞろいだ。
「……」
この屋敷に勤め始めて、ミレイユだってそんなことは当の前から気がついていた。
そうでなければ、エミールが一人だけ苦しい思いをしているのに誰も声をあげないのはおかしいし、虐めの件もどこかで誰かが気がつくはずだ。
しかし彼らは知らないふりを続けていた。
出来る限りはそうして面倒事を避けたいと望んでいるのだとわかっていた。
だからこそミレイユはそれぞれをそれぞれの形で呼び出して、それをできるだけの関係の構築をしてきた。
それがこの作戦を決行するための仕込みだ。
そして彼らは知らないふりはできても、公にされてしまったからには、対応せざるを得ない。そう踏んでミレイユはこの状況を仕組んだ。
ブランジェ伯爵夫妻は驚いた様子で固まっていて、エミールは視線をそらしてただそこにたたずんでいた。
しばらくの沈黙の後、一番初めに口を開いたのは夫のダヴィドだった。
ミレイユはこの最初の言葉で方向性が決まると考えて、鋭く彼を見つめた。
「ヴィ、ヴィクトワール……今の言葉は本心かい?」
「いいえ!! いえ、そんなはずないわ。どこから聞いていたか知らないけど!! 脅されて言わされていたのよ!!」
そんな言葉は通用しない。ミレイユが部屋に入った時から、彼らはずっとそこにいた。
扉も開いていて声は駄々漏れだった。
しかし、ヴィクトワールの変わり身の早さには少し驚く。あれほど性悪な笑みを浮かべていたのに、今はしおらしい態度だった。
それでもここまで示したのだから大丈夫なはずだ、ミレイユはダヴィドに視線を移した。
「……そ、そそ、そうか。いや、そうだとしても、いくら、可愛さ余ってもこんなに愛らしいエミールを虐めてはだめだぞ?」
…………あ、ああ、思ったよりも人間って善良な人は少ないの?
異常なほど汗を掻きながら、どうにかヴィクトワールの行動を正当化しようと言葉を選ぶダヴィドに、ミレイユは目を見開いて、思わず人間の善良さについて考えてしまった。
そしてその言葉に合わせるように、ヴィクトワールも言った。
「そうっ!そうよ、ただね、私弟が可愛くて、可愛くて━━━━」
「可愛くて襲ったんですか。ヴィクトワールお姉さま。……お兄さま一つ、僕から言わせてもらうと、彼女は可愛いと思うとつい虐めてなぶって、襲い掛かってしまう性分なようですから、もし子供が出来ても注意が必要だと思います」
このままでは、また見て見ぬ方向に話が進んでしまう、そう思った時にエミールがとても冷静に言った。
直接的な表現は使わなかったけれど、エミールは兄に自分がヴィクトワールに何をされたか、理解させるような言葉だった。
そのことについてはエミールのプライドもあるだろうし、ミレイユは絶対に触れなかったのに、彼自身から家族に明かした。
これから先の家族関係など色々と考えるとあまり言わない方がいい気がしたが、すでに手遅れだ。
伯爵夫妻は信じられないものを見る目でエミールを見やって、ダヴィドは、驚きの声を漏らして再度、ヴィクトワールを見る。
ヴィクトワールはぎこちなく笑みを浮かべていて、またダヴィドも異様な笑みを浮かべてから、変な怒鳴り声をあげてヴィクトワールに突進していった。
彼らは部屋の中をしっちゃかめっちゃかにして取っ組み合って、やっぱり伯爵夫婦は呆然としたままだった。
もみくちゃになるヴィクトワールを見ながら、ミレイユはやっと罰を与えられたという気持ちと、なんだかやけに虚しい気持ちが襲ってきてひとりでに笑いながら泣いていた。
そんな混沌とした状況がしばらく続いたのだった。
その日の晩、なんとかダヴィドとヴィクトワールを引き離して話し合いは後日ということになったが、ミレイユは彼女の部屋の外で張り込んでいた。
荷物を持ってひっそりと部屋を出てくる彼女をミレイユは満面の笑みで出迎えた。
「あら、ヴィクトワールどこに行くの?」
彼女はミレイユの事をぎろりと睨みつけるが、大きな声をあげるわけでも手を出してくるでもなくミレイユの質問には答えずに言った。
「これで満足なんでしょ、この性悪。最悪よっ、最悪」
「……満足? 満足って何のこと?」
「はぁ? だからあたしに復讐しに来たんでしょ。おかげで離婚よ、ふざけんじゃないわよ」
悪態をつきながら急ぎ足で去っていこうとする彼女に、ミレイユは少し後ろからついていった。
同じく荷物を持って。今すぐこの女を縊り殺してやりたい気持ちを抑えながら速足でついていく。
それから、こうしている目的をヴィクトワールにやっと伝えた。
「復讐なんてそんな罪深い事してないわ。私はただ、罪に罰を与えているだけよ」
「……」
ミレイユの言葉にヴィクトワールは目を見開いて振り返った。
罰を与えているだけなのだ。だから満足することなどそもそもない。
「あなた、罪を犯したでしょう。でも許されているから問題ない裁かれないって言ったわよね」
「……」
「世界の誰もが許しても私は許さないわ。その罪に見合う罰を与える、与え続ける、これは正当な事でしょう。さあ、どこまででも行きなさい、その罪に罰が見合うまで、私はあなたを逃がさない」
……追い続けるわ、どこまでも、世界の果てでも、私はあなたを許さない。
ミレイユの言葉を聞いてヴィクトワールは一度思考を停止させて呆然とした、しかし絞り出すような小さな声で言った。
「……あ、頭おかしいんじゃないの」
その言葉を最後にトランクを持ったまま走り去っていく。よっぽど焦っているらしく何度も何もない場所で躓きながら、どたばたと走り去っていった。
これでやっとスタートラインに立つことが出来た。彼女が出ていった屋敷のエントランスに向かってミレイユも歩き出した。
到着すると彼女は夜逃げのくせに馬車を用意させていたようで、貴族らしく平然とブランジェ伯爵邸を出ていった。
ミレイユには足がないので適当に村まで行って、乗り合いの馬車でも探さなければならないだろう。
それはそれで一仕事だと思いながら外に出ると、急に茂みからガサゴソと音が鳴って、エミールが飛び出してきた。
彼は飛び出してから木の葉を頭にのせたまま、ミレイユのそばまでやってきて手を取った。
「ミレイユ!……行っちゃうの?」
彼がここにいることにも驚いたが、唐突にされた質問の方に意識が向く。
エミールには今日の話を外から聞かせていた以外は事情を一切話していない、しかしそれだけで大方を理解できたのだろう。
だからこそ、ヴィクトワールが居なくなったらミレイユも当たり前のように去るのだとわかったのだ。
そう考えて素直にミレイユは頷く。それから頭の上の木の葉を取ってやった。
すると彼は、目を見開いてから、悲しそうに瞳に涙をためる。
「……ごめんね。あなたはきちんと気を強く持って、これからは虐められるようなことは無いように……がんばるのよ」
「……」
「私は……あの人を、地獄の果てまで追いかけなければならないから。その罪に見合う罰を与えるまで永遠に」
怒りを込めて口にする、本当はエミールのこれからが少し心配だったが、そんなことは言ってられない。黙り込むエミールから掴まれた手を離してゆっくりと屋敷から離れていく。
しかし、しばらくして背後から声がかかった。
「じゃあ、僕は! そのミレイユの背中を追いかけてもいい?! ミレイユが好きなんだ!!」
思わず振り返って、顔を赤くしている彼を見る。
意外な告白だったが、きっと親愛と恋愛を履き違えているのだろう。子供にはよくあることだ。しかしいくら子供の言葉でもミレイユは新しい人を考えるつもりはない。
「ごめんね。エミール、私、あの人の罪に見合う罰が見つかるまで、誰も愛するつもりはないから」
「それなら、見つかるまで追いかけるよ!」
「……」
「それならいいでしょ! 待ってて、ミレイユ、きっと追いつくから!」
そうは言われてもこれ以上、ミレイユが言うべきことは何もない。
無理に諦めさせるのも、望みを持たせるのも、どちらも酷だろう。
ただ彼は歳を重ねて大人になって、あんな風にも言ったっけなと思い出して懐かしくなるそんな程度でいいはずだ。
このまま何も言わなければ望みがなかったんだとうまく解釈してケリをつけるだろう。
とにかく彼が大人になるまでは時間がかかる。その間にきっとただの思い出に変わっていくだろう。
今、無理やりに傷つけなくてもいい。
それに……。
とことこと暗闇の中を歩きながらふと星を見上げた。
天に上っていった彼ら二人、ミレイユの愛した大切な人はこの世にはいない。
見合う罰を見つけた時、ミレイユは空っぽになってしまう。けれど、こんな風に言ってくれた人がいた。そう思えればすこしはこの世も寂しくないと思う。
だからミレイユも純粋な少年からの告白を綺麗な思い出にしておきたかったのだった。
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