12 母と私
晴れるほどに冷えるというのは放射冷却現象といったか。
今もよく晴れていてかなり冷えているのに、母はひとり雨に打たれたかのように汗だくだ。真っ赤な顔をしてるから、階段を上ってきた直後なのかとも思ったけど息が切れているわけでもない。もうかなり湿ってそうなハンカチでこめかみをぬぐいつつ、母は嫌悪感丸出しの顔を向けてくる。
「はぁ……、清さんに聞いた時はまさかと思ったけど、本当に来てるだなんて」
「……あけましておめでとうございます」
今年もよろしくと言いたくなくとも年始の挨拶くらいはと思ったのに、母の口角がさらに下がってしまった。
なんだって今ここにいるんだろう。旅行に出発していたのは毎年一月二日の夜だったはずだ。だって各名家もいる年始会は明後日なんだから。
「まったく。お前ときたら連絡ひとつ寄こしもしないでぬけぬけと。危うく不義理するところだったじゃないの。ねぇ?」
「お母様ったら。この人の気が利かないのは元からでしょ」
またもや別に聞きたくない声がした。母の横に立った美代子は相変わらずというか、背負っているワニモドキがひとまわり大きくなっていた。化粧で誤魔化しているようだけど、大きなニキビがみっつ頬に居座っている。とすると、兄もいるんじゃないか。
母の後頭部にはりついている異形が大きすぎて見えなかったけど、一歩横にずれてみたら、兄らしき男性を後ろに従えてるのがわかった。顔のあたりは異形の影になっているけど兄だろう多分。
というか、これは平木の家でも見たことがない。どこから連れてきたの……。
多分亀が母のつむじに顎を載せている。口をぽかんとあけたままの顔は確かに亀。こめかみにおかれた手は亀の手。体はおそらく甲羅なのだと思うけど、もっさもさに毛が生えていてよくわからない。ぱっと見、母はすごく後頭部のでかい人になっていた。
重さは感じていないはずだ。だけど母の汗だくはこいつのせいじゃないかな……。おっきいし。毛深いし。亀のパーツがなければ、大きいバージョンのケムかと思ったか、も?……あれ? 今不義理って言った? 何が?
ハンカチで顔を扇ぎながら、母は私の頭から足先まで視線を往復させた。
「ちょっと何その着物。随分いいものだわね……ふぅん。まあいいわ。案内なさい」
「えっ、あの、私もさっき連れてきてもらったカフェしか」
観光案内のこと? でも神社は市井の関係者しか入れないし。そうなると、ここのお店巡りくらいしかないような……待って、なんで私が巡るの。これ見よがしに大きくため息つかれたけど、なんなの。
「気に入られているようだから、少しはマシになったかと思えば……。いい? 妾とはいえ縁づいたのだから、平木家も今日の年始会でご挨拶しなくては」
「えっ、呼ばれてもいないのに!?」
「んなっ!?」
ヤダこの人。どうしちゃったの。怖。おかしいの? ちょっとおかしくなったの? 亀モドキのせい? 困惑しかない。
「ほらぁ、母さま。やっぱり何かの間違いだったんだわ。この人が気に入られるわけないもの。どうせ下働きで来てるだけよ」
「美代子。お前は黙ってろ。母上。だから言ったじゃありませんか。いくらなんでも……こいつが、その、妾、に、だってなれるわけが」
やっと顔の見える位置まで兄が出てきた。妾、のとこを小声にしてるのは、ここが公道だからだろう。
常に私を下げることしか言わない人たちではあるけど、母や美代子の前で兄が口を出すのは珍しい。こういう時はいつでも不快そうに睨むだけだったのに。まあ、そんなことはどうでもよくて。
「最初に言われてたじゃないですか。軍でのお勤めです。市井さんに失礼なんでやめてください」
妾うんぬんはちゃんと否定しておきたい。しっかり胸を張って主張した。舐められたら駄目。
どこからともなく現れたおかっぱ三体が、母たちの周りをぐるぐると回っている。いつものように視線を向けず、でも視界にはおさめておいた。やば。おかっぱたちは歯をむき出しにしてカチカチ噛み鳴らしている。いや音は聞こえないけど、あれは鳴ってるはずだ。
「清さん、そうは言ってもね、年頃の娘を面倒見るってそういうことでしょうに。そりゃあ趣味はどうかと思うけれど」
「母上、市井氏は独身ですよ。お願いですから、ここでは控えてください」
「だからなんだというんです。正妻なんてどちらにしろ無理なんですから同じでしょう」
「そうではなく……っ」
もー! 聞いてくれないぃ! いつものことだけどぉ!
ここは市井の膝元なのだからとかなんとか耳打ちをされ、母は不服そうながらも口をつぐんだ。その耳打ち、私のとこまで聞こえてるんですけど。
この世界で妾はさほど後ろ暗いものでもないとはいえ、それは妻帯者が囲うものだ。こう、妻以外も養える甲斐性がどうのとか。だけど未婚であればちょっと話は変わるらしい。平木家の下女たちが、おやつの芋を食べながらそんなようなことを言っていたはずだ。だから兄もこんなところで話すことじゃないと窘めてるんだろう。というか、どこであろうと間違いなんだから言わないでほしい。
今まで家の中だけの振舞いだとなんとなく思ってたんだけど、外でもこんな感じなんだと驚いた。えー? 外面とかそういうのどこにやったの……? 持ち合わせはないの……?
「これ、買ってもらったの?」
もうこの人たち置いていっていいかな。市井さんが先に行ってしまったんだよなって、立ち去るタイミングを計り損ねていたら、美代子が私の着物の袖をひいた。
「……譲っていただきました」
「なぁんだ。お古か。そりゃそうよね」
この着物は母から娘に受け継がれるレベルのものだ。実際譲ってくれたおばさんは、うちには娘もいないしねって言っていた。いつもいい服を着ているはずなのに、それがわからないとかどうなんだと思う。
ワニモドキがべろりと美代子の目を舐めた。うへぇ。
「あれ……?」
気がつけばおかっぱが五体に増えていて。
道を行き交う人たちが、私たちを大きく迂回している。
別に見物されているわけでもない。ただその迂回の仕方が不自然というか。
さほど広くもない通りなのに、ぐるぐると私たちを中心に回るおかっぱたちを避けていくから、人の流れがおかしい――。
もうおかっぱは五体じゃきかない。ぐるぐる回る速度があがっていて数えられないけど、増えていってるのはわかる。
待って。おかっぱたちの向こう側が、どんどん白く霞みがかっていく。







