4 世間体と私
兄の乗っていた人力車は、私たちとすれ違った少し先で停められた。
車夫への声掛けもそこそこにして、転がるように降り立った兄はこちらへと駆け出す。車代って乗る前に払うものなのだろうか。今払った感じではなかったからきっとそうなのかも。私は乗ったことないしシステムをよく知らない。
「嫁入り前の娘が! 寮の門限はないのか!」
大島紬のアンサンブルは暖かそうだけど、人力車に乗ってたら寒かったりしないんだろうか。ふと思った疑問は兄が間近まで来た時に解けた。紅潮した顔が暑苦しい。フエルト生地の山高帽なんて斜めにずれている。少なくとも今は寒くなさそう。というか運動不足では……? だってせいぜいが二十メートルほどだったよ?
「ご、ご無沙汰してます?」
「――っ、お前はどうしてそうなんだ!」
「ええ……?」
「良家の子女が出歩いていい時間もわからんのか」
「りょうけのしじょ」
何を言い出すんだろうか。平木家の人間として扱ってきたことなどなかったくせに。
言いがかりには慣れているから、前なら聞き流してた類いのものではある。だけど今日はかちんときた。
この世界で一般的な若い女性の門限なんて知らないけど、今は二十時にもなっていない。
家にいた頃なら、ひとりで台所の片づけをしていた時間だ。良家の子女なら出歩けない時間でも、仕事はさせてていいんでしょうかね。確かに妹の美代子はゆったりとお肌の手入れをしていましたけどって、言い返したい。
だけど何故だか、ぐっと喉が詰まった。
詰まっているのは悔しさなのか悲しさなのか、自分でもわからない。
前に私の元許嫁の勝さんと美代子が本部に突撃してきた時は、ちゃんと言い返せたのに。
うつむいてしまったら、制服の胸ポケットにケムがマスコット面して入り込んでいるのが見えた。
「失礼。察するに平木家嫡男の清さん、さつきさんのお兄様でしょうか」
「うわっ」
軍靴のつま先が、うつむく私の横に並んだ。
きれいめモードの市井さんの登場で、兄がのけぞったのが衣擦れの音でわかる。いやずっとそばにいたのに何を驚くのか。私の半歩先を歩いていたじゃない。気づいてなかったのか。
「はじめまして。さつきさんの上司で市井と申します」
「え、あ。あなたが……。ええ、平木清と申します。てっきり寮にいるであろう時間に、妹を見かけて取り乱してしまい失礼いたしました」
勝さんと違って、兄はすぐに外面を取り繕い帽子をとって胸にあてた。柔らかにつくったよそいきの声が聞きなれない。来客の対応する時だって、ここまですましていなかったと思う。あれか。やはり格上のおうちが相手だからか。
「いえいえ。さつきさんはよく勤めてくれていますから、今日は外食につきあってもらったのですよ。行き先は同じですからね。しっかり送り届けますのでご心配なく」
よそいきモードなら市井さんの方がすごいんだ。年季が違うんだぞと内心でつぶやいて私も胸をはることにした。舐められるなって何度も言われたのを思い出したから。市井さんがほめてくれた私を、舐めてもらっては困るんだ。
ちらりと横目で見上げると、一瞬だけ口端をあげてみせてくれた。
「……そうですか。不出来な妹はご迷惑をおかけすることも多いと思いますが、一応嫁入り前の娘です。世間体をご考慮いただきたい」
何言ってるんだろう。妾として励め的なことまで言う母を、市井さんはやんわりとではあれど窘めてくれたのに。
首からこめかみまで一気に熱くなって、そのまま一歩踏み出しかけた私を市井さんが腕で通せんぼした。
「ええ。申し訳ありません。今後は留意しましょう」
「市井さ」
「いいから。かわいい妹のことなのだから、お兄さんの心配はもっともなことでしょう。ね、そうですよね?」
かわいい妹を強調する発音に、兄がなんとも言えないような表情をして目線を落とした。
そうでしょう。すごい圧でしょう。きれいな市井さんの圧はすごいんだぞ。
「……よろしくお願いします。さつき、年末は何日に帰るんだ」
「え、帰るわけない」
憎々し気に私の名を呼ぶ兄の声に、もう喉が詰まったような感覚は起きなかった。
どんなつもりなのか想像もつかないけれど、いいお兄ちゃんなんて今更もういらないんだから。
「何を言ってるんだ! お前なんぞ年末年始のお勤めはないだろうが! 聞いたんだぞちゃんと!」
兄の指差した先は本部ゲートの詰所だ。まだ結構な距離はあるけど、立ち番している人は食堂でよく挨拶してくれる人なのが見えた。
なんで兄がこんなところにいるのかと思ったら、え、まさか突撃してたの? 面会は事前申請しろって美代子たちは言われてたのに聞いてないんだろうか。
個人情報がどうのとかそういった概念のないこの世界。正規の軍人さんたちのことならともかく、私みたいな身分なら、まあ駄々洩れだろう。実際に年末年始休みだし。
「お休みでも帰りません。人手は足りてるんだから必要ないでしょう」
「人手って……年末年始は家族で過ごすのが常識だろうが」
「年末はともかく、年明けは毎年留守番でしたが」
「――っ」
わぁ。こんなわかりやすい『あっ』って顔ある? 完全に盲点だったらしい。
毎年家族四人で年明け早々旅行してたくせに。どこに行ってたのか知らないけど。
「――ああ。道理で見覚えが全くなかったわけだ。俺も大概興味ないから顔出してすぐ引っ込んでたし、そのせいかと思ってたんだが。さすがにお前がいれば気がつくよなぁ。なるほどねぇ」
きれいめモードを突然やめた市井さんにびっくりして毒気が抜けた。こういう風にやめることってあまりないのに。
「どうしたんですか」
「なんで小声になってんだよ。その年明けの旅行ってあれだろ。市井の年始会。なぁ?」
「――か、家庭内のことです。そちらには関係ない」
がらりと態度が変わった市井さんに、それでも兄は顔をあげて言い返した。引けてる腰のせいで、怯んでいるのは丸わかりだけど。
というか、市井の年始会とかいうのに行ってたのか。毎年一月二日の夜に出発して、三日から四日間くらいはいなかったと思うけど。
二日は次々挨拶にくる分家のもてなしは当然のこと、兄たちが夜に出発するまで怒涛のように忙しい。その後も片付けで走り回るから、私が少しゆっくりできるお正月は三日からだった。
帰りたいわけがない。寮の食堂ではお正月料理出してくれるって聞いてるし。
「関係ないことないんだよなぁ。今度の年始会、こいつは市井側で出席予定だ。な! さつき!」
すっごいいい笑顔が向けられたけど、なにそれ聞いてない。私のお正月料理は!?







