2 露天風呂と私
ぽちゃん、ぽちゃん、と水滴の落ちる音が響いて夜空へと抜けていく。
「耳の後ろまでしっかり洗えよー」
「は、はい!」
男湯と女湯を隔てる竹垣の向こうから、市井さんの声が響く。耳の後ろって。お母さんなの。
この季節に頭からずぶぬれになってしまった私たちは、予約をいれていた温泉宿に慌てて駆け込んだ。
何せこの季節、いくら鍛え上げた軍人さんだとて風邪をひいてしまう。私などは言わずもがなだ。宿についた時にはもう鼻水が止まらなくなっていた。
湖がきれいだった頃は繁盛していたらしいこの温泉宿だが、今夜の客は私たちだけだ。
牛乳雑巾の匂いがする男女を、丁寧に、でも即座に温泉へと案内してくれた。
「これが噂の露天風呂……」
思えば前世から通しても初めてだ。温泉自体は中学の修学旅行に組み込まれていたけど、露天ではなかったし。
汚れは思ったよりするっと落ちてくれた。普段は大切に使っている石鹸だけど、惜しみなく泡立てて使った甲斐がある。
市井さんは支度金だと言ってまとまったお金を貸してくれて、それは将来的に少しずつでも返すつもりでいたから本当に必要最低限のものにつかっていた。その中でも奮発したのが石鹸と髪洗い粉だ。だって宿舎では毎日お風呂に入れるんだもの。そりゃ優先順位は高くなる。本当はコンディショナーも欲しいけど、それは売っていなかった。卵の白身とかもったいないから無理。それでも最近流行りだという髪洗い粉は、洗髪後の軋みも少ないし、すっきりとしてうれしい。
洗い場の隅できっちりと汚れを落として岩風呂につかれば、肌がちりちりする程度の熱さは凍えた体をほぐしてくれる。
竹垣の向こうから、ゔぉぁーっておじさんっぽいうめき声がした。
もしかしなくても市井さんだろう。あのきれいな顔でこの声……。
見上げれば浴場の端に据えられたかがり火が、楓の葉を照らしあげて星月夜に彩を添えている。あたたまる体とは逆に、冷たい風が顔を撫でて心地よい。
湯の中で思いっきり手足を伸ばしてから脱力すると、ケムが見事なクロールで目の前を横切っていった。
露天風呂からは湖が見下ろせる。これがこの宿の売りだったのだろう。
こんな雲ひとつない月明かりの夜なら、湖面に月が映り込んでいたんじゃないだろうか。そんな景色を前世の広告かなにかで見たことあるような気がする。
でも今はのっぺりとした黒い空間が広がるばかりだ。
「さつきぃ」
「はいー」
間延びした声は、もわんと湯気に溶ける。
「怖いのはいなかったんだよなぁ?」
「いませんでした。いれば何かわかったのかもしれないですけど」
や、どうだかわからないけど。
それでも私は怖いのを見つけていくのが仕事なのに、それがいないとなると、どうやったら役に立つのかがわからない。脱力したようにぷかぷかとケムが湯に浮いている。
「いないに越したことはないだろ。手ごわいのがいられちゃそれはそれでだるいしよ」
「……それは、そうで、す」
お風呂でくつろいでいるからなのか、市井さんの声はいつもよりやわらかく聞こえる。
竹垣越しとはいえ、これ以上なく無防備な姿で会話していることに突然思い至ってしまった。お風呂なんだから当たり前でしょ。何びっくりしてるの私!
ばしゃっと掬った湯を顔に当てて気を取り直す。
「ぁのっ」
「おおう?」
いまいち取り直せなくて声が裏返った。
「んんっ、え、えっと、さっきの栓……? あれは」
「あー、ここにあるぞ」
「え! 一緒にお風呂はいったんですか⁉」
「ちゃんと洗ったっつの。まあ、魔水石だな。祠の残骸だろ」
「祠、魔水石製だったんですか」
「いやー? そういう記録はなかったなぁ。ただ、古い祠とか鳥居とかにはよ、どっかに仕込まれてることはよくあるんだわ」
「あっ、習いましたそれ!」
「おー。覚えてて偉いなー」
魔水石は魔道具の動力源だと広く知られるようになったのは、近年になってからの話だ。開国して生活に役立つ魔道具が増えるまで、広く知られていた使い方は水石という床の間に飾るような置物だったりする。
それまで魔道具がなかったわけじゃない。
ただそれは市井さんが持っている刀のような妖退治特化のものだから、国のえらい人とか関係者しか知らない。古い祠や鳥居に使われていることが知られていないのも、それと同じ理由。妖を封じたり寄せつけない結界をつくるためだから。
このあたりのことは、市井さんに雇われてからずっと重点的に教えられている。
だから覚えていて当たり前のことではあるんだけど、褒められるとちょっとうれしい。それが結構な棒読みでも。
「これが仕込まれてたってこたあ、ここの祠は確かに妖を封じるための本物だったんだろうな。つまりはだ」
「はい」
「祠が壊れた以上は、何かがいなきゃおかしいっつうことよ。でもお前、怖くなかったんだろう?」
「は……い?」
あれ? 確かに怖いのはいないけど、何もいないかっていうと?
湖だったはずの、眼下に広がる暗闇をもう一度見つめる。コールタールみたいな黒だ。
ついさっき私たちが湖底を漁っていた時ともまた様相が違っている。
これだけ月が明るいのに何ひとつ照り返しのない黒が、のたり、と揺れた。
周囲の木々と湖面の境目が波打つ。
「市井さん、怖くないのはいるんですけど」
「んー? いつものだろ? そんなら害はなかろうよ」
だよね。最初の頃は本部のどこになにがいるかを詳しく聞かれたのだけど、もう常にそこら中にいることを納得してもらってからは特に報告しなくてもよくなっている。
ほっとして、冷えつつある肩に湯をかけた。あったかい。
湖があった場所でのたうつようにとぐろを巻いている大きくて太い蛇っぽいのから、竹垣を平均台にしてマントを広げるようにバランスをとっているケムへと視線をうつし……待って。嘘。待って。
「ケム! こっち! 戻って! こっち!」
「お、お? おいどうした!」
「なんでもありません! ケムぅ! こっち!」
マントじゃない! 私のパンツだ! なんで!
ざぶざぶと湯をかきわけて竹垣にはりついたけど全然手が届かない。
「おい! だいじょ……う?」
「こっち見ないでぇええ! ああああ!」
「ぉおおお!? 」
パンツを落下傘にして、とーんとケムは竹垣の向こうへ飛んでいった。







