20 柘植の櫛と私
鐘守さんについていたミミズはみんないなくなっていた。
くっつかれた人が生きてるのに、そいつらがいなくなったのを見たのは初めてだ。今朝会った時はミミズが邪魔して顔色はわからなかったけど、声に少し張りが出てきてる気がする。
「トミエが、トミエが、気がついたらおらんのです」
よたよたと支えられながら鐘守さんがこちらへと手を伸ばした。乾いて血管の浮いた老人の手。だけどよく手入れされているのか、ささくれひとつない。
下男と医者は門の奥にある馬車回しまで戻ろうと何度も訴えていた。町の大きな病院に連れていきたいらしい。
「黙れ、儂が倒れとるのにあの子がいなくなるわけがっ、ない、だろうが」
支えてくれている下男を叱りつけるけれど、その支えがなければ立っていられないようだ。息もどんどん荒くなっているのに、あの優しい子がと繰り返している。
鐘守さんにとってはそうだったんだろう。祖父思いの優しくてかわいい孫。
「なあ、なあ、あんたたち知ってるんじゃないか。一緒にいたんじゃないのか。トミエをどこにやった」
「旦那様っ」
一応止めようとした下男も、それ以上は何も言えないまま、びくびくと視線を彷徨わせた。背負われた私には市井さんの顔は見えないけど、なんとなくどんな顔してるのかは想像がつく。
「荷物を持ち出し損ねましてね、これから急ぎ本部に連絡を入れます。なに、その道の熟練者がすぐに向かいますよ」
「熟練者、そうか、そう、ですか」
「ええ、落ち着いて病院でお待ちくださればいいかと」
澄ました声で彼らの横を通り過ぎた市井さんは、ああ、と思い出したように立ち止まって半身で振り返った。うわ、出た。どっかの名探偵仕草だ。
両手がふさがっている彼に促されて、肩越しにその胸ポケットから山頂の地蔵跡地で拾ったものを取り出す。
真ん中からぱっきりと折れた柘植の櫛だ。よく手入れされていたもののようなのに、真新しい傷がいくつもついている。
「さつき、もっとよく見えるようにしなさい。――これに見覚えは?」
「い、いえ」
力が抜けたのかおとなしくなった鐘守さんの代わりに、下男が戸惑いを隠さず答えた。さらにもたれかかられて腰が辛そう。そして指示された通り見やすく広げた手のひらにある櫛をのぞくべく野次馬の頭が左右に揺れ――その向こうから弾かれたような哄笑があがった。
「やったぞ! やった! ざまあみろ! やってやったぞ! サチコ!」
一斉に振り向いた野次馬の視線など気にも留めずヒステリックに笑う男性の目からは、涙がとめどなく流れ続けている。あのトミエさんにすがりついていた人だ。幾筋も流れる涙に合わせ、髪が見る間に白くなっていく。
この櫛は、触手が見せたあの映像の中で女性に投げつけられていたものだ。あれがサチコさんだったのか。
何人かがおそるおそる男性に「カンスケ」と声をかけても、まるで反応をしない。ただ、笑い声はそのうち慟哭と区別がつかないものになっていった。
部屋に置いたままだった荷物の回収ついでに靴下を取り換えた。
穴が開いていたし、足の裏には小さな傷がいくつかできていたから簡単に手当てもした。干していたパンツももちろん忘れない。まだ生乾きだったけど。
その間に市井さんは通信機で本部へと連絡を済ませている。スマホほど便利ではなく、本部とだけ通じるものだ。
来る時に寄ったお蕎麦屋さんがある町へ車で向かう途中、鐘守さんを乗せた馬車を追い抜いた。
もたついてたつもりもないけど、特に急いだわけでもないのに。やっぱり車は速い。というか向こうも寄せてくれてはいたけど、追い抜く時は路肩から落ちるかとドキドキした。車はまだ一般的じゃないから、道路だって広くない。
「俺は上手いっつっただろうがよ」
それと! これとは! 違うんですよ話が! 絶対傾きかけてたじゃないですか車体が!
ドアハンドルにしがみついたまま、シートからずり落ちそうになったお尻の位置を直した。前世とちがってシートベルトないんだもの。ケムはハンドルに膝をかけて逆さにぶら下がっている。
本部から派遣されてくるというその道の熟練者は、鐘守さんの入院先の病院に直接向かう手筈になっているらしい。というか、トミエさんのことを市井さんは鐘守さんに教えていなかったし、どうして先に鐘守さんのところに行くんだろうか。そもそも何しに? 熟練って市井さん以上にってこと? それが不思議で、片手ハンドルで鼻歌まじりの市井さんに尋ねてみた。
「魔水石を回収しに山へ行くのは魔道具開発班だから異常現象対策部だけどな。じじぃんとこ行くのは検察部だ」
「けんさつぶ」
「魔水石は国が管理してるっつったろ? 採掘した魔水石はすべて国が買い取るし、採掘量も報告する義務があんだよ。そういう契約だ」
「はい。そう習いました」
「つまり鐘守の経済状態は国が把握できるわけよ。ところがここ数年報告される採掘量はじわじわと減ってるのに、羽振りがいいのは変わんねぇどころか、孫にかける金も孫本人の散財も増える一方だ」
「はあ」
確かにトミエさんの衣装は一財産と言われても納得できる豪華さではあったけど。そんなに?
「じじぃが遠出させてなかったらしいが、こっちの町では男何人も引き連れて派手に遊んでたらしいからな。そりゃ目立つ。ああ、ゆうべ頭につけてた飾りひとつで、そうだなぁ、一般人の年収分くらいにはなるだろうよ」
ゆうべ……? 夜這いに来た時って髪飾りなんてつけていただろうか。ひらひらのネグリジェしか記憶に残っていない。
「……宿舎の食堂の予算一か月分ぐらいか」
「え⁉」
一か月分⁉ 食堂なんて特殊班だけじゃなくて本部全員の三食分賄ってるのに⁉ しかも体が大きな軍人さんばかり! それをひらひらネグリジェより目に留まらない飾りで一か月分⁉ 一財産どころか二財産三財産あるのでは⁉
「採掘量が減ってきてるところにそれよ。ちょろまかしてんじゃねぇかってなんだろ。だけど鐘守は軍内部に縁戚がそこそこいるから下手に動けない」
「あれ? でも地蔵のことで呼ばれたって」
「偉いさんたちもちょうどいいと思ったわけよ。俺が行けば孫の縁談に目もくらむだろうしってな。で、ご期待通りに役目を果たした俺はこのまま休日を楽しめるわけ」
「えーっと、つまりそれが本当のお役目ってことで、あれ? でも」
「あったろ。地蔵の中身」
「ああ! え、じゃ熟練って」
「尋問」
「わー……」
ひどい。この人ひどい。