4 タブレットと私
「これは部下ですよ。昼にもそう紹介したはずですが」
市井さんはきれいな所作で吸い物の椀に口をつけてから、一呼吸おいてそう言った。
…………うん?
「ええ、ええ、そうでしょうとも」
訳知り顔で返す鐘守さんに、市井さんは舌打ちを我慢しているような顔をして……妾って私のこと⁉
箸でつまんでいた黒豆が一粒逃げて、ケムが両手でキャッチした。
平木の家を出るときに母も似たようなことを言っていたけれど、確かに風潮としてお妾さんは割と許容されているというかさほど非難されるような存在じゃない。ちゃんと養える器量があればそれは汚点とはならない的なそういう感じだ。正妻はでんと構えているのが美徳みたいな空気もある。最初それに気がついたときは前世の価値観を持ち出したところで何の意味もないとすでに学んでいたから、少しドン引きしただけだ。でもそれはそれこれはこれで、いざ自分がそういう立場だとみられることは愉快なものじゃない。しかも市井さんまだ独身なのに。
というか、だから部屋が最初ひとつだったのか。でももう一部屋頼んだのにまだ勘違いして、その上唯一の女孫にあてがおうとするとか意味が分からない。市井さんがエリートだからだろうか。
お風呂をいただいて、ついでにパンツも洗ってひと眠りした深夜、隣の部屋へ市井さんを訪ねた。
大きなお屋敷の廊下はやたらと暗くて長い。隣の部屋じゃなかったらたどり着けなかったと思う。しんとした静けさはぼすぼすと襖をノックする音まで響きそうで、何故だか少しやましいような気持ちになった。
約束の時間通りだったし、ノックの応えもすぐ返ってきたけど、彼の眼は半分しか開いていない。
燃え尽きたみたいにベットの端で足を広げて膝に肘をついている。
宿舎で市井さんを毎朝起こすのも私の仕事で、いつもこんな感じだ。起きられないわけじゃないけどエンジンかかるのに時間がかかるというか。
ベッドサイドチェストに用意されていた水差しから注いだ水を渡すと一気に飲み干された。
「かーっ、しゃ! よし! 起きた!」
ぱんっと両手で頬を叩いて気合を入れた市井さんに、さっと背を向ける。ぽんぽん景気よく着替えだすんだもん。衣擦れの音を見計らって振り返ると、もうすっかり眠気を感じさせない軍服姿だった。じゅうたんに胡坐をかいた彼の隣に正座で座り、枕元に置いていたらしいタブレットを持つ手元をのぞき込む。
「……何も映ってないですね」
「まだ起動させてねぇもん」
思ったより耳元で声がして飛び上がりそうになったのをかろうじてこらえる。そんなに近づいたつもりなかったのに!
きっとにやにやしてるんだろうなとゆっくり背すじを伸ばして身を起こすと、片眉を上げているだけで見下ろす視線とぶつかった。
「で?」
「で?」
「……な・に・が・み・え・た?」
「ふぬっ、や、やめ」
ぴしっと鼻をつままれて左右に揺らされる。鼻水! また鼻水出ちゃう! えっ、えっ? なんだろ。今画面に何も映ってなかったし!
鼻水が出そうなぎりぎりで離された鼻をさすっていると、ため息交じりのひそひそ声がまた耳元で!
「さっき、あの狸親父の腹のあたり気にしてただろうがよ」
「――ああ!」
そういえばそうですね! 大きな声でそんなこと言えませんもんね! でも耳元やめてほしい! ぞわってする!
確かに鐘守さんのおなかのあたりで、緑と紫の縞模様をしたミミズがずぶずぶと泳いでいた。
針で並縫いするように腹肉にもぐっては頭を出してを繰り返すやつ。
昼間に挨拶したときには見かけなかったし、一匹だけだったから憑いたばかりなんだと思う。
前世は人生一回目で、幼い頃は自分に見えるものがほかの人には見えていないこともよくわからなかった。
だから両親や兄に見えるものを教えようとしたこともあったのだ。兄には変なのって突き飛ばされたけど、最初のうちは父や母も困ったような笑顔だったはず。
まだじいちゃんに預けられる前のことで、記憶はすりガラスを通したようにぼやけているし細切れだ。
だけど『ほら、あそこ』と私が指さした人は、しばらくたつと病死してしまう。お盆で遊びにきた親戚や近所のおばあちゃん、公園でよく会う子の母親が亡くなったときにはもう、外に出るのを禁じられていた。
幼い私にはそれらのことを関連付けることができなくて、あの異形が病にとりついているのだと理解したのはずいぶん後になってからだった。
あの異形といってもいつも同じ姿ではない。でもなんとなくわかる。
きっと鐘守さんはもう長くないだろう。
一匹だけとはいえミミズはずいぶんと長くて、恰幅のいいおなかにどこまでも深く潜りこんでいっていた。
「えっと……」
私はこの目を請われて雇ってもらえたのだから、見えたものを伝えるのが筋だし当然のことだ。
市井さんは前世の家族とは違うし、前にこの仕事は人助けってわけじゃないからなとも言っていた。
なのにいぶかし気にのぞき込んでくる市井さんに視線を合わせることができない。
何から話せばいいんだろう。あれはなんなのか。他の妖とどう違うのか。それは確かなことなのか。
市井さんはベッドを背もたれにしたくつろぎ体勢で、タブレットの画面をすいっとなぞる。ケムも画面を滑り降りてそのまま落ちる。
私は見ることしかできなくて、しかもこれまでずっと見えない振りしてきただけだから妖の知識もない。
今はそれなりに勉強しているところだけれど、市井さんたちに見えないような小さな異形たちはそもそも知られてはいなかった。
もしかしたら見える目で導き役をしていたという平木家のご先祖が残した資料はあるのかもしれない。蔵の奥とかに。
でも、みっちり掃除をこなしていた私も知らないわけだからあてにはならないと思う。
つまり私は誰にも見えるどころか知られてもいない、私自身もよくわからないものについて説明をしなくてはならないわけだ。
わかりやすく順序だてて、できれば悪感情を抱かせないように。――市井さんに嫌われることがないように。
「まああの狸親父自身が人的被害はないっつってたからいいんだけどよ」
「あ、そうなんですか」
じゃあいいかと、ほっとした途端に両頬をひっぱられた。
「じゃあいっかじゃねんだよ。とっとと吐け」
「へ、へっと」
今声に出てた⁉ 嘘ぉ⁉
頬をひっぱられながらなんとか答えようとしたと同時に、ぼすぼすと襖が鳴る。
「――市井様。トミエです」
囁くような声に、二人して襖を二度見した。眉間に深いしわを刻んで、お前が出ろとばかりに顎をしゃくられる。
出るのはいいんですけど、まずは頬を離してほしい。