3 南蛮漬けと私
中腹くらいまでしか登らないで下りてきたから、この夜がどんどん早くなっていく季節でもまだ日は落ち切っていない。
それでも茜と金がグラデーションになった光が、屋敷の影を深めはじめていた。
さっき停めたところとは別の幅が広い門を、車はすぅっとくぐりぬける。そりゃあこれだけ立派な屋敷なのだから馬車回しくらいあるだろう。現に立派な馬車が二台停められている。
そこに並べて停めた車から行李を持ち出すときにふと蓋を開けてみたら、にゅるっとケムが出てきたけど確かに隙間なく魔道具が詰め込まれていた。ケムはどうしてそこから出てこれたのってことをよくやっているけれど、そのくせちょくちょく扉に挟まっているのはなぜなんだろうと思う。
蔦模様みたいな装飾が彫り込まれたろうそくや四隅に重しがついた網、太くてずっしりした荒縄が数束と、私が前に使ったビー玉がたくさん。魔力の必要な魔法陣が封じられた小刀も数本入っていたけれど、それ以外のほとんどが起動させるのに魔力を不要とするものだ。
「お前の護身用なんだからお前が持ってないと意味ねぇだろが。次から日課の走り込みはそれ背負ってやれよ。慣れろ」
確かに市井さんとはぐれた場合も想定したら私が自分で身に着けてなきゃいけない。理屈はわかる。だけどそういうのが入ってるって私が知ってないと意味ないんじゃないかな……。
「今言ったろ」
それはそうなんだけどもー!
ていうか、これ総額おいくらになるんだろう。私こんなの背負ってたんだ……怖。
山へ向かう前、ここの主人――鐘守さんに挨拶をしたのは応接室らしきところだった。
畳には分厚いじゅうたんが敷かれ、びかびかに磨かれた猫足のローテーブルとソファが部屋のど真ん中に据えられている部屋だ。そのソファを勧められた市井さんの隣に続いて座ると、そこでやっと私の存在に気付いたかのように鐘守さんはぎょっと目を見開いた。
舐められるなって言われたばかりだったから、背すじを伸ばして軍人っぽくしてみるとすぐに納得の頷きを返してくれたのに。
再び屋敷に戻ってから、まずは荷物を置いてくつろいでくださいと女中が部屋へ案内してくれたのはいいけど、彼女はすぐにそそくさと下がってしまった。この部屋も元は和室なんだろう。家具も洋風だしベッドも据えられていて床は板張りだけれど、壁がきらきらと細かく光る砂壁だ。
「なんで一部屋しか案内されないんでしょう」
「だから舐められるなっつっただろうがよ」
えー……。
前髪をくしゃりとかき上げた市井さんは、横目で私を見下ろして片方の口角だけあげて笑う。
「まあ、どっちにしろ寝かさねぇからいいんじゃねぇの」
「えっ⁉ だって明け方前に動くから早く寝るって!」
私パンツ洗わなきゃいけないのに! いつ洗えばいいの!
「……わーさつきはかわいいなーそうだなーそうだったー。もう一部屋用意させようなー」
「え、どっちですか。寝ないんですか。寝てもいい……あっ、いえ! 早寝ですね! そそそそそれで夜中、夜中に起きっ」
またからかわれているのだと私が気がついたとたん、市井さんはげらげらと笑った。
夜ごはんは畳の広間に呼ばれた。敷居が広間の中央に通っているから、わざわざふすまを外したんだろう。
小鉢や吸い物が、足のついた漆塗りのお膳に並べて出された。ふっかふかの分厚い座布団は正座をしたむこうずねに優しい。
出汁のしみこんださといもの煮物がやさしくねっとりと舌でつぶれた。あー、美味しい。ケムはお膳の飾り彫りに手をかけてぶら下がっているし、市井さんはきれいめモードで鐘守さんの雑談に相槌をうっている。
「あの、どうぞ」
そそそと市井さんの前に膝をついてお膳ごしにとっくりを傾けたのは、鐘守さんの孫娘だと紹介されたトミエさんだ。白いブラウスのゆったり広がる袖口のレースがニジマスの南蛮漬けに飛び込みそうで、はらはらしていたらトミエさんはうつむきがちに横目でこちらを見て小さく笑った。
「いえ、まだ任務が残っておりますからここまでで」
飲みさしのおちょこに手で蓋をして断りを入れた市井さんは、涼やかな笑みを返す。
「あの、でも一度仮眠をとられるのでしょう? もう少しだけ、ね?」
「結構だと言っている。席に戻りなさい」
「――っ」
涼やかさを通り越した冷たさで告げられたトミエさんは、とっくりを傾けたまま固まった。きれいな市井さんの笑顔は、時々妙な凄みを醸し出して怖いんだ。わかる。
人参と青菜ときのこの白和えはお豆腐が多めでふわふわとろとろで、すぅっと香ばしい胡麻の香りが鼻を抜けていく。美味しい。ケムはいつの間にか市井さんのつむじに膝を抱えて座り込んでいた。左右に小さく揺れながらトミエさんを見下ろしているようだ。
「や、やー、さすが若くして市井隊をまとめるだけあって職務に忠実でいらっしゃる! 安心してお任せできるというものですな」
昼にも市井隊といって、特殊班だと訂正されていたのに。確かに班は家ごとでまとまってはいるからそう呼ばれることも多いらしいのだけど。
「特に人的被害は出ていないと聞いていますが、何かご不安な点でも?」
「い、いえいえ、それは言葉のあやといいますか、ええ、本家の伯父に頼んでよかったと。ほれっ下がりなさい」
トミエさんを小さく叱責した鐘守さんは、市井さんがいうところのおえらいさんの甥らしい。昼にそう言っていた。この辺り一帯の地主なわりに腰が低いなっていうのが第一印象だ。不服そうに小さく口をとがらせたトミエさんは、席に戻りつつ私をにらむように一瞥した。私なにもしてないのに。
「まあ、トミエは唯一の女孫でしてな、甘やかしてしまったんですが心根のきれいな娘でして」
こころねがきれい。口の中で復唱してから、ニジマスの南蛮漬けに箸をつけた。硬めに揚がった衣は甘酢が絡んでいて、ほどよい酸味がほろっとほぐれる白身とよく合っている。これも美味しい。ごはんがすすむ。
「どこに嫁いでも立派に家内をおさめられる器がありますから、ええ、妾のひとりふたりに目くじらなど立てやしませんし」
ひょっとしたらこれはお見合いというか、任務とどっちがついでなのかはわからないけどそういうアレなのではと思い至って視線を南蛮漬けから市井さんへと移すと、ものすごくいらっとしてるのがわかった。こっわ。