1 おそばと私
湯気をふわりと顔に浴びると出汁としょうゆのほっとするにおい。
まずはまだつゆがしみていない天ぷらの、さくさくとした歯ごたえとほろりとほどける白身魚を味わった。おいしっ! おいしっ!
念入りにふうふうしてからずずっとすする濃い灰色のそばの風味は、かつお節のそれとあいまって懐かしさが沸き上がった。後からねぎの香りも追って鼻を抜けてくる。今世で初めてのおそば! おいしっ! あっつい! おいしっ!
初めての遠征は魔動車で半日ほどかかる山奥だ。
朝早くに出発して昼時の今、適当な感じで寄ったおそば屋さんは大当たりの美味しさで幸先がいい。
「お前ほんと美味そうに食うよな」
ぞぞぞっと勢いのいい音をたてた市井さんは、はふっとつく息とともに感心なのか呆れなのかわからないことを言う。
え。市井さんのおそば、もう半分なくなってない? 早くない? こんなに熱いのに!?
「慌てなくていいぞー。どうせもうすぐ着くからよ」
「え。だって車で半日って」
もっと遠いと思ってたから、お昼ごはんもかきこめるようにおそばなのかとばかり。
「いや? そりゃ馬車だ。車ならそんなかかんねぇよ。ここ美味いんだよなー。昼飯はここって決めてたわけよ」
適当じゃなかったらしい。市井さんって何気に食道楽なんだろうか。
機嫌よさそうに懐からちっちゃなひょうたんを出したと思ったら、ぱぱっと自分の器の上で振った。
真っ黒なつゆと薄黄色の天ぷらの衣にぱっと真っ赤な粉が散る。
「まさかマイ一味……?」
「要るか? お子様には辛いんじゃねぇの?」
「要ります!」
やっぱり食道楽なんだ。きっと。マイ一味持ち歩くとか!
お高いらしい一味唐辛子は、ぴりっとした辛味でおそばの風味を消さないままアクセントになる。おいしっ。味変!
残り半分の天ぷらの衣が汁に浸りすぎてはがれる前に口へ運んだ。出汁の染みた衣がまろやかにふわっと溶ける。最初とは別の美味しさだ。市井さんは最初にさくさくっと食べきっていた。
「ここはそばもいいが、このなまずが美味い。とびきりだな」
これなまずなの!? 前世でも食べたことない! こんな美味しいんだ……美味しい……。
うっとりしつつもせわしなくおそばをすすっている私の視界の端では、ケムが一切れの厚焼き玉子を枕にして転がっている。市井さんが小皿に取り置いたものだ。普段はひどく雑なのにケムにはこうして欠かさずお供えをしてくれるあたり、律儀なところもあるらしい。
「!?」
ケムが寝返りを打った瞬間に厚焼き玉子が消えたのを、市井さんが二度見する。
たとえケムより大きなまんじゅうがあったとしても、それは今と同じに一瞬で消えてしまう。だからいまだ口がどこにあるのか私にもわからない。
彼はケムが黒い靄に見えると前に言っていたけれど、先日突撃したあの境目の町から帰還した後もずっとちゃんと見えているらしい。確かに毛むくじゃらのちっさいジジィだなって言っていた。だけど他の小さな異形は相変わらず見えてないそうだ。
消えた厚焼き玉子がまだそこにあるかのように凝視している市井さんがおかしくて、鼻からおそばが出るかと思った。
おそば屋さんを出てから三十分ほどで着いた目的地は、こんもりとした葉をざわつかせる森が裾野に広がる山だった。その森をえぐるように拓いた村は住民がみんな同じ一族だと聞いたし、この辺り一帯が今回依頼を出した家の土地なのだろう。
のったり歩む牛に荷車を引かせている老人が、あぜ道の端ぎりぎりに避けて私たちの車を通してくれた。市井さんが徐行しつつすれ違いざまに軽く会釈を送るけど、なぜかそれすら偉そうだ。にじみ出る偉そう感。
広い畑のあちらこちらにちいさめの一軒家が点在していて、それらを見渡すように山側の高い位置に大きな家が建っていた。入母屋造りというのだったか。前世でいえば古民家カフェにでもなりそうな風情だ。瓦屋根が冬の白い日差しをびかびかに照り返している。きっちりと刈り込まれた生け垣の切れ目が門らしくて、車はそこで止められた。いいの? 門ふさいでるけどここに止めていいのかな。市井さんはエンジンを切ったので多分いいんだろう。きゅるると駆動音が細く小さくなっていき、やがて魔力残滓をきらきら散らす魔法陣と一緒にぽすんと消えた。
「ようこそおいでなさいました!」
エンジン音で気がついたのか、門の奥から転がるように駆け出てきたのは全体的に真四角な感じの男性。五十歳過ぎくらいのその人は裾をたくし上げた着物に前掛けを腰に巻いていた。使用人頭だろうか。商家だったら番頭なんだろうけど、ここがどんな家なのかよく知らないし。
「帝国軍第五師団大佐の市井だ。鐘守氏に取次を願おう」
「ええ、ええ、すぐに。お荷物はこちらでしょうか」
「あ」
門の真ん前に横付けした二人乗りの車は、座席部分よりもボンネットのほうがずっと大きい。助手席から降りた私がぐるりと後ろを回った時には、もう男性の手が運転席のドアハンドルに伸びていた。座席の後ろに荷物を置くスペースがあると思ったのだろうけれど。そしてそれは間違いではないのだけど。
「ほれ、お前さんも、もさっとするんでな――ったああ!」
苛立たしそうに私を急かした男性の手は、バチンと派手な音とともに弾かれたように高くあがった。
痛かったらしい手を反対の手でさすりながら、私とドアハンドルを交互に見比べる。私のせいじゃない! どっちかといえばその後ろですごくいい笑顔してる市井さんのせい!
「挨拶を終えたらすぐに下見に出るから荷物はそのままでいい。車が入れるところまでは車で行く。戻るまでに停めておく場所を用意しておいてくれ。部外者が触れられないよう仕掛けがされているんでな。多少離れたところでもかまわない」
「あ、へ、へい」
男性が振り向くと同時にすとんと表情を消して尊大に告げた市井さんが、ちょいちょいと指で私を呼んだ。それから脇に並んだ私の襟元を軽くつまんで。
「見ての通りこの制服は軍属を示すものだ。つまりこの者もここの当主に招かれているのだとわきまえてくれ」
返事も待たずにずかずかと門を抜ける市井さんの後を追う。
お金持ちのお屋敷にふさわしく門から玄関までは曲がりくねった小道が続いていて、ケムは飛び石から飛び石へと立ち幅跳びを繰り返して先頭を切っていた。敷き詰められた玉石がじゃりじゃり音を立てる。
「舐められてんじゃねぇよ。俺を見習え」
えー……。とりあえず顎を上げて歩いてみたら飛び石の段差につまづいた。
おひさしぶりです。豆田です。
連載を再開します。
今回は3話同時更新で、次回更新は来週月曜日の朝6時くらい! たぶん!
週一で更新続けますので、どうぞまたおつきあいくださいませ。