21 討伐と私
叩きつけたビー玉は、魔力を必要としない魔道具だ。これも怖くてお値段を聞けなかったやつ。
普通の魔道具は使用者の魔力で起動するが、機構が複雑であればあるほど、起動するのに必要な魔力量が大きくなる。妖討伐に使うような攻撃魔法だったり結界だったりは当然、市場に出回らない複雑さだ。そもそも一般人には使いこなせない。
このビー玉は、市井さんが軽く使い捨てた刀と同じ結界魔法陣を起動魔力とともに封じてあった。
展開された銀色の魔法陣は、文字の刻まれた小さな歯車がカチカチかみ合う帯で形成されている。
私たちと黒い無数の腕を隔てた壁となったそれの効果時間は十秒。
いざというときはこれを使って一人で先に逃げろと持たされていたのだけど、十秒でどこまで逃げられるというのか。無理。
私を背に隠した市井さんはすらりと抜刀した。腰にあった長いやつと、どっから出て来たかわからない小刀だ。
「さつきぃ! よくやった! そこでちっちゃくなって待て!」
「は、はいっえっ、ちっ、ちっちゃ、ちっちゃく!?」
眩く輝いていた歯車は、砂のような残滓をまき散らしながら刻々と光を失っていく。
そこってどこだと足踏みをして、結局その場にうずくまった。
頭も腕で抱え込みたかったけれど、それだと何が起きてるか見ることができない。
見えないの怖いって思って、だから目が必要なんだとやっと飲み込めた。
「かけまくもかしこき――」
市井さんのつぶやきは、抑揚があるのに早口で何を言っているのかわからないけどラップっぽい。呪文みたいなもんだと教えられた。
すらり鋭く翳された刀身は、呪文に呼応するような脈動で赤い光を放ち始める。
濃く鮮やかに明るい赤は暁の色。朝日に照らされる雲が黄色橙からバラ色にたなびくように、周囲の空気を染めていく。
「ひょえっ」
小刀が鼻先の地面に刺さり、そこを中心として光がぐるぐるとドーム状に私を囲んだ。
空いた左手で市井さんがビー玉をいくつもそこらにばらまくと、どれもが大小の歯車で帯を吹きあげて妖の腕に巻き付いていく。
「――かみたちともにきこしめせとかしこみかしこみまおすっ、うっらぁああ!」
市井さんが大きく踏み出したのと、最初の魔法陣が消えたのは同時だった。早口すごい!
「くそが! 恥かかせやがって! っざっけんなよ!」
わあ、罵倒語ごとに振るう一閃で勢いよく伸びてくる腕を次々斬り捨てていってる。
「うぜぇ! 失せろ! 散れ!」
振り下ろし、薙いで、斬り上げて。
襲いかかる腕は刀に音もなく裂かれて、赤い光に呑まれ、溶けて、消えていく。
「あ"あ"あ"あ"っ! やだー! おがあざん!」
子どもは尻もちをついたまま、火がついたように泣きわめきはじめた。
「うっせぇ! やったらやられんだよ!」
立蔀の向こう側から伸びてくる腕は、途絶えることがない。
「しつっけぇ! 能無しが! やり口が! きったねぇんだわ!」
市井さんの立ち位置はさほど動いていない。
取り込もうとするかのような腕の群れが、彼を前に進ませないのだろう。
踏み出し、引いて、しゃがんで跳んでと、その素早く切れのある動きは踊っているようにも見える。口汚い罵声さえなければ。
どうしよう。どう考えたって本体はあの立蔀の向こう側にある。
市井さんが懐から拳銃を取り出した。右手で刀を振るいながら、左手で構えたそれが立蔀に向く。
銃を握る拳を中心に、光が渦を巻いては散っていく。
しゃんしゃんきぃんと甲高い金属が擦れるような音を立てて、光弾が立蔀に吸い込まれていった。
二発、三発、腕はそのたびに熱いものを触ったみたいにびくりと引くけれど、またすぐに襲ってくる。
何か、何か見えないだろうか。
立蔀は格子に見えても裏に板が張りついているから、向こう側が透けたりはしないけれど。
私はこの目を請われたのだから、何か。
――ケムが立蔀の下の辺りにある格子に頭をつっこんで、尻だけをこちらに向けていた。ぶらぶらと揺れる両足。多分絶対そこじゃない。
「やめてぇえ! おがあざぁん!」
しゃくりあげながら泣いて嗄れた声をあげる子へ、じりじりと地面を這って伸びていく影。
あの子は確かに人間だと思ったし、その姿は母親を請うただの幼子だ。
もうあの白い腕のような人間の形ではないものを、それでも母とすがろうと――。
「市井さん! あの! あそこ! ほら!」
「あ"あ"っ!? ――っ」
ぐるりと振り向きざまに黒い腕を数本薙ぎ払った市井さんは、あの子がつかもうと伸ばす指先すれすれの地面に、光弾をみっつ撃ち込んだ。
けたたましく響き渡った音は、前世の電車がホームへ滑り込んだときのそれによく似ていた。
すでに星もない闇だけになった空に跳ね返されるように幾度もこだまして、余韻を残しながら細く薄れていく。
「っぐ、えっ、お、おがあ、さ」
小さな指が、乾いた土に爪痕をきざむ。
数本の浅い溝から、じわりとにじみ出る白い影。
ぱらぱらと軽い何かが頬にかすめる感触に、空をもう一度見上げたら乾いた絵の具が零れ落ちるように闇が剥げはじめていた。
私はいつの間にか立ち上がっていて、何をどうしたいと思ったわけでもないのに足が一歩踏み出そうとして。
「あきらめろ」
汗だくで息を荒げた市井さんに肩を引き寄せられた。
にじみ出た白い影は、真っ白な芽が息吹いて伸びて蔓となり、するすると女の腕になっていく。
幾本も伸びたそれは、やわくやさしく四つん這いになった子どもを抱きしめるように絡みつく。
「おか、さ」
安堵の笑みを浮かべた子は最後にひとつしゃくりあげ、そのまますとんと地面に吸い込まれて消えた。
次は多分日曜日!