1 毛むくじゃらと私
3万字予定の短編を見切り発車します。今日だけ4話一気に投下します!ざまあはないです!
生まれ落ちたその瞬間から私は私だった。
何を言っているのかわからないかもしれないけれど、その瞬間は私だってわからなかった。
確か、マジで? って思った。
私は十八歳を前にした高校生でスマホを握りしめてたのに、その記憶はそこでぶつりと途切れている。
次の瞬間に真っ白な光でぼやけた視界が広がり、わんわんと響く赤ん坊の泣き声が自分から出てると気がついて、マジで? ってまた思った。
そしてまた今、脳内に浮かんでるのは「マジで?」だ。
「――ずっとお慕いしておりました。姉さまの許嫁だとわかってるのに私」
秋と冬のはざまの季節。
赤と黄色の楓の葉が敷き詰められた裏庭で寄り添う男女。
両者の間に隙間はあれど『男女七歳にして席を同じゅうせず』な文化では、若干眉をひそめられるような距離だ。
「さつきさんのことは……どうしてもそういう対象に見えなくて申し訳ないと思っていた」
マジでー。それならそうと早く言って欲しかったー。
見つめ合って照れくさそうに頬染める顔に申し訳なさなんて影も形もないじゃないですかーもー。
私、平木さつきは裏庭と洗い場をつなぐ暗がりから、あかぎれだらけの指で冷たく濡れたパンツを握りしめて、一つ下の妹と自分の許嫁が微笑みあう姿を見つめてた。
生まれたてでは目もよく見えないものだと聞いたことはあった気がする。体感するとは思わなかった。
世話をしてくれる人たちの容貌がわかるようになってきてから、その服装や髪型がなんだか古めかしいというか一周回っておしゃれかもくらいの感じであることに気がついた。妙に頭が大きく見える髪型にレトロなワンピースであったり、着物にふりふりのエプロンであったり。
流行は巡ると言うし、私が死んでる間にこうなったのかもしれないと思っていたけれど、それは間違いだとわかったのが三歳になる少し前か。
体が乳幼児であったとはいえ気づくのが遅いかもしれないが、それまでは部屋の外に出ることもほとんどなかったのだから仕方がないだろう。
その頃にはもう自分が生まれ変わったのだと納得していたけれど、さすがに時代を遡っているというのは少しばかり飲み込むのに時間がかかった。
ここは大正時代あたりの日本なのだとその時はそう飲み込んだのだけど、それは違うのだとすぐにわかることとなる。
洗濯場に戻って、固く絞られたパンツというかズロースをかごに入れなおした。洋装用の下着はこれと洗い替えの一枚きりだ。自然とヘビーローテーションすることになってヘロヘロとはいえ、他は腰巻しかない。それは生まれ変わる前の時代を知っている私には少し心細いものだから。
井戸用手押しポンプで洗い桶をすすいで、そのままポンプ下の台に立てかける。冷たい水しぶきが向こうずねを切りつけるけれどもう慣れた。
毛むくじゃらが排水溝を流れる水に乗っていく。
今日の洗濯はこれでおしまい。服なんてめったに洗うことはない。生地が傷むし。下着だけが入った籠を両手で抱える。
私の部屋に日は当たらないけれど、明後日くらいには乾く。やっぱりもう一枚パンツが欲しいなと毎日思うけど仕方がない。
洋服や着物は妹のおさがりがなんとか回ってくるけれど、下着ばかりはそうもいかないし。いったとして下着のおさがりなんて嫌だ。
毛むくじゃらが庭の隅にある下水口の鉄格子にひっかかってから、もそもそと立ち上がってこっちに駆けてくる。
勝手口から部屋に戻ろうとして、もう一度裏庭のほうに目を向けてしまった。
あの二人はまだ雰囲気たっぷりに見つめ合っているだろうか。
見たくもないけど。つい。ここからは見えやしないのがわかってるけど。つい。
「……っつうー!」
そんなよそ見をしたからか、勝手口横で鎮座する全自動魔動力洗濯機に腰骨をしたたかにぶつけた。
思わずしゃがみ込むと、追いついてきた毛むくじゃらが籠に飛び込んで高々とパンツを捧げ持つ。さっきこうしてパンツを奪っていったこいつを追いかけてあんな場面に出くわしたんだ。いらっとして奪い返した。
こいつがなんなのか私も知らない。誰からも見えていないし私も見えるだけ。意思の疎通だってできない。
今だってパンツが何故消えたのかわからないかのように、籠の底にあるシュミーズの下を覗き込んでいる。
掌にすっぽりと収まるサイズのこいつは全身黒と茶色のさび模様で、不揃いな毛並みは艶もなく好き勝手な方向に伸びていて、お世辞にもかわいいとは言えない。細い手足とはアンバランスに突き出た腹で足元がよく見えないのかしょっちゅう転ぶし、その様子は酔っぱらったちっちゃいジジィだ。
もたれかかった洗濯機がじわじわと体温を奪っていく。
高度成長期の三種の神器と高校の授業で習ったこれが、この大正風の世界に何故あるのかと言えばそれはもうここが日本によく似ているけどそうじゃない世界だからだ。電気ではなく、魔力で動く洗濯機。
ここは主なエネルギー源が魔力な世界。誰もが魔力を持っているから、街並みの背は低くて空は広いのに電線がない世界。
だけど私がこの洗濯機を使うことはできない。誰もが持っている魔力を私は持っていないし、だから私のそばにいるのはこの毛むくじゃらだけ。
「それならそうと優しくなんてしてほしくなかったなぁ」
わかってる。優しかったわけじゃない。彼は礼儀正しかっただけ。
家同士で決められた許嫁と顔を合わせたらするべき挨拶をしていただけ。
毛むくじゃらは私の声など聞いちゃいない。籠のふちに腰かけて足をぶらぶらさせているだけ。
洗濯機の鉄の肌は体温をどんどん奪っていくし、垂れてきた鼻水をすすった。
大丈夫。なんてことはないことだ。じいちゃん、私は負けないよ。