バレンタイン
最後の音がなってから数秒間、俺の部屋にはピアノの音の余韻が響き続けた。数分の短い時間だったが彼女の演奏は俺の心を震わせた。指運びが良いのか何なのか分からない。だがその曲を知らないにも関わらず俺の耳は最後まで飽きることがなかった。
「ありがとう。最高の演奏だったよ」
深夜、俺は家を出ていた。彼女は俺の与えた部屋で寝ている。
「はい、はい、その通りです。はい」
俺はとある暴力団に属しているのだ。立場としては低いわけではない。少なくとも中堅、幹部辺りの人間であってもおかしくないと自負している。俺はその立場を利用して、上司にひとつ頼み込む。
「はい、なので彼女が殺した二人の始末の方を・・・、はい、ありがとうございます。それと万が一の時は俺が、はい、すみません。本当にお願いします」
俺は決めた。俺は守りきることを決意した。彼女の夢は有名なピアニストになること。彼女の演奏には人の心を揺さぶる力がある。その手が汚れてしまっているのだとしたら、そのせいでピアノを弾きたくないと言うのならば、その罪は全部俺が被る。そうすれば彼女の手は汚れていないのと同じだ。だから俺は、今日このとき心に決める。一人のファンとして俺の全てを彼女に捧げると。一人のファンとして必ず彼女を守りきると。
それから4ヶ月が経った。俺と彼女が出会った翌日には事件のが明るみになった。ニュースでは和倉高校の生徒三人が行方不明になったと。内二人は死体で発見されたと翌日、次の日にはもう一人の子も殺害されている可能性があると。そんな世の中を露知らず最近の彼女は徐々に街へ出始めていた。もっともパーカーのフードを被せたままではあるが、外出しているときの彼女はとても楽しそうだ。そして今日は2月14日。世間の言うバレンタインデーだ。去年までは俺にとって全く関係のない行事だったのだか・・・
「今日は、家を空けておいてください」
一応、返事をする。一応だぞ。
「え~っと~、なんでだ?」
すると意外にもあっさりと彼女は答えてくれた。
「今日、バレンタインじゃないですか。手作りチョコを作りたいんですけど流石に見られるのは恥ずかしくて」
そうか。であれば仕方がないな。
「こないだ大量にチョコレートを買い込んでたのはそのためか。それで?俺はいつ頃帰ってくれば良いんだ?」
「夕方くらいになると思います。そのときになったらまた連絡をしますので」
それに俺は承諾をした。にしてもチョコを貰うなんて初めてだな。
「さてと、どこで暇を潰そうかなぁ」
そう呟いて俺は家を出た。だが俺は知らなかった。甘く酸っぱくほろ苦いバレンタインが、甘さも酸っぱさもほろ苦さも、なにも感じることのない、虚無の一日になることを・・・