Ep.8 夢の起発点
文化祭から3日が経ち、校内のムードはすっかり元通りとなった。夕方のワイドショーでは全国の紅葉名所の様子が放送されはじめ、矢代高校の裏にある山の木々も黄色くなり始めていた。
「ねえ、ちーちゃん、今日の放課後ちょっと寄り道しない?」
「え、良いけど、どこ行くの?」
「学校の裏にある新宮領公園!」
「え、そんな公園あるんだ?行ってみたいかも。」
学校が終わり、校門を出て駅とは反対に歩いていくと、そこは知波にとっては初めての世界だった。
「私、こっち来たことない。こんなところに公園なんてあるの?」
「うん、この階段を登ると遊歩道があって、そこに公園もあるんだ!」
「そうなんだ、よく知ってるね。何度か来てるの?」
「2年になってからはあまり来てないけど、去年はよく来てたよ。」
階段を登り、ベンチを見つけ座った。人通りはそんなに多い訳ではなく、一時的な現実逃避には丁度いいところである。辺りには葉を紅くさせた木々が涼しい風に吹かれていた。秋の虫たちの声もその風に乗って流れてくる。
「何の音だろう?カンカンカンって…」
「うーん、ん。こっちの方から聴こえる。」
「草むらだから虫かな?」
「あー、この子だ。」
そう言うと知波は、右手の人差し指にに小さな黒い虫を乗せてきた。
「イヤアァッッ!ちーちゃん何してるの!?」
「えー?なんで?可愛いじゃん。」
「どこがっ!?気持ち悪い!」
「そんなことないよ。ほら、この子はこのお尻のところがぷるぷるしてる。」
「てか、それ何の虫?」
「この子?カネタタキだよ。」
「カネタタキ?」
「そうそう。鳴き声が鐘を叩くみたいな『カンカンカン』って音だからそう名付けられたんだ。まあ正確には鳴き声じゃなくて、鈴虫みたいに体を動かしてお尻から出してるんだけどね。」
「へぇー、全然分かんないけど。詳しいんだね。」
「うん。小さい頃、お父さんと一緒に虫探しに行ってたんだ。この時期はコオロギとかマツムシ、もちろんカネタタキもよく採ってた!」
「へ、へぇ…」
若干引き気味に相槌を打つ涼々夏は、話題を変えるように知波に訊いた。
「ねえ、ちーちゃん、私の痣のことってどう思ってる?」
「え?痣って?」
「この左手の…」
「え、箪笥にぶつけたんじゃなかったっけ?」
「本当にそう思ってる?」
「違うの?」
「ちーちゃんが私の嘘に気付かないはずがないよ。絶対あり得ない。」
「え、じゃあその痣は一体…」
そのとき、涼々夏のスマホが鳴った。
「あ、要さんから電話だ。」
「え?どうしたんだろう?」
「もしもし、塚本です。」
『あ、やほやほー。今ちょっと大丈夫?』
「はい、大丈夫ですよ。」
『結論から言うとね、私、K.K.DiARY脱退することになったんだ。』
「え?なんでですか?」
『うん、まあ事情はいろいろあるんだけど、メンバー内の亀裂とかそういうのではないんだ。』
「あ、良かった…あ、あの、今って興恵大学にいるんですか?」
『うん、そうよー。正確には大学のすぐそばにある喫茶店だけどー。』
「あの、今から行って会えたりしますか?」
『え?ああー、まあ大丈夫。知波ちゃんも一緒?』
「はい、一緒に行きます!」
『おけおけ。何分くらいに着きそう?』
「30分くらいで着くと思います。」
『じゃあ津川駅の改札出たところで待ってるよー。』
走って駅に向かい、急いで電車に乗る。2か月ぶりの再会に胸を弾ませる反面、グループを脱退するという連絡に驚きを隠せず、知波は家で飲むために昼休みの購買で買った希釈用のカルピスを飲んで噎せてしまった。
津川駅に着くと、改札の外に要の姿があった。
「要さーん!」
「やあ~、久しぶり~!」
「お久しぶりです!元気そうで何よりです!」
「実を言うと夏休み明けに熱中症で倒れて救急搬送されたんだけどねー。とりあえず店でりーおんが待っててくれてるから行こっか。」
要に連れられ、擦りガラスの扉を開けた。鰻の寝床とまでは言えないが奥行きのある造りで、木造の空間に懐メロが流れている。奥から3番目のテーブルのところに梨央那が座っていた。
「やあ~、お久し~。」
「お久しぶりです!莉央那さんも元気そうで!」
「うん、元気~。要と違って私は強いからね~。」
「ねえー、間違ってないけどさ。あ、そうそう、何か飲むー?」
「うーん、ホットコーヒーにしようかな。」
「私はレモンティーにします。」
「おっけー。あれ、寺田さん奥行っちゃったかな、ちょっと呼んでくるー。」
注文をし終え戻ってきた要は、椅子に座りゆっくり話し始めた。
「うーんとね、私とりーおんはね、とりあえず今月いっぱいでK.K.DiARYとしての活動を終える予定なの。でもユニドル活動を辞めるわけではなくて、いくつかの大学のユニドルメンバーと新たなグループを作って大会に出場するって形になったんだ。」
「え、それって…」
「精鋭部隊のインカレってこと…?」
「そそ、そんな感じ。興恵大学のK.K.DIARYと、春上大学のSpring-Up、武笠大学のMu-I、錫村大学のLa-Mf、張照学院大学のespowor1(エスポワール)、天平台理工大学のTEMPERORsの6大学から15人が集められて、これまで通りユニドルの大会に出るんだ。」
「それじゃ、学園祭とかでK.K.DiARYのステージがあっても、もう出ないんですか?」
「うん、そういうことになるね。って言っても、来週の学園祭がK.K.DiARYとしてのラストステージの予定なんだけどね。それ以降はステージはもちろん、体験会にも出ないし、そもそもユニドル活動のために天平台に行くから、大学にいる時間も今よりは少なくなるかも…」
その言葉は、知波たちの心を大きく揺さぶった。天平台は興恵大から車で10分ほどのところではあるが、津川駅から電車はおろかバスも通っておらず、財力も時間も限りある知波たちにとっては、簡単に会うことができなくなってしまう。
そんな知波たちの少し落ち込んだ顔に気付いた要は、付け加えるように話しだした。
「まあでも、ここには来ないってわけじゃないし、会いたいって言ってくれればいつでも飛んで来るから!平日とかはほぼ毎日練習あるけど、それ以外は無いから時間はいくらでも作れる!だからそんなに落ち込まないで!」
その言葉に安心した知波は、思いきって切り出した。
「あの、めっちゃ突然なんですけど、要さんって今好きな人とかいるんですか?」
「えー、本当に突然だね。好きな人かぁ…うーん、いないかなぁ、今は。」
「え、以前はいたんですか?」
「うん。涼々夏ちゃんとは話したよね、2年前に別れたって。」
「はい、確か相手の浮気だって…」
「そそ。ちょうど今くらいの時期だったかなぁ。」
「それからはいないんですか?」
「いないねぇ。ユニドルの活動の方が圧倒的に楽しすぎて、好きな人とか全然いないや。強いて言うならりーおんかな。」
「んー。急に私の名前出てビックリしたぁ。」
「実際、りーおんとシンメになることが多いから必然と一緒にいる時間は増えるし、相棒とかって存在を越えて一種の擬似的恋愛してる。」
「なるほど…」
「逆に2人は?高校だって共学でしょ?馬が合う男の子とかいないのー?」
「うーん…いないかも…」
「あんまり男子と話さないんですよね…」
「あー、そうなの?大学生はバイトとか始めると没頭しちゃうし、高校生のうちにいい人見つけておくと良いかもよ~。」
涼々夏が要に恋をしていることに気付いていた知波は、涼々夏の背中を押すつもりで訊いたつもりが、いつしかシンプルに恋愛相談になっていた。
「そういえばさ、2人は今って2年生でしょ?そろそろ行きたい大学とか決まってきた?」
「まだそんなには…まだOCに行ったのが興恵大学と聖沢大学の法科しか行ってなくて。」
「え、ちょっと待って、聖大法科って泣く子も黙る難関大じゃん!私の中学生時代の友達のお姉さんが矢代高校出身で聖大法科を受けたけど落ちちゃったって言ってたし、私なんて経済学科さえ受験料の無駄って言われたくらいだもん。」
「でも、ちーちゃん学年でいつもトップなんです。」
「え、矢代の学年1位?それなら話変わってくるぞ~?実質、県内1位だからね。」
──今更感はあるが、この物語に登場する地名や学校名は全て実在しない(であろう)フィクションである。矢代高校が県内随一の進学校でありながら聖沢大学の法科への進学が難しいとされる所以は、この大学が県内唯一の国立大であり、かつ法学部の募集人数が法律学科と政治経済学科の2つを合わせて僅か35名しかないという点である。おそらくこんなに鬼のような大学は日本には無い。それでも司法試験受験者の合格率は20年連続で100%を叩き出しており、実在すれば間違いなく東京大学をも超える「知力の壁」であろう──
「ちーちゃんは法学部目指してるんだ?」
「うん。私ね、悪いことをした人がしっかりと罰を受ける、そんな社会を作りたくて、検事か裁判官になりたいんだ。」
「へぇー、すごいじゃん。」
「弁護士にはならないの?」
「ううん、そういうのには興味ないんだ。弁護士になったら罪を受けるべき人間の刑を軽くしちゃうかもしれないし、私が被告を信じても相手は私を信じるとは限らないし。」
「そっかぁ。まあ裁判官も、確か最高裁判所の歴代長官に女性ってまだいなかったよね。知波ちゃんが歴史を変えたりするのかな。」
「うーん、それもあまり興味ないんです。女性だからって理由で無闇に登用されるくらいなら、男女問わず長官になるべき人が長官になるのが本当の男女平等だと思っているので…」
「なかなか深いなぁ。」
「うちなんかよりちゃんとしてる…」
「そう?あんまり理解されないんだけどね…」
「確かに、女性の社会的な立場を高めようってしてる精神からは逆行している気もするけど、でも私はその考え好きだな。女性初のってちやほやされるのも場合によっては差別の一部だと思うし、知波ちゃんの考えに賛成だなぁ。」
「そういう要さんや莉央那さんは、なんで興恵大学を選んだんですか?」
「うーん、私は経済学を学びたくてここに来たんだけど、高校の先生がオススメしてくれたんだよね。もちろんその頃はユニドルなんて知らなかったし、大学に入学してから入ろうって決めたの。」
「そうなんですか?てっきりアイドル好きだから入ったんだと思ってました!」
「まあアイドル好きなのもあったけど、やっぱり最優先は学業だからね~。りーおんはどちらかと言えばユニドル出たくて来たんだよね?」
「そうねぇ、そうなるかな。私はそれこそアイドルめっちゃ好きだし、高校生のときに興恵大のオープンキャンパスでK.K.DiARYのライブを観て、それでここに入りたいって思ったんだ。私は商学部なんだけど別に学部とかこだわり無かったし、とにかくこの活動に懸けようって思ってるんだ。」
「そうなんですね!それじゃ梨央那さんは新しいグループに呼ばれたのは嬉しいんじゃないですか?」
「うん、まあ今の仲間と活動できなくなるのは悲しいけど、かなりんと一緒だから楽しみでもある!」
「私、お2人が新天地に行っても絶対に応援します!」
「うちも!」
「2人ともありがとうー!まあ向こうで使い物にならなかったらこっちに戻ってくるし、もし2人が興恵大に来たら遊びに来るよ。」
そんな話をして、気が付けば6時を過ぎていた。ボブ・ディランが流れる店内で、知波は黄昏色の冷めた紅茶を飲み干した。
「津川まで来てもらった上にこんな時間までごめんね。」
「いえいえ!たくさんお話しできて本当に嬉しいです!」
「来週の学園祭って私たちも来ていいんですか?」
「大丈夫よ~。あ、ウェルカムカード持ってるよね?」
「ウェルカムカード?」
「あれ、知らない?ここの在学生の家族や友達がOCとか学園祭に来たとき、このウェルカムカードっていうやつを見せるといろいろ特典があるんだよ。例えば、普段から大学の敷地内って誰でも通り抜けできて、学食も誰でも入って食事できるんだけど、興恵の学生は50円引きなのね。でもウェルカムカード持ってると、興恵の学生じゃなくても50円引きで食べられるの。」
「そんなのあったんですか?日奈野さんそんなこと言ってなかった…」
「あ、でもあれだよ?興恵の学生と一緒に購入すれば無条件で知人ってことになるから、食券購入のときに学生証スキャンしてるだろうから問題ないよ。」
「あぁー、そういうことかぁ。」
「それじゃ持ってないってことか、はいこれあげる!」
「ありがとうございます!」
「これ来週の学園祭に持ってくると、確か大学オリジナルのハンドタオル貰えるよ。超絶ダサいやつだけど(笑)」
「あ、それは貰わないとですね!」
「すずちゃん、相変わらず怖いもの知らずだ~。」
津川駅まで見送りに来た要たちと別れ、2人は帰宅ラッシュに重なり大混雑の電車に乗った。
「めっちゃ混んでる~。あんなに話し込んじゃうとは思ってなかった。」
「ね、楽しかったけど、明日が学校休みで良かった…お母さんには帰り遅くなるって伝えておいたけど、早く帰らなきゃだね。」
すると、涼々夏は俯きながら、
「私…今日は家に帰れない…というか帰りたくない…」
と呟いた。
「え?どうしたの?もしかして家の鍵忘れちゃった?」
そう尋ねても、涼々夏は声を出さずに首を横に振るだけだった。
知波が降りる杵前に到着すると、涼々夏も一緒に電車を降り、乗り換えの通路の端で知波にスマホの画面を見せた。そこに映っていたのは、涼々夏の母親が送ったLINEだった。
『涼々夏、昨日のこと相談しに行ったら、今日の午後には捜査員が家に来るんだって。ただ時間によっては涼々夏が帰ってくる頃だから、学校かどこかで時間でも潰してきな。細かいこと分かったらまた連絡する。』
『涼々夏、このあと5時から捜査員が来るみたい。これまでの動画は見せてあるから、たぶんその時に連行してもらえるんじゃないかな。でもどのタイミングで連れていってくれるか分からないし、遅くまでバタバタしちゃうと思うから、今日は家には戻らないで。警察署で泊めさせてもらえるか訊いてみるから。』
「…あんまり詳しくは教えられないんだけど、こういいことなんだ。それでね、ダメかもしれないけどお願いしたいことがあって…ちーちゃん?」
その知波の手にはスマホがあった。そうかと思えば、誰かに電話をし始めた。
「もしもし、お母さん?あのさ、ちょっと訊きたいんだけど、うちにすずちゃんを泊めさせてあげることってできないかな?家でいろいろ大変なことがあったみたいで、家に帰れないらしいんだ。…うん。…うん。…分かった、ありがとう。いま杵前だから、20分くらいで着くと思う。…はーい。」
「ちーちゃん、今のって…」
「うん。うちにおいでよ。警察署で独りで寝るなんて寂しすぎるし、私すずちゃんと一緒に寝てみたいし。」
「ねえ、最後のどういう意味よ~なんか付き合ってるみたいじゃん。」
「ふふ、まあまあ。とにかくおいで?」
「うん、ありがとう。お母さんに電話だけしてくるね。」
小走りで少し離れたところに行ったと思えば、1分ほどで戻ってきた。
「確認したら良いよって。なので今日一晩泊めさせてもうね。本当にありがとう。」
2人揃って桐家線に乗り込むと、外はすっかり暗くなっていた。ぼんやり外を眺めていた涼々夏は、知波の家に当然ながら自分の着替えがないことに気付き、焦り始めていた。しかし知波はその様子に目もくれずに話しかけた。
「すずちゃん、後でいろいろ聞かせてね。さっきの痣のことと、なぜ家に帰れなくなったのか。どうしてこんなことになったのか知りたいし、私も力になりたい。独りで抱え込まないでほしい。」
そう言いながらも、知波の中ではある程度の推測ができていた。痣の正体は親からの暴力、警察の世話になっているということはその一件が法的に動き始めたということなのだろう。それは知波にとっても決して他人事ではなく、かつての自分自身が経験した苦悩を涼々夏には経験してほしくないという強い気持ちを増進させた──