Ep.7 その空に何を想う
迎えた翌日、本来は米倉が担当である古典の授業の時間を使い、野々香が作った脚本の配布及び読み合わせが行われた。演劇の目安時間は40分ということで、台本は30ページを越える超大作であった。
「思った以上に分厚いね。」
「台詞覚えられる気がしない…」
「これをあと1ヶ月で仕上げろって…?」
教室のあちこちから聞こえる自信なさげな声に、野々香が活を入れる。
「みんな!中を読まずに嘆かないの!今回はメッセージ性を込めた内容になっているから、演じる側もすごく感情を込める必要がある。みんなで協力し合って完成度を高めていこう!」
──その劇の名は『平和という名の剣』。太平洋に浮かぶ小さな島を舞台とし、その島を開拓しようとする帝国軍と島の先住民との戦いを描いたものである。この島にはいわゆる文明はなく、部族間の争いも起こり得なかったが故に、帝国軍による侵略に為す術がなかった。住処を奪われた先住民たちは、帝国軍の話を盗み聞きして得た情報をもとに海を泳ぎ、大陸へと渡った。しかし渡った先の共和国は帝国と敵対関係にあり、この一件を皮切りに世界大戦の火蓋が切って落とされてしまう。平和を懸けて行われる戦争に心を痛める島の先住民たちは、真の平和とは何なのかを考えていく──
「題材はみんなへの事前のアンケートを基に私と尾野ちゃんともっちゃん(百加)の3人で決めたんだけど、どうかな?」
全員のやる気は瞬く間に高まった。高い壁ほど上りたくなる性分なのだ。
「まずこれから劇中での役決めと、準備の役割分担を決めようと思うんだけど、私のなかである程度決めてることがあるんだよね。まず舞台の総合監督は私に任せてほしいんだけど良いかな?」
「それは寧ろ、ののちゃんじゃなきゃ!」
「ありがとう!そして演技指導は私と尾野ちゃん、脚本の調整を凛緒ちゃんと優捺ちゃん、劇中歌の制作を由佳ちゃんにお願いするね!あとのみんなは大道具製作担当、小道具製作担当、美術・衣装担当に分かれて、できれば男子勢には舞台設営とかの力仕事を任せたい!」
演劇部の部長というだけあって、安定感は抜群である。知波と涼々夏は美術担当になった。
「台本を覚えることが優先なので、みんなには負担になるかもしれないけど、一致団結して頑張ろう!」
美術担当の主な仕事は、舞台上で使う背景や衣装の製作である。放課後、知波たちは舞台上で使う背景の製作に取り掛かった。
「ちーちゃん、美術得意だった?」
「うーん、苦手ではなかったかな。小さい頃から塗り絵とか好きだったんだよね。」
「そうだったんだ!うちはね、中3のときに版画で学生美術コンクールの優秀作品賞獲ったことあるんだ~。」
「え、それすごくない?版画って彫刻刀で彫って、馬楝で刷るやつでしょ?私はあれ苦手だった。」
そんな会話をしながら、未踏の島の美しい青空を描いていた。定期的に百加が見回りに来る。
「おぉー、鮮やかだ。」
「雲とか入れとく?」
「あー、そうだね、入れられそう?」
「入れられるけど、これってどういう感じで設置する?それによって雲の位置と形を変えなきゃだから。」
そんなプロの絵師のような会話が飛び交う中で、知波は絵の具が付かないようジャージの袖を捲った涼々夏の左腕に痣があることに気付いた。
「すずちゃん、その痣どうしたの?」
「あ、これ?うーんと、一昨日の夜に箪笥にぶつけちゃって。」
「そう…なんだ。」
その痣を少し隠すように右手を添えた涼々夏は、何も言わずに立ち上がりどこかへ行ってしまった。どう考えても箪笥にぶつけてできるような痣ではなく、涼々夏が何かを隠そうとしていたことは安易に想像できた。しかし細かく問い質す勇気は知波には無く、興味ない振りをして作業をするしかなかった。
その作業と同時進行で台本を覚えなければならない。知波は島の先住民の一人・シロンを演じることになった。シロンは優花が演じるイズレロの姉で、母に楓が演じるジュリア、保坂哲也が演じるヴェノムを父に持つ。一方の涼々夏は大陸国のウアイラ大統領夫人・レパードを演じ、中盤にはこの2人だけのシーンもある。知波は色を塗る作業を一旦止め、楓や優花、哲也らと共に台詞の確認をしていた。
「私たちって家族って設定なんだよね?」
「せやね。しかも俺が父親役とか。」
「保坂くんがお父さん役とか面白くなりそう。」
「私だったら哲也とリアルには結婚しないわ~。」
「おい楓、それどういう意味だよー。ほら、もうすぐ優捺も来るし練習しようぜ。」
「哲也には優捺ちゃんがお似合いだよ~。」
「ちょっ…おま…やめろって!」
この物語の中で最もどうでもいい情報なのだが、哲也と優捺は付き合っているのだ。
「何の話~?」
優捺が登場。ここからは想像にお任せする。
この日の作業が終わり、知波は帰り支度をし始めた。いつもと同じように涼々夏と帰ろうとしたが、涼々夏は出演パートの台本の読み合わせをしているため、一人で先に帰ることにした。その時ふと、久しく行っていなかった病院のことを思い出し電話を掛けた。
『雪名メンタルヘルスクリニックです。』
「あ、その声は夏子さん!」
『お、知波ちゃん!珍しいねー、どうしたの?』
「うん、今から久しぶりに行こうかなって思って。」
『全然大丈夫だよ!あ、でも今日ね、渚ちゃんいないの。』
「あー、マジかー。でも夏子さんに話したいこともあるし、30分後くらいに行けると思う!」
『はーい、待ってるね!』
以前も軽く触れたが、知波が住む臣里の隣街にあるこの心療内科は、知波の小学生時代の同級生の姉である小林渚が薬剤師として勤めている。桐家線で臣里の1つ手前である百合川駅で降りると、駅前の大通りから一本外れた一方通行の狭い道を歩いていった。3分ほどでその病院が入る雑居ビルに到着すると、階段で2階へと上がっていった。
「あ、知波ちゃん!」
「夏子さん~久しぶり!」
その頃、学校で台本の読み合わせをしていた涼々夏も帰り支度をしていた。知波と出逢ってからは常に2人で下校していたが、この日は久しぶりに孤独な家路となった。矢代駅は正門を出て右にあるのだが、この日は慣れた足取りで当然の如く左へ曲がり歩いていった。この先にある階段を登っていくと、遊歩道沿いに新宮領第二公園という小さな公園がある。1年生の頃から、嫌なことや辛いことがあると放課後にここに来ていた。今日もここで台本を覚える傍ら、知波に指摘された左腕を見つめていた。その腕についた不快な感触は、洗うだけで忘れてしまえるものではない。ちょうど夏服から冬服への移行期間だったこともあり、しっかり隠し通すつもりだったその痣に、涼々夏は涙を堪えることはできなかった。
翌日、知波たち美術担当は次の背景を製作していた。場面は大陸の街並みである。青空と雲だけだった島とは違い、発展したビル群を描くのにはかなりの時間が掛かった。着々と進めていく傍ら、台本の確認も平行して行われた。この日は知波が演じるシロンが、涼々夏演じるレパードと話をするシーンからだった。
「レパード様、もうこの戦争を終わらせてください。」
「シロン、これは我々の戦いである。我が軍が勝利した暁には、貴女たちの領土を奪還する、そう言ったはずだ。」
「私たちの領土を取り戻すために血が流れるのはもう散々なのです。命を以て故郷を取り返すなんて、そんな非情なことは望んでおりません!」
完璧な下読みをしていた2人の演技に、野々香は感心した。
「すごい、やっぱり普段から仲良いだけあって、呼吸が合ってる。非の打ち所がない。私が考えているより数倍も良い場面かも。来週の通し練習が楽しみ。」
褒め契られた2人は、軽く目を合わせ微笑んだ。
それからの数週間は、僅かな時間を見つけては練習をするという日々が続いた。脚本に細かな修正を加えたり、集中稽古ではこの高校の演劇部のOGである女優の貫井百華が演技指導のために出向くなど、着々と完成度を高めていった。美術担当による背景と衣装も完成し、由佳の楽曲製作も佳境を迎え、放課後には毎日のようにフルサイズでの通し稽古も行われた。
そして迎えた文化祭当日、妹役の優花が知波に話しかけた。
「緊張してる?」
「まあまあしてるかな。でも私たち頑張ってきたし、きっと大丈夫だよね。」
「夜遅くまでみんなで稽古して、意見をぶつけ合って、ここまでやって来たんだもんね!絶対大丈夫!」
涼々夏と百加は、衣装の最終確認をしながら話している。
「うちらが作った衣装、綺麗でしょ~?」
「うん、豪華絢爛で大統領夫人らしさがあるよね!これって何日くらいで作ったの?」
「うちと美里ちゃんで作って3日かかった!」
演劇を行う舞台があるのは体育館である。教室で全員を集めた野々香が、移動前に発破をかける。
「みんな!ここまでの1ヶ月間、小さな時間をも無駄にせず頑張ってきたよね!1回こっきりの本番のために全身全霊取り組んだみんなのことが大好きだ!笑顔で終われるよう絶対に成功させるぞ!」
舞台へ向かう彼女たちの背中からは、ここまで懸けてきた強い想いで闘志が漲っていた。
やがて出番になり、会場にはアナウンスが流れる。
「続いては、2年2組による演目です。『平和という名の剣』脚本、金澤野々香。劇中歌、三浦由佳。」
次いで、作品のナレーションを担当している海野有香の声が響く。
「1866年、スウェーデン人のアルフレッド・ノーベルは、珪藻土にニトログラセリンを含ませることで驚異的な威力を発生する爆薬・アンモナイトを発明した。しかしその技術は、やがて人の命を奪う凶器としての一面を持つ。そんなノーベルの遺言によって1895年に創設された『ノーベル賞』は、人々の生活における幸福を願うノーベルの最後の意志であった。その最たる例とも言えるのが『平和賞』である。しかし我々人類は、既に本当の『平和』を失っていた。」
SpotRightでの配信で培った聞き取りやすい声に、観劇している者たちはその世界に引き込まれていった。舞台上では、青い空の下で木の実を割るシロン達がいた。
「お母さん、殻ってどこに持っていけば良い?」
「後で砕くから、籠の中に入れておいて。」
「はーい。あれ、イズレロ?どこ行ったのー?」
「お姉ちゃん、見てみて!カッコいいバッタ!」
「キャッ!」
「はっはっは、相変わらずシロンはバッタが苦手だなぁ。ほれ、こっちはコオロギだぞ!」
「お父さんまで!もうー、やめてよ!」
そんな仲睦まじい島民たちのもとに、帝国軍の人間がやって来る。
「この島の主は誰だ?」
「あなた達は?」
「我々はザリア帝国軍である。この人類未踏とされた島を開拓しに来た。」
そこから帝国軍は交渉を始めるが、シロンの父・ヴェノムは断固拒否し決裂、帝国軍は強行策として海岸に停船所を作ってしまった。それを壊そうとした島民たちに帝国軍は剣を抜き、孤軍奮闘を決めたヴェノムを残し恐れ逃げた島民たちは大陸まで航海を始める。
「ねえ、本当にこの先に島があるの?」
「きっと…いや必ずある!彼らがこの方向に大陸があるって言ってたから!」
その言葉の通り大陸に辿り着いたシロンたちは、すぐさま助けを求めようとこの国の主・ウアイラ大統領を訪ねる。するとその国は帝国と敵対関係であることが発覚し、その島を取り返すべく新たな戦争が始まってしまう。当初はその姿勢に賛同していたシロンたちであったが、次第に世界的な制裁が始まり罪のない帝国の民衆が巻き込まれる大戦に発展すると、その考えに違和感を持ち始めた。それでも止まぬ戦争に耐えかねたシロンは、涼々夏演じるウアイラ大統領のレパード夫人に直談判する。
「レパード様、もうこの戦争を終わらせてください。」
「シロン、これは我々の戦いである。我が軍が勝利した暁には、貴女たちの領土を奪還する、そう言ったはずだ。」
「私たちの領土を取り戻すために罪無き人々が傷つくのはもう散々なのです。命を以て故郷を取り返すなんて、そんな非情なことは望んでおりません!」
「ならば貴女たちはどうなるのだ?帝国軍は侵攻により罪無き島民の命を脅かし、貴女たちの住処を奪おうとしている。それをも容認するのか?」
「だとしても、血で血を洗う戦いには賛同できません!」
しかしその願いは届かぬまま、大戦は帝国軍の敗北と多くの市民の死傷という形で終わった。シロンたちは急いで島へ戻ると、そこには傷を負いながらも島を守り抜いた父・ヴェノムが立っていた。
「お父さん!無事で良かった!」
「ジュリア、シロン、イズレロ。申し訳ない。」
「え?」
「私は狩り具で人を殺めてしまった。」
「そんなこと、誰も責めないわ。」
「私たちはそれより酷い景色を見たの。この島を守るために、罪のない人たちが命を落とした。」
それまで戦争を知らなかったシロンたちは、この島に「平和」が訪れたことを悟った。それまで必要がなかった言葉であるにも関わらず、戦争が起こったが故に与えられた不名誉である。
「この島に平和なんて要らなかった。でも、ここは平和になってしまった。ここで戦争が行われた記憶と、この島のために罪無き人たちの命が奪われた事実は、もう変えられない。これから先、私たちは何を糧に生きればいい?亡くなった人たちのために何ができる?」
その事実に落胆しつつも向き合うところで終幕。会場は大きな拍手に包まれた。
「ちーちゃん、最後のシーンの演技すごかったね!」
「あくまでも泣く演技だったのに、なぜだか本当に涙が出てきちゃって…」
「緊張感からかもしれないけど、戦争と平和に対する気持ちが表れてたね。」
文化祭の終盤には、演劇コンクールの結果発表が行われた。
「それでは、最優秀演劇賞の発表です。最優秀作品は…2年2組『平和という名の剣』です!」
地鳴りのように盛り上がり、知波と涼々夏も抱き合い喜んだ。更には最優秀助演賞に知波が選ばれ、自ら作詞作曲を行った由佳が特別賞を受賞した。
「知波ちゃん!やったじゃん!おめでとう!」
教室に戻ると、野々香が一目散に駆け寄った。
「ありがとう!金澤さんもおめでとう!」
「やったー!ねえ、これってグラミー賞級だよね!」
「グラミー賞よりはアカデミー音楽賞じゃない?」
あちらこちらから讃え合う声が飛び交う。5分ほどして米倉が戻ってくると、再び歓喜の時間が始まった。
「金澤の脚本に始まり、三浦の楽曲、衣装、道具、美術、そして守澤をはじめ全員の迫真の演技。全てが噛み合った結果だ。本当におめでとう!」
百加が全員で写真を撮ろうと呼びかける。知波と涼々夏を1番前の中心に寄せ、その隣に野々香と由佳、更には楓と凛緒、優捺も一緒である。
「あ、哲也も前来る?優捺ちゃんの隣空いてるよ~」
「おい楓、やめろよ~」
「ふふ、ほら良いから!撮ろ撮ろ!」
スマホで写真を撮ると、すぐにLINEのグループトークに送信された。
「このクラスでは戦争は起こらなそうだよね。」
「分かる、みんなそれぞれが過干渉せず、どんな考えが共存していて影ができたとしても、譲れるものがないか話し合える。そんな気がする。私、このクラスでいられてつくづく良かったと思えてる!」
知波のその笑顔に、涼々夏も微笑みながら頷いた。
しかしその笑顔の裏に、涼々夏には気掛かりなことがあった。それは知波に見つかった左手首である。知波にだけはしっかり事実を伝えたいという思いがある反面、思い出すのさえ苦しい経験を語ることにマインドブロックが働いていた。あの日ついた嘘だって、知波にバレていることは分かっていた。言い出すきっかけも見つからず、タイミングを見失ったまま時だけが過ぎていった。
「すずちゃん。」
背後から聞こえた声に驚き振り返ると、見慣れたはずの知波がいた。
「すずちゃん、一緒に帰ろ!」
ごく何気ない会話ですら、なんとなく身構えてしまう。
「…どうしたの?」
「ううん、何でもない。帰ろ!」
グラウンドでは、3年生たちの露店のテントを撤収する実行委員会の人たちが忙しく働いていた。そんな彼らを横目に、駅へ向かってとぼとぼ歩く。冬の入り口はもうすぐそばまで来ていた。涼々夏は自らの秘密を隠す時間が長くなっていくことに焦りを覚えていたが、それは知波についても同様であった──