Ep.1 出逢い
暖かい朝陽が窓から射し込む。それに触発されたかのようにうっすらと目を開き、傍の目覚まし時計を確認する少女。時刻は6時半。目安針は10分後に設定してある。ここで起きるか二度寝をするか、布団の中でもごもごしているところに、活気のいい声が室内に響き渡る。
「知波ー、朝よー。今日は学校行くんでしょ?そろそろ起きなさい?」
「うぅーん、うん…」
「お母さんもうすぐ出ちゃうから、電子レンジの中のご飯温めて食べてね。」
「うぅーん。いってらっひゃーい…」
矢代高校2年の守澤知波は、中学生時代は部活動の朝練があり耐性はあるはずなのだが、高校生になってからは鬱病と自律神経失調症が悪化し、学校も行かずに昼まで爆睡してしまう。それでも今日は自分を奮い立たせ、始業式以来およそ半月ぶりに学校に行くことにした。
大きな欠伸をしながら起きてきたときには、既に母親の姿は無かった。言われた通り電子レンジの中のご飯を温め、ごましおを掛けて食べる。朝食らしい朝食を食べるのも久しぶりなのである。
「そういえば…」
スマホを取り出しながら、今日の授業で使うものを準備する。昨日のうちに担任からLINEで知らされていた。自分の名前すら書いていない教科書とルーズリーフを鞄に詰め込み、再びご飯を口に運ぶ。いくら時間があるとはいえ、のんびりしすぎたら遅刻する。せっかく勇気を出して行く気になったのに、これで遅れたら洒落にならない。結局自分はダメな人間なんだとまた閉じ籠ってしまう。
さっさと食べ終わり、歯を磨いて着替える。幸いにも制服の着方は覚えていた。持っていくものはさっき全て纏めたし、電車に乗るためのICカードも持った。みんなのようなウキウキした気持ちではなく、なんとなく暗い気持ちで部屋を出る。まだ肌寒い朝に、知波は大きな一歩を踏み出した。
駅へ向かう途中、コンビニに立ち寄って昼食を買う。1年生の時は母親が弁当を作っていたが、この日は諸事情で作ってなかった。正確には、作るだけのご飯を炊いていなかった。昨日は母親の仕事が長引き帰りが遅くなってしまい、知波が代わりにご飯を炊いたのだが、自分自身が学校に行くということをすっかり忘れ昨日の夕食とこの朝食の分しか炊いていなかったのだ。そのため母親もコンビニかどこかで弁当を買って食べる羽目になった。
朝のコンビニは思ったより客が多かった。知波は好きな昆布のおにぎりと、それでは足りないかもと思いチョコレートを買い、足早に店を出る。レジで長く待っていた分、電車に乗る時間が迫ったのだ。ICに入金もしなければならないのに、運悪く赤信号にも引っかかってしまった。
信号が青になるや、バスケで鍛えられた瞬発力を生かし、F1カーのようなスタートダッシュを決めた。しかし、1991年のマイケル・シューマッカーが乗っていたジョーダンばりに持久力がないので、横断歩道を渡りきると同時に失速した。どうしても私はマイケル・ジョーダンではなく、ジョーダン時代のマイケル・シューマッカーにしかなれないらしい。
そんなこんなでようやく駅についた知波は、入金を済ませプラットホームへと駆け上がった。電車のドアが閉まる10秒前という、知波にとってはかなりギリギリでの乗車となった。朝のラッシュアワーとはいえ主要駅とは逆方面のため、車内は座れるほどではないが空いていた。隣の車両には同じ高校の男子生徒がいる。同じクラスの人だったらちょっと嫌だなと思いながら、スマホを開く。母親から「忘れずにチャージするんだよ」とLINEが来ていたが、そんなもの気付かずに電車に乗っていた。
知波の最寄りである臣里駅から高校のある矢代駅までは30分ほどかかる。これでも近い方で、中には電車を3本乗り継いで来る人もいるらしい。それは矢代高校が県内随一の進学校であるためで、隣県からの生徒もいるくらいである。知波のように乗り換えなしで通う生徒の方が貴重で、ほとんどは途中にある杵前駅で私鉄線から乗り継いで来る。この日も杵前駅からの車内は矢代高校の生徒が多くなった。それでも知ってる人がいないというのが、1年生を出席日数ギリギリで突破した私の不登校ぶりを物語っている。
やがて矢代駅に到着。案の定、駅は生徒たちでごった返した。この日はちょうど反対方面からの電車も同着だったため尚更である。かれこれ100人以上の生徒は一斉に東口に流れ、国道沿いに歩く。歩道はまるでル・マン24時間レースのユノ・ディエールのような状態になり、自転車通学勢がそれを尻目に車道を駆け抜ける。1つ目の信号で左に曲がると、ようやく矢代高校の正門が見え始める。駅から徒歩4分という好立地も魅力の1つだ。
1階の下駄箱で靴を履き替える。どうやら教室には既に何人か来ているようだ。その方が教室に入ったときに目立たないし、知波にとっては好都合だった。
教室のある4階まで階段を上る。1年生の頃は5階建て校舎の5階だったのでしんどかったが、1階分低いだけでも負担はかなり軽くなった。それとは反比例に、始業式以来の新しいクラスに馴染めるのかどうか、その不安で身体が重くなる。そもそも、去年もクラスに馴染むほど学校に行けず、友達も作ることができなかったので、変な印象がついていないか心配であった。自分はとりあえず、クラスでのあらゆる問題に巻き込まれることなく、いろんな人の視界に入らない、影の薄い人間として無難に過ごせればいい。自分の心にそう言い聞かせながら教室に入った。
幸いなことに席は最後列だった。始業式の後にここで新クラスの顔合わせをしたことにはしたが、それから2週間のブランクがある。新しくクラスメートになった人たちは知波の顔なんて覚えてないし、知波も新たなクラスメートの顔なんて覚えていなかった。まるで転入生のような気持ちである。でもこれは自分の責任。自分がちゃんとしなかったからこうなってるだけ。そう思い込み始めると、なんだか止まらなくなってしまった。
──3日ほど前に遡る。知波が定期的に通っている心療内科に、2人の心を開ける「友達」がいる。その友達は患者ではなく、薬剤師と受付の女性である。薬剤師の小林渚は、小学生の頃に仲が良かった友達の姉であり、受付の葛井夏子は渚の同期である。この3人で食事に行くほど仲がよく、知波はこの2人を「NK細胞」と表現するほどである。鬱病で精神が乱れたときに、仕事で忙しい母親よりも傍で支えたこの2人は、「自然な優しさ」で知波に寄り添った。その2人から、学校に行くようになってもすぐに状況が好転することはないと言われていた。しかし同時に、それは伸び代があるということなので、とにかく自分を卑下することなく慣れていくこと、そうアドバイスもされていた──
しかし実際はそんなに上手くはいかない。不安が大きく、慣れるどころか自分が本当にここに存在しているのかどうかすら分からなくなっていた。去年度から引き続き担任の米倉が教室に入ってきて、ようやく我に帰る。ホームルームが終わると、10分間の自主学習の時間が始まる。米倉からは、
「よく来てくれたね、ありがとう。無理はせず、少しずつ頑張っていこう」
とだけ声を掛けられ、そのまま1限の準備に行ってしまった。
それはまるで、サッカーの試合に放り込まれたフットサルの選手のような状態だった。これから1年間─正確には2週間過ぎているが─を共に戦うはずなのに、連携をとるどころか仲間にすらなれる気がしない。いつもの誰もいない部屋とは違い、誰かがいるのに独りにされているこの状況は、本当の孤独を体感しているようだった。
やっぱり自分はここにいちゃいけないのかもしれない。俯きながら1限の現代文の教科書を眺めていると、右側から聞き覚えのない声をかけられた。
「守澤さん…だよね?」
「え…?え、あ…は…はい…」
「これ、先週までのノート。ずっと休んでたでしょ?写していいよ。」
「え…あ…あ…ありがとう…ございます…」
「ねえ、そんなに堅くならなくていいよ?同い年なんだから。」
「あ…はい…始業式以来、学校に来るの初めてで…」
「そうね、確かに守澤さんのこと見るの、ほぼ初めてな気がする。」
「はい…なので何も分からなくて…」
「ふふ、でも心配しないで。このクラス、そんなに悪くないよ。あ、うちは塚本涼々夏。ちょっと離れてるけど、位置的には隣の席だからよろしくね。」
「あ、はい…私は守澤知波です。ずっと隣空けちゃっててごめんなさい。」
「謝らなくて良いんよ。何か事情があったんでしょ。うちでよければいつでも話聞くからね。」
「はい…あ、ありがとう…ございます…」
しゃがんで知波と同じ目線で話していた涼々夏は、ノートを残して自分の席に戻ってしまった。同時に1限開始のチャイムが鳴り響く。鞄からルーズリーフを取り出し、急いで書き写し、何とか先生が来る前にノートを返すことができた。
それから2限の化学、3限の数学B、4限の英語と、全ての授業でノートを見せてくれた。いくら隣の席だからって、こんなに優しくしてくれるのは何か裏があるんじゃないか。知波はちょっとだけ不信感があったが、友達と呼べる人がいないこのクラスで、頼らせてもらえるのは涼々夏だけだった。
やがて昼休みに入り、教室や廊下が騒がしくなった。他クラスの友達と昼食を摂るために教室を移動した人がいれば、逆に移動してきた人もいる。そんな生徒たちを横目に、知波はコンビニで買ってきたおにぎりを自分の席で食べようとしていると、
「守澤さん、一緒に食べない?」
と、涼々夏が声をかけてきた。
「あ、うん。あ、机…」
「ん、大丈夫よ、うちがイス持ってくるよ。」
知波の机に寄ってきた涼々夏は、弁当箱が入った青い巾着袋と、授業中はロッカーにしまっているスマホを持っていた。
「お昼それで足りるの?」
弁当箱を開けながら訊いてきた。
「うん、割と少食なんだ。」
「そっかー、いっぱい食べてそうな気がしたんだけどなぁ。なんかスポーツやってたでしょ?」
「え、何で分かるの?」
「体つきがちょっと違うもん。背も高いし。」
「そっか…中学生のときはバスケ部だったよ。」
「え、そうなの?うちもだよ!」
「え…本当?」
「うん。まあ高校入って辞めちゃったんだけどね。」
「そうなんだ…でも確かに、塚本さんも背高いし、バスケ向いてそう。」
「こう見えてキャプテンだったんだよ。」
「すごい…だからか…」
「んー?なにが?」
「周りのこと、すごいよく見てる人だなって思って…私のこともだし、クラス全体のこともよく見てる印象があるんです。」
「あー、まぁー、それもあるかもね。敵とか味方とか関係なく、全方向を見た上で瞬間の判断が必要だからね。」
まず1つ、共通点を見つけられたことによって知波は少しだけ安心できた。勇気を出して、知波から質問をしてみる。
「確かにそうだよね。ねえ、塚本さんってどこの中学だったの?」
「うちはねー、富倉中だよ。」
「え、富倉?チーム手塚の?」
「え?そうそう!知ってるの!?」
「もちろん知ってるよ。私たちが1年のときだったかな…県の連合大会の決勝で対決したもん。」
「え、ということは、守澤さんは臣里中?」
「うん、その年は選抜外だったけど。」
「そうだったんだ!私あのとき試合出てたよ!でもシュートは決められなかったし、負けて準優勝だったけど…」
「でもすごいよ…試合に出られたんだから…私は2年のときも怪我で出られなくて、3年のときはそもそも学校まともに行けてなくて。」
「あぁー…そう…だったんだ…何か…あったの…?」
「うーん…まあ…いろいろとね。」
「そっか…」
せっかく話が弾んできたところに、知波は余計な一言で気まずくしてしまった。それでも涼々夏が話を持ち直そうとする。
「でも、そういう辛い過去ってみんなあるよね。だから大丈夫!これからはみんなもいるし、ちょっとずつ頑張っていこ!」
「う、うん…ありがとう。」
おにぎりを食べ終えたが、案の定少し物足りなかった。知波は一緒に買ったチョコレートを開けながら、
「もし良かったら…食べていいよ…?」
と涼々夏に訊いた。
「え、良いの?ありがとうー!これ美味しいよねー、私めっちゃ好き!」
「うん、美味しい。よくお母さんが買ってきてくれるんだ。」
「そうなんだ!うちもよく買ってる。でもたまに買いすぎちゃうんだよねー。」
「めっちゃ分かる。買いすぎちゃうし、食べすぎちゃう。お医者さんに食べすぎはダメだって言われてるのについ…」
また余計なことを言ってしまった。話題を変えようと考えていると、涼々夏が気遣うように訊いた。
「ねね、もしかしてさ、学校休んでた理由って、本当に体調不良だった…?」
「え…えぇー、っと…うん…体調不良っていうか…鬱病…かな…」
「やっぱりそうだったんだ。あ、いや、ずっと休んでることみんな不審に思っててね、入院してるんじゃないかとか、仮病なんじゃないかとか、いろんな憶測が飛んでたの。」
「そっか…」
「でもうちはそういう推測するの嫌で、来たら直接訊くつもりだったんだ。もし気に触っちゃったらごめんね…」
「ううん、大丈夫だよ。そんなことがあったんだ…」
「うん。だからさ、何かあったらいつでも話聞くからね。」
「うん、ありがとう。」
昼の数分で距離を縮め、涼々夏は残りの授業も知波にノートを見せるなど、2人の間には確実に小さな友情が芽生えていた。それは放課後へ続く。
「塚本さんは電車通学?」
「そうだよー、杵前で私鉄に乗り換えて硴江まで行くの。」
話しながら駅へと向かう。周辺の路線に詳しい知波は、涼々夏との話題を広げる。
「硴江?富倉中ってそんな方だったっけ…?」
「あ、引っ越したんだよ、高校入ってきてちょっとしてから。ちょうど今から1年くらい前かな。それまでは北忽那に住んでたよ。」
「北忽那のほうが近いのに、なんで硴江にまで引っ越しちゃったの?」
「お父さんの職場が弦川にあって、前は硴江で乗り換えて行ってたの。でもそれが面倒くさいからって、いっそのことって感じで硴江に引っ越したんだ。」
「面倒だからって…そんな理由で…?」
「仕方ないの、うちは父親が絶対だからさ。本当は嫌なんだけど。でもお母さんも逆らえないから、別居もできなくて。」
「なんか…私より大変そうだね…」
知波は、どこか過去を悔やむように同情した。
「それはどうだろ。幸いなことに、うちは鬱病にはならなかったからなぁ。」
「だって、私にはもうお父さんいないもん。」
「え?」
「親が離婚したの。小5のときに。」
「え、えぇ?じゃあ今はお母さんだけ?」
「そうだよ。今はお母さんと2人で暮らしてる。」
「そっか…そうだったんだ。お父さんは…その…DVとかする人だったの…?」
「ううん、お母さんは性格の不一致だって言ってたけど、殴る蹴るとかの暴力は無かったよ。でも、私は双子でお姉ちゃんがいたんだけど、お姉ちゃんはお父さんの方に行った。」
「え、双子だったんだ!何歳差?」
「えっとね。…ん?いや、双子だから同い年だよ。」
「…あ、そっか。ふふっ。」
涼々夏の思わぬ勘違いに、2人で大笑いしてしまった。
「お姉さんは名前なんていうの?」
「鶴田みなみ。美しいに波って書くんだ。私はお母さんの旧姓だから守澤なんだけど、前は鶴田知波だったよ。」
「知波ちゃんのお姉さんが美波さんかぁ。どちらもきれいな名前だね。」
「これは小学生のときに聞いた話だけど、お姉ちゃんには美しさを、私には知識を武器にして、世界に新たな波を起こしてほしいって意味を込めたんだって。」
「由来まで綺麗すぎる。私は生まれた日が冷夏の影響で涼しかったから涼々夏なんだよ、ひどくない?」
「それだっていい名前だと思うよ。私は好きだけどな、涼々夏ちゃんって。」
ふと思い出したように、2人は顔を見合わせた。
「ねえ、苗字呼びやめて、名前で呼ばない?」
「うん、今すごく自然に名前で呼べた。涼々夏ちゃんって呼べばいい?」
「良いよ!じゃあうちは…知波ちゃん…あー、ちーちゃんって呼ぶ!」
「え、待って、なんかずるいー。じゃあ私は…うーん、すずちゃん!すずちゃんって呼ぶ!」
それは知波にとって、高校で初めて友達ができた瞬間だった。その後2人の会話は電車内でも尽きることなく、涼々夏が降りる杵前駅に到着した。
「ねね、LINE交換しない?」
「うん、帰ってからも話したいな。普段はあまり話さないから慣れてないけど。」
「全然、うちもLINEで雑談するの初めてかも。」
それは、「学校が楽しい」という意識が生まれた瞬間でもあった。知波は電車に揺られながら、既に翌日の学校で涼々夏と話すことを考えていた──