第五章② 港町クルスの日々①
やってきたのは小さな酒場だった。
エンジ──道中で聞いた、救世主の名前だ──の家は酒場兼民宿を営んでおり、二階に旅人を泊める設備がある。エンジは正面から酒場に入り、階段を上った。
古いが大きな建物で、酒場にはカウンター・テーブル席を合わせて三十名ほどが飲食できる。まだ日が暮れたばかりだというのに、店内は満員だった。そんな中をずぶ濡れの俺が通るもんだから、まあ酔っ払いたちに冷やかされるわけで。気づかないふりをして、俺もさっさと二階へ上がった。
二階には四つの部屋があり、三室が貸し部屋となっている。残りの一室は風呂とトイレで、宿泊客が共同利用できる。
「俺たちは下に住んでるから、何かあったら一階に顔を出してくれ。俺は普段漁に出てるけど、誰に言っても大丈夫だから」
後から知ったが、民宿はエンジの両親が営み、酒場はエンジの五歳離れた兄夫婦が切り盛りしている。エンジ本人は漁師として、知り合いの船に乗っているそうだ。エンジが持ち帰った新鮮な海産物で作る料理は酒場の名物で、クルスでも屈指のうまさを誇っているとのことだった。
エンジの言う通り、俺の宿泊費はかなり安くしてもらえた。どうしても海が見たくて旅をしたというのが、エンジ家族にも響いたらしい。エンジ同様、この町の人々は海が大好きだ。だから海に憧れを持つ俺は、どこに行っても歓迎された。
また、仕事終わりのエンジが様々な場所へ連れて行ってくれたので、クルスの町を十二分に楽しむことができた。ちなみに水泳指導も受けたが、俺には犬かきがやっとだった。エンジに散々笑われたが、こればかりはいつまで経ってもマスターできる気がしない。
釣りも乗船も砂遊びも、すべてエンジが付き合ってくれた。おかげ様で、俺はクルスでやりたかったことを三日でほぼコンプリートしてしまった。
だがエンジにも仕事がある。エンジが漁に出ている間、俺も働いた。
泊っている部屋の中で、魔法薬の調合をしていた。夜になるとエンジが俺の部屋にギターを弾きに来るのだが、エンジはいつも不思議そうな顔で俺の仕事道具を見ていた。
「これなんだ?」
ある夜、エンジが俺の小瓶を持ち上げた。
「ああ、滋養強壮の薬だよ。旅の疲れが抜けなくてさ」
この頃には魔王戦での疲れは癒えていたが、エンジと遊び回っているので念のため服用していた。
「そんなのあるんだな」
「俺の故郷だと普通だよ」
「アズールの町は、ずいぶん贅沢なんだな」
話を聞くと、クルスには魔法薬どころか普通の薬も馴染みがないらしい。「不調は食べて治す」が基本になっており、よほどの重症でなければ使わないそうだ。医療関係者は扱っているが、民間人には縁遠いものだったのだ。
「ま、この町には新鮮で美味しい食べ物がたくさんあるし、薬なんてなくても全然大丈夫だけどな!」
エンジは満面の笑みを見えた。確かに栄養豊富な食材が揃っているので、普通に暮らしている分には薬など縁遠いものだろう。
だから最初は、魔法薬が売れないと思っていた。しかし意外にもバカ売れしてしまったのだ。
きっかけは、エンジの兄嫁さんだった。




