第五章① 初めての海は散々でした。
空はすっかりオレンジ色に染まっていたが、まだ明るいうちに俺たちはクルスに到着できた。
西日を浴びた海は信じられないほどキラキラと輝き、まるで億千万もの宝石がばら撒かれているようだった。
そんな水面を間近で見たくて、今晩の宿探しそっちのけで、俺はまっすぐ海へ向かった。
船着き場の桟橋と水面の間には、数メートルの落差がある。上から見た海は、俺を誘うようにいっそう輝いていた。
「ルル、これが海なんだよな! 入るのに許可とか要るのか!」
「いや、要らないと思うが……」
ルルがすべて言い終わるのを待たず、俺は上着をズボンをさっさと脱いで、海に飛び込んだ。
飛び込んだ場所は思ったよりも水深があった。船が座礁しない程度の水深は必要なのだから、よく考えればわかることだ。でもこの時の俺はそんなこと知らなかったし、そこまで考えが及ばなかった。少なくとも水深は俺の身長以上あり、いくら足をバタつかせても水をかくばかり。
つまりどういうことかと言うと、俺は溺れたってこと。
楽しかったのはほんの一瞬さ。足が水中に突入した時、俺は最高に興奮したよ。でも鼻まで水に浸かった時、なんだかまずいと思った。そして耳が、目が包まれた時、俺はやっぱりやばいと思った。穴という穴から水が入り込んで苦しいし、目が開かない恐怖に襲われた。
それでも全身が水中にあることは楽しかったさ。でも手足を動かして、どうにもならないと理解したら、一気に恐怖が襲ってきた。どんなにもがいても、水面にたどり着かない。息はどんどん苦しくなるし、目を開いても水がしみて痛い。一秒も目を開けていられず、どの方向に水面があるのか、わからなくなった。
いよいよ本当にやばいんじゃないかと思った時、全身に強い力を感じた。グイグイと引っ張られ、一気に水の外へ解放された。呼吸ができることが何より嬉しくて、俺は飢えた人のように夢中で酸素を吸い込んだ。
「何やってんだよ!」
懐かしい声がした。ひと心地してから見ると、すぐそばに知らない顔があった。俺と同年代の青年。こんがり焼けた肌に黒い髪。多分この町の住人だろう。だがすぐにそこまで頭が回らなくて、俺は色違いのハインツが現れたかと思った。声が亡き友ハインツにそっくりで、顔は似てないけど、どことなく雰囲気もアイツに似ていると思ったんだ。
後になってルルから聞いた話だが、俺は入水直後に溺れたらしい。俺が水中に消えた後は無数の泡が水面に上がってくるだけで、俺の姿はすぐに見えなくなったそうだ。
だがすぐに青年が駆けつけ、海に飛び込んだ。そしてものの数秒で俺を引き上げてくれたのである。実際この間は一分もかかっていないらしい。俺の体感では余裕で十分は超えたんだけどな。
で、俺は救世主に助けられて、桟橋へ上った。救世主が下から俺を押してくれたから、なんとかよじ登ることができた。
俺は海水で沁みる目をなんとか開き、桟橋の上を這った。そしてさっき自分が脱ぎ散らかした上着を掴むと顔を押しつけた。顔を拭った時、ようやくもう大丈夫なんだと思えた。まさか顔が濡れてないってのが、こんなに快適だとは思わなかったぜ。あと、俺自身忘れていたんだけど、一瞬でも術式を書いた石を手放してしまった。そして今、服と顔とが接したことで、魔力の流出も抑えられた。俺は二重の意味で助かったのである。ちなみにルルがこの時そばに寄ってきて、俺にしか聞こえない声で「一体何をしているんだ」と言ったことは、いつまでも忘れない。
桟橋に上がった救世主に、俺はお礼を言った。といっても俺は立てないほど憔悴していたから、四つん這いに近い姿勢でだが。
「ありがとう。本当に助かった」
「お前、死にたいのか」
救世主は静かに、しかし怒気をはらんだ声で俺を詰った。
「いや、まったく」
「じゃあ、どうしてこんなバカなことしたんだ」
「海に、海に入ってみたくて」
それまで怒気マックスだった救世主の声が、急に和らいだ。
「なんだ。お前、よそ者か」
「ああ」
「今まで海くらい見たことがあるだろう」
「いや、本当にないんだ。だからどうしても海が見たくてこの町に来た。そしたら興奮が抑えられなくって」
「バカだなぁ!」
救世主は俺の横にしゃがみ込むと、背中を強く叩いた。
「ま、海が好きなやつに悪い奴はいねーわな。ははは!」
なんだかよくわからないけど、どうやら救世主に気に入られたらしい。俺を助けるように立たせると、放り投げたギターと剣を拾って俺の代わりに担いだ。
「今夜の宿は決まってんのか」
「いや、まだだけど」
「じゃあ俺んちに来な。安い民宿だけど、さらに安くしてやるから!」
俺の返事を待たず、救世主は先に進んでしまった。ルルと顔を見合わせ、小声で会話した。悪いやつではないだろうと結論が出たので、俺は急いで彼の後を追った。