第一章③ ルルの奴、今度会ったら絶対ぶっ飛ばす
居間に母の姿を見た瞬間、俺の心臓は跳ね上がった。母はテーブルに突っ伏して眠っていた。俺を待っているうちに眠ったのだろうか。それとも不安と戦っているうちに睡魔に襲われたのだろうか。
いずれにせよ起こしてはいけない。俺はそっと家を出た。
二日ぶりの外。
家に閉じこもっていたので新鮮に思えたが、はやり以前の空気とはどこかが違う。海が近いのに、まったくの無風なのも不気味だ。城壁外にある森から一切音がしないのも不気味である。以前なら夜でも何かしら葉のざわめきや鳴き声が聞こえたのに。
しかし今は感傷に浸っている場合ではない。気を取り直して、俺は街を駆けた。幸いにも魔物には見つからなかった。というか見えているのか疑問だ。俺の真上を飛んでも襲ってこない。もしかしたら奴らに襲う気はないのかもしれない。そう気づいたら、移動が一気に楽になった。もちろん護身用に抜き身の剣はいつでも振れるようにしている。しかし堂々と街中を歩いても、剣を使う機会は一度もなかった。
普通に移動できたおかげで、街を取り囲む城壁にはすぐに辿り着いた。後は城壁に沿って、街の出入口に向かうだけである。
説明が遅れたが、この街の出入口は一つしかない。南口に大きな城門があり、他からは出入りできない。なぜこんな不便な城壁が作られたかというと、かつて隣国との戦争が起こった際、敵を一か所におびき寄せるために作ったのだとか。強固な守りのおかげで敵は侵入できず、戦争は作戦通りに展開して勝利。その成功経験から、今も城壁が残っているのである。まあ今回に関しては、その選択が首を絞めることになるのだが。
さて、難なく進む俺だったが、突如目の前に何かが飛び出した。
魔物に気づかれてはいけない。声を押し殺そうと喉を引き絞った。すると「ぴゃああ」という、情けなくも甲高い鳴き声が出た。
「何その声」
現れたのはルルだった。
無表情で動じていないが、俺は死にたくなった。いや、むしろルルをぶっ殺したくなった。
「何やってんだよ、こんなところで!」小声でいうも、怒気で語調が強くなる。
「おや? おやおや?」ルルは俺の質問に答えず、首を傾げた。
「何かした?」ルルが尋ねる。
「何が」
「気づいてないなら別に」
「あっそう」
相変わらず人を馬鹿にしている。俺は無視して先に進もうとした。
「どこに行くのだね」
「別に」
「そっちには行かない方がいいと思うのだが」
背中からルルの忠告が聞こえたが、俺は無視した。こいつはいつもこうだ。人の気に障る能力が高い。
「死ぬなよ」
ほら、最後まで気に障る奴である。
ルルを無視してしばらく行くと、遠くに城門が見えてきた。
城門は大きな飾り扉になっているので、遠くからでもすぐにわかる。だが城門と同時に変なものが見えた。というか、城門を塞ぐように何かがいるのだ。それが何かわかった時、俺は絶句した。すぐに建物の影に入り、再度確認した。現実を受け入れるのにしばらく時間がかかった。
城門の前に魔王がいた。絵本で見た通りの姿だ、間違いない。壁を覆うほどの巨大な魔王がどっかりと座り込んでいた。魔王と周囲の境界はぼんやりしている。時空がねじ曲がっているのだろう。その強大な力に俺は慄いた。瞬時に体内の液体が蒸発したようだ。つば一滴すら湧いてこない。
幸い魔王は俺には気づいていなかった。城壁沿いに来たのがよかったのだろう。視界に入っていないようだ。城門は大通りから王宮に向かって真っ直ぐ伸びている。魔王はうつろな目で王宮を見つめていた。
ひとしきり落ち着いた頃、俺はふと気づいた。
「これじゃあ街から出られないじゃないか!」(一章・完)