第一章② 母さんよ、俺のジェラートがないようだが
寝込む俺を差し置いて、母はパレードに行った。当日午前中の俺は、まだ微熱だった。俺自身こんなに病状が悪化するとは思っていない。まあ俺を置いていったことは、この際どうでもいい。
母が大通りに到着した時も、異変はなかった。街はお祭りムード一色。顔なじみの女将さん連中とジェラートを食べたそうだ。息子が苦しんでいるのにいい御身分だ。
そんなこんなで正午が近づいてきたので、母たちは大通りに向かった。
パレード開始は正午。開幕のベルが鳴り、騎士団が練り歩く。途中、仮装した役者が交じり、魔王討伐のエピソードが演出されるのが例年の決まりだ。
俺も毎年見て内容は覚えているが、毎年パレードを見ないと春がやってきた気がしない。
大通りに面した場所はすでに人だかりができ、母さんは渋々大通りから少し離れた場所でパレードの開始を待った。偶然幼なじみのルルに会って、軽く挨拶したらしい。
そうこうしていると、ベルが鳴った。
民衆から一気に歓声が上がる。
楽しいパレードの始まり……と思ったのも束の間。西の空がじわじわと黒ずみ、空一面が真っ黒になった。夜とはまた違う。まさしく「黒」という表現がふさわしい空だった。暗いのに、光なしでも物が見える。
だから最初は、みんなが王宮魔術師の演出かと思った。悪趣味な演出だと、人々は眉をひそめた。
しかし空が完全に真っ黒になると、なんだか不安になってきた。
いつまでこの演出は続くのだろう。民衆の間にじわり恐怖が広がった頃、悲鳴が上がった。
「何あれ!」
誰かが上を見たのを皮切りに、全員が上を見た。真っ黒な空に、不気味な影。不思議だが、黒いのに影は見えるのだ。きっと黒さの質が違うのだろう。
理屈はさておき、影は一つではなかった。最初は数える程度だったのが、一瞬にして増える。すぐに無数の影が空を飛び交ったそうだ。最初は小さくて虫かと思ったが、時間が経つにつれ影が大きくなる。かなり接近してきて、ようやく影の正体がわかった。
「魔物だ!」誰かが叫んだ。
キマイラにデーモン、ガーゴイル。どれも絵本の中でしか見ないような、遠い昔に根絶した魔物ばかりだった。
そこからは想像どおりの大パニック。方々で上がる悲鳴。逃げ惑う人の波。子供が泣く声。騒がしいのに魔物が笑う声だけはしっかりと聞こえる。まるで逃げても無駄だというかのように。
幸いにも母さんは大通りから離れた場所にいた。だから民衆が逃げ惑う前に、いち早くその場を離れることができた。
その場にルルがいたことも幸いした。街から変わり者扱いされているルルだが、魔力は相当高い。実力は国内随一の王国魔術団に入れるほどだ。ただ本人が「王宮っていじめとかありそう」と言って入団テストを受けないらしい。入団テストを受ける権利すらない俺からすれば、ふざけてるとしか言えないが。
脱線したが、そんなルルといたので、母は無事帰宅できた。といっても魔物たちは直接手を出してこなかったらしい。混乱する人々を見て、面白がっていただけのようだ。一部では騎士や魔導士たちが応戦していたらしいが、期待はできない。なんせ平和な現代では、魔物討伐は年に一度。狂暴化した魔獣が人里に現れたとか、その程度の騒ぎなのだ。実戦経験がない騎士たちが、古の魔物たちに勝てるわけがない。その証拠に、街は今も魔物たちが漂っている。ここまでが母から聞いた話だ。
「だから今は外に出てはいけないよ」母は最後にこう締めくくった。
「わかったよ」
信じられない話だが、窓の外から見た街の景色を見るに、疑う気も起きない。だが疑問は生じる。
「で、いつまでこうしていればいいんだ?」
「あいつらが消えるまでだよ」
「だから、それっていつだよ」
「知らないよ!」
母も俺も、イライラしていた。どうにもできない負荷がかかると、人は怒りの感情が生じると知った。
「とにかく三日は食べるのに困らないから。その間に騎士様がなんとかしてくれるだろうさ」
「全員死んじまってなけりゃな」
「不吉なことを言うんじゃないよ」
俺は自室に逃げた。母さんも追ってはこなかった。お互い押しつぶされそうなのだろう。母さんは不安に。俺は理不尽さに。
でも顔を合わせると不満のぶつかり合いになるので、俺は部屋に閉じこもった。
母さんの意見は賛成だ。魔物がいる以上、不用意に家から出ない方がいいだろう。だが俺はこうも思った。
「早く街から逃げた方がいい」と。
このまま家にいても、いつかは限界がくる。それに待っているだけで、現状が解決できるとも思っていなかった。騎士や魔導士が対処できるとは思っていないからだ。
俺は荷物をまとめた。もちろん母さんも連れて行くつもりだ。だがまずは逃げられるか一人で確認した方がいい。いきなり連れていって騒がれたら、魔物たちに見つかって殺されかねない。だから先に一人で行き、逃走ルートを確保する。可能なら街の外に避難できる場所を確保してから母を連れ出そう。そう決めた。
俺は夜まで待った。空が真っ黒なせいで夜の感覚がないが、母が寝てくれなければ困る。夜は魔物が活発になるかもしれないが、そんなのは知らん。少なくとも昼間も元気に飛び回っているので、気にしても意味がないと思った。
深夜。俺はそっと部屋を出た。(続く)