第四章⑥ 俺のドキドキを返せ
もう俺はわけがわからなかった。
扉が開くと、老婆が出てきた。その顔を俺は知っていた。
街で有名な、女浮浪者だ。いつもわけがわからない歌をがなり立てて、街中を徘徊している。会話が全部歌になるので、狂っているのだと街中の人が思っていた。
あまりに神出鬼没で、以前ハインツと尾行したことがある。しかし逆に追いかけ回されて、散々な目に遭った。それ以来俺もハインツも顔を見るなり逃げ出す始末だった。
そんな奴が、今目の前にいる。老婆は俺を見て顔を輝かせていた。しかし俺は騙されたと思った。思えば、ルルには俺を騙す必要も老婆に会わせる必要もないのだが、俺は完全に騙されたと思った。そしてルルに強い嫌悪感を抱いた。
「帰る!」
二人が何か言う前に、俺は背を向けた。
「ここまで来てどうしたんだ?」ルルが尋ねた。
「何が賢者だ! 馬鹿馬鹿しい、付き合ってられるか!」
「この人は間違いなく賢者だぞ」
「そうだな、そいつが賢者なら俺は勇者だよ!」
「よくご存じですこと」
聞きなれない声。老婆が答えたのだ。見ると上品そうにフフフと笑っていた。普段の歌う様子はまったくなく、仕草は上品だ。だがその姿は醜悪そのもの。逆に俺を馬鹿にしているように見えて不快だった。
「さあ、どうぞこちらへ」
老婆は俺に向かってちょいちょいと手をこまねいた。
俺は二人に背を向けた。
「どこに行くのだ?」
「帰るんだよ!」
「父上のことはいいのか?」
「うるせー!」俺は駆けだした。
父のことは、知りたくないと言えば嘘になる。しかしこんな場所で、あんな害悪から知れるはずがないと俺は思った。
ルルは追ってこなかった。最初は通路内に二人の声が響いたが、それもすぐに聞こえなくなった。
地下道を塞ぐ蓋も一人で簡単に開けられ、俺は地上へ這い出した。そして一人旧市街を彷徨った。何度も迷い、旧市街を抜けた頃には昼時を迎えていた。