6、アーサーの死後
アーサーの意識は、フワフワした明るい空間を漂っていた。何もないのにすべてがあるような、不思議な場所だった。
アーサーが戸惑っていると、誰かがやってきた。翼を持った人物というのはわかったが、年齢も性別もわからない。輪郭がぼやけ、はっきりと認識できなかった。しかしこの人は天使で、安心してよいのだとアーサーは直感で理解した。
【よく頑張りましたね】
高くもなく低くもなく、それでいて温かい声で天使は言った。
その声を聞いた途端、アーサーは心の中が満たされて、涙が溢れたような感覚に陥った。すべてが赦され、肯定された気分だった。
【あなたの献身のおかげで、魔王は消滅します】
「それはよかったです」
【しかし魔王の脅威は消えません。本当の意味で守るためにも、あなたの力をお借りしたいのです。せっかく休めるのに申し訳ないのですが、一つ頼まれてくれませんか】
「はい」
天使からの依頼内容をちっとも理解していなかったが、アーサーは一寸の迷いなく快諾した。なぜだか、天使からの頼みが自分にとって必要なものだと思えたからだ。
【ありがとうございます。この役目には、あなたのように高潔で、守護の意識を持つ方が必要なのです。ではこちらへ】
天使に導かれるまま、アーサーはどこかへ向かった。
この世界では時間も距離も一瞬で、天使の後についていくと決めた瞬間、アーサーは深い渓谷に移動し、谷を見下ろすように浮いていた。
見渡す限りすべて荒野で、地上を二分割するように大地がぱっくりと裂けていた。谷底は見えず、地の底まで暗闇が広がっていた。肉体を失ったアーサーでさえ、死の恐怖に身がすくむ思いだった。
「いったい私は何をするのですか?」
恐怖を振り払うように、アーサーは尋ねた。
天使は先ほどと変わらぬ口ぶりで質問に答えた。
【その時が来るまで、あなたはここである者と戦ってください】
それだけ言うと、天使はどこかに飛び去ってしまった。
アーサーは慌てて質問した。
「その時とはいつなのですか!」
アーサーの声が寂しい渓谷に響いた。返事はなく、アーサーは途方に暮れた。
ある者とは何者なのか。それに武器は?
アーサーは今自分が置かれている状況を必死に整理した。
だがそんな時間は一瞬もなかった。渓谷から何かが飛び出してきたからだ。
アーサーの目の前にそびえ立つ黒い影。巨人だ。天使同様、顔ははっきり見えないが、山のように大きな巨人がアーサーを見下ろしていたのだ。
アーサーは魔王のことを思い出し、完全に思考が止まった。目の前の敵は、魔王よりも強大な相手であると瞬時に理解した。
気づけば、アーサーは生前の姿を取り戻していた。だが鎧のない生身の姿で、剣や武器は一切持っていない。完全に丸裸である。
せめて剣さえあれば。
アーサーがそう願うと、手の中に剣が現れた。
不思議に思ったが、やっと気づいた。この世界は夢と同じで、願えば何でも手に入るのだと。だから武装した自分をイメージしたら、魔王戦のような装備をすべて取り戻すことができた。
これならいける。さすがに巨人を消し去ることはできなかったが、アーサーにできる準備はすべて整えた。死ぬことがない今なら、いくらでも戦える気がした。
それからアーサーと巨人との戦いが始まった。両者のサイズが違いすぎるため、戦いにならないと思うだろう。しかし夢と同様、不条理ながらも整合性が与えられ、一対一で戦うように、巨人と剣を交えることができた。
この世界には昼夜の感覚がなく、日付という概念もない。肉体を失ったアーサーに疲れはなく、止まることなく戦いを続けることができた。
すると不思議なことが起きた。巨人がどんどん小さくなってきたのだ。最初はアーサーが大きくなったのかと思ったが、風景や渓谷の景色は変わっていない。だが風景と比較して、やはり巨人は小さくなっていた。
しばらく経って気づいたことだが、アーサーが強くなるほどに巨人は小さくなるようだった。つまりアーサーにとっての敵の強さが、そのまま巨人のサイズになっていたのである。
このまま戦っていくと、次第に巨人は消滅するのだろうか。アーサーにとって、終わりが見えたことは何よりの希望になった。
戦いばかりの日々に、アーサーの意識は麻痺してきた。自分の名も忘れ、天使から与えられた役目も忘れ、目の前の敵に集中するのみ。この巨人を消し去れば、自分が解放されると思っていた。
巨人といっても、今は自分より一回り大きいだけにすぎない。最近は縮小スピードも早まってきたし、奴が消滅するのもあと少しだろう。そう思っていた矢先、その時は突如として訪れた。
「アーサー!」
誰かが名前を呼ぶ声がした。だがアーサーは自分の名前を忘れていたため、最初それが自分のことだとは気付かなかった。
だが巨人は知っていたのだろう。その声がした途端、剣を引いた。
【強くなったな、アーサー】
初めて巨人の声を聞き、アーサーは魂がギュッと掴まれた気持ちになった。
「父さん?」
アーサーが戸惑っている間に、巨人は渓谷へ消えてしまった。
戦う前のことを思い出し、呆然とするアーサー。だがもう一度自身を呼ぶ声が聞こえた時には、すっかり別の場所に移動していた。
× × ×
アーサーはとある家庭にいた。身体は浮いており、天井付近から年若い夫婦を見下ろしている。妻の腹はふっくらと膨らみ、今すぐにでも出産しそうだ。
そして夫を見て、アーサーは驚いた。それは成長したアズールだったのだ。
「もし男の子が生まれたら、アーサーにしようと思っていたんだ。アーサーは俺の国では英雄で、とても素晴らしい人だった。その子にも、アーサーみたいになってほしいんだよ」
アズールは妻に向かって、子どもの名前をプレゼンしていたのである。
【違うだろ!】
アーサーは咄嗟に叫んだ。自分でも、なぜそう思ったのかわからない。だがアーサーは腹の子の名前を知っていたのだ。
「なんか違うと思うの」
アーサーは驚いた。自分の声は聞こえないはずなのに、アズールの妻が同じことを口にしたのだ。
アズールは目に見えて落胆していた。
「じゃあサアナはどんな名前がいいと思うんだ?」
「うーん」
サアナは腹を撫でながら考えた。サアナ自身は、何も考えていないようだった。
今なら腹の子の名前を、その名にできる。そう思ったアーサーは、腹の子の名前を呟いた。
【アズール】
やはりその声は二人に聞こえなかったのだろう。誰も反応しなかった。しかしすぐにサアナが閃いたようにこう言った。
「私はアズールだと思うの」
「ええ。君には僕の名前の由来を教えただろ。一族のことも」
「うん。でもそれを踏まえても、この子にはアズールって名付けたいのよ」
「二人もアズールがいたらややこしいよ。だからさ、ね、やめようよ」
「いーえ、決めました。この子はアズールです。ねー、アズールちゃーん。アズールジュニアちゃーん」
サアナが腹を撫でると、腹の子は強く蹴った。
「蹴った! ほら、喜んでるのよ。アズールって名前が気に入ったのね」
「えー。アーサーの方がいいよな、アーサー君」
アズールがサアナの腹を撫でると、ピクリともしなかった。
「ほら、気に入らないから拗ねて無視してる」
「逆じゃないかな? 嫌だから蹴ったとか」
「いーえ。この子は嬉しいとすぐにダンスするよ。だからパパの案は却下ね」
「おいおい、勘弁してくれよ……」
そんな夫婦のやり取りを、アーサーは微笑ましく見ていた。そう、自分の役目とは、腹の子であるアーサージュニアの守護なのだ。生まれていなくてもわかる。この子は特別な子だ。だから強い魂が必要だったのだと。まだ対面していないが、アーサーにはこの先、腹の子に起きることすべてが予知できた。そして自分が何をすべきかも。
この日の夜にサアナは産気づき、明朝に無事生まれた。腹の子はアズールジュニアと命名された。