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開通したばかりの汽車に揺られ、郡山駅で下車し、紅葉に縁取られた磐梯山と猪苗代湖を横目になおも数日。ようやく着いたその街は、ハルの暮らす東京よりもずっと静かで穏やかで、まるで時間の経ち方まで違うような、澄んだ青空がよく映える場所だった。露店に目を輝かせるハルの襟首を、父・庄助が摘まんで引きずること数回。辿り着いた家の戸を、庄助のわずかに震える手が叩くと、出迎えたのは彼と同じ四十頃の、藍色の着物姿の男だった。
「……野口信さん、ですか」
「はい。菱松商社の近藤庄助さんですね。遠いどごろがら、良ぐ来でくだせいやした」
低く柔らかな福島弁がハルの耳をくすぐる。
「娘のハルです」
「初めまして」
ぴょこんと頭を下げた拍子に、肩で切り揃えた髪が首と頬をくすぐる。視線の先に見慣れぬ物を見つけて、ハルはゆっくりと視線を添わせた。
上質な木でできた、杖のようだった。けれど、少し反りがあり、上から握るための柄がない。左手が乗って支えになっているから杖だとわかる、素朴なものだ。
「不思議な杖をついているのね」
「ハル」
非礼を窘める父に対し、男は軽く笑って頷いた。
「これが案外使い良いんでなし。……戊辰で、左足をやられつまっで。手放せなぐなりました」
戊辰。ハルが生まれる四年前に起きた、大きな戦争。この会津は甚大な被害を受けたと聞く。
「初対面で、失礼なお願いなのですが」
父の声は、今度は明らかに震えていた。
「外国式の挨拶を、しても?」
首を傾げる男を、庄助は両腕を広げ抱きしめた。
「ちょっと、父様!」
慌てて引き剥がしにかかるハルに、男は肩越しにそっと首を振った。
「……いや、大丈夫だがら」
空いた右手を父の背中に回して二、三度叩いてやる。まるで慰めるように、労るように。照れくさそうに離れる父に、彼は右手を差し出した。
「僕が知っでいる挨拶はこっちだがら、驚ぎました」
「すみません、突然」
暑くもないのに額の汗を拭い、庄助の右手が握る。ハルの方にも手を差し出して、彼は目元に物柔らかな笑みを乗せて告げた。
「ようごそ、会津へ」
庄助が漆器部門に異動になり、顔合わせに伺いたいと商社馴染みの会津塗問屋に連絡したところ、宿泊先として名乗り出てくれたのが所属職人の信だった。
「まさが本当に娘さんがご一緒とは思わねがっだがら。長旅で疲れでねぇですか?」
「全然! 鉄道ができる前から父様とあちこち出かけていたのだもの、このくらい余裕よ」
旅装束を解き、もらった手ぬぐいで足を拭きながらハルは朗らかに笑う。十二の頃にはお供していたのだから、三年も経てば旅慣れたものである。
「連れてけって毎回煩いんですよ。このままじゃ嫁のもらい手がないって、お袋はいい顔しないんですが」
「余計なお世話よ。あたしも商人になりたいんだもの」
唇を尖らせたハルに、信が目をぱちくりさせた。
「商人に?」
「そうよ!」
拭き終えた足で勢いよく立ち上がり、大きく両手を広げて、ハルはくるりと目を輝かせる。
「この国はね、綺麗なもので溢れているの! 織物、塗物、焼物、木工金工、和紙に錦絵! きっと西洋にだって負けてないわ。そういう宝物を見つけて集めて広めるのが、あたしの夢!」
「……と、こんな具合でしてね。とんだ跳ねっ返りですよ」
娘の隣で諦めたように父が笑う。二人をしばし見比べて、やがて信はいいえ、と呟いた。
「良い夢だ。僕ら職人の希望だがら。明日、旦那様や職人仲間に会わすのが楽しみです」
信の家は代々塗物職人で、二,三年前までは年老いた両親と暮らしていたという。仏壇に手を合わせ、茶をすすり一心地すると、信は塗部屋に、庄助は街に出ることになった。
「ハルはどうする? 少し休むか?」
「そうねぇ……」
悩んだ末に手を打ち合わせると、ハルはよりによって信の方を向いた。
「信さんのお仕事を見学したいのだけれど、良いかしら?」
「……だ、駄目だ!」
まるまる一拍置いて、庄助が叫ぶ。
「塗物の仕事はものすごく繊細なんだ! 特に野口さんは塗師だろう、万が一埃でも立ててみろ、商品にならなくなる!」
「埃なんて立てないわよ! くしゃみもしないし話しかけたりもしない。じーっと、壁の一部になったつもりで座ってみているわ。だからお願い!」
「駄目だ! 家族だってめったに入れない神域だぞ! 来たばっかりの喧しいお前がそんな約束守れるか!」
「失礼ね! 少なくとも今の父様よりは喧しくないわよ!」
「鏡を見ろ鏡を!」
「はい、そごまで」
二人の顔の間に杖を挟むと、信はハルに向けて人差し指を立てた。
「お父つぁんの言うごどは本当だべ。塗りの仕事で部屋さ入れんのはお弟子さんくれぇだ。だがら、もしなんじょしても僕の仕事が見でぇんなら、僕の指示には絶対に従っでもらう。今みてぇに反発すっごどは許さない」
許さない、と言った瞬間の、柔らかな声音とは裏腹の瞳の鋭さに、ハルばかりか庄助までが気圧されたように黙り込んだ。それでも、と信は問う。
「そんじも、見でぇのがし?」
「……えぇ」
厳かに、しかし挑むように、ハルは応えた。
「信さんの指示には絶対に従う。邪魔はしない。息だって止めてみせるわ。あの素敵な漆器がどうやってできるのか、あたしには知る義務があるんだもの」
面と向かって言い切ったハルに、しばし目を細めて。信は、確と頷いた。
「んだら、まずは着替えてくなんしょ。荷物さ置いだ部屋の引出に母の着物があっがら、それさ使いっせい」
「ありがとう! すぐに支度するわ!」
慌ただしく駆けていった娘を見送ると、庄助は深々と信に頭を下げた。
「本当に申し訳ない。娘のわがままを聞いて下さって、ありがとうございます」
「良いですよ。つうと嬉しかっだです。……真っ直ぐなところは若い頃の庄さんそっくりだ」
小さく続いた言葉に、庄助の顔が勢いよく上がる。見開かれた目にみるみる涙が盛り上がり、慌てて片腕で隠し天を仰ぐと、唸るように呟いた。
「忘れちまったのかと思ったよ」
「忘れるもんかよ」
「何だよ、野口信って。誰かと思ったじゃねぇか」
「悪がっだよ」
強めに肩を叩いてやると、腕の下、庄助の固く引き結んだ唇が震えた。