恋はやり直しがきかない
「ありがとうございました」
「いいえー、お邪魔しました」
「こちらこそ、ありがとう」
制服を着た高校生に挨拶されて、私と陸は、音楽室を出る。白いワイシャツに、紺色のネクタイ、リボン。紺色のスラックスやスカートという、シンプルな夏服は、去年までは私たちも毎日着ていたものだ。
「お、ありがとうな」
「失礼します」
顧問の先生が、片手を挙げて挨拶する。ずんぐりむっくりした、丸眼鏡の先生は、優しそうに見えるが、合奏になると怖いのだ。足りない点を徹底的に指摘されるので、悔しくて、泣いたこともあった。
このあと先生は音楽室に向かい、先程一緒に練習した彼らと、厳しい合奏に臨むのだろう。当たり前だった毎日は、私たちがそこから抜け出しても、人を変えて同じように続いている。
「楽器なんて、久しぶりに触ったわ」
「陸は大学では、音楽はやってないんだっけ?」
「ああ。俺さ、ダブルダッチのサークルに入ったんだ」
校舎を出て、よくお弁当を食べていた中庭を歩く。ベンチに、葉の影がちらちらと動いている。
陸は、前髪をねじりながら、私の質問に答えた。高校では、一緒にパーカッションを担当していた、同級生。初めて染めたというその髪は、太陽の下で茶色く光っていた。
白いTシャツに青の半袖を羽織り、下は黒い細身のズボン。ありがちな服装も、陸がしていると、新鮮に見える。私の記憶にある陸はまだ、制服姿の彼だ。
「ダブルダッチ?」
「そう。二本の縄跳びで、跳ぶやつ」
「あー……そんなのやってるんだ、意外」
「俺、パーカスだったし、リズム感あるだろ? けっこう合っててさ、雰囲気とか」
「へえー……」
中庭を抜けると、広いグランドに出る。風が吹くと砂埃が舞う中で、サッカー部が走り回っている。奥の野球場では、野球部が大きな声を掛け合っている。遮るもののない青い空の下で、爽やかに汗を流している。
「早希は、大学では何やってるんだっけ」
「軽音サークルに入った。それこそ、ドラム叩いてる」
「都会の軽音サークルとか、ちゃらいなぁ」
陸が軽く蹴った小石が、転がって、ベンチの支柱にかつんと当たる。暑い。私は鞄から、水筒を取り出す。
「ちゃらくないよ。ひとまとめにしないで、真面目なサークルだから」
「早希は真面目だもんな。……準備がいいな、俺にもくれよ」
「え……」
水筒に入れてきた麦茶は、冷たくて美味しい。ごく、と喉を鳴らして飲む私に、陸が手を差し出してくる。
戸惑いながら、私は水筒を渡した。受け取る陸の、笑顔の白い歯が眩しい。
「陸ってそういうこと、する人だっけ」
「あー……なんか大学で運動始めたら、抵抗なくなったわ。スポドリ共有したりとか、しねえ?」
「しないでしょ。陸の方がちゃらいんじゃないの」
「俺も真面目だし……うわっ、こぼした」
水筒に口をつけ、傾ける陸。口端から麦茶が垂れ、慌てて口を離し、水のかかったシャツを叩く。
「旨かった、ありがと」
「……ただの麦茶だよ」
「それでも。こういう暑い日に、冷たいお茶を飲むって、最高だよな」
陸の視線の先には、青い空。ぎらぎら照りつける太陽が、まさに夏、という雰囲気を醸し出している。
「早希、お前このあと何かある?」
「ないけど」
「なら、昼飯でも食べに行こうぜ。ほら、よくパートの皆で行ってたファミレスとか、久々に行きたくね?」
食べ物のことを考えると、急にお腹がすく。私は胃のあたりを軽く押さえ、「そうだね」と賛成した。
カラカラ、と軽い音が隣から聞こえる。私と、自転車を押す陸は、広い歩道を並んで歩いていた。
「自転車で来たんだ」
「そう。これ、高校時代のままだぜ。ほら、駐輪場のステッカーもそのまま」
後輪についている、赤いステッカーを見せられる。昨年度末が有効期限になっている、高校の駐輪場のステッカー。
「大学は、自転車ではいかないの?」
「電車のが速いからな。夏は汗やばいし」
「ふうん……」
カラカラという車輪の音と、ふたつの足音。規則正しい音の繰り返しの中で、ぽたりと、顎から汗が落ちる。
「暑い……」
「俺たちよく、こんな中で毎日部活やってたよな」
「ほんとねー……」
体力作りなんて言って、走ったこともあった。あの頃の勢いが、今となっては、信じられない。
「あー……涼しい」
「二名様ですか?」
「はい」
ファミレスの店内は、冷房がしっかり効いていて、じっとりかいた汗を一気に冷やす。
店員に促され、二人がけのテーブルへ座った。
「奥、行けよ」
「え、うん……ありがと」
陸に奥のソファ席を譲られ、腰掛ける。
「……なんか不思議だね、二名様って言われるの」
「いつももっと多かったもんな。ドリンクバーから水もらってくるわ。氷いる?」
「いる」
陸は両手に氷の入ったコップを持ち、席に戻ってきた。既に結露がたくさんついたグラスを取り、水を飲む。
「早希、何にする?」
「これ」
「お前、それ好きだなぁ」
私は、高校時代にいつも頼んでいた、ドリアを指差す。安いし、クリームがとろとろしていて、美味しいのだ。
「陸はいつも悩んでたよね」
「そうだな。でももう、決めた」
「え、はや」
「だろ? 学んだんだよ」
呼び出しボタンを押し、陸が店員に選んだメニューを注文する。ドリンクバーのセットだ。ドリンクバーをつけて、何時間も粘っておしゃべりしていたのを思い出す。
「俺さ、今すぐ選んだだろ?」
「うん」
「奥の席は早希に譲ったし、水取ってきたり、注文したり」
「してたね」
「学んだんだよ、俺。紳士的な振る舞いってものを」
ふふん、と自慢げに鼻を鳴らす陸。言われてみれば、陸のそういう振る舞いは、高校生の頃は見なかった。メニューはいつまでも悩んでいたし、奥の席には、真っ先に座っていた気がする。
「そのくらい、普通じゃない」
「え? そんなことないだろ」
「先輩とか、男女関係なく、みんなそういうこと気にしてるよ」
奥の席を譲るとか、水を取ってくるとか。誰もが率先して動こうとしている、学科やサークルの面々の様子が浮かぶ。
「早希も?」
「もちろん」
そういうことに気づいて行動できないのは、「気が利かない人」なのだろう、たぶん。私も周囲の雰囲気に負けないように、あれこれと気を配っている。
「ふーん……ドリンクバー、何が良い? 取って来ようか」
「ううん、自分で行く」
オレンジジュースを選んで入れている横で、陸はコーラとメロンソーダを半々にした飲み物を合成していた。
「俺、こうやって飲むの好きだったんだよなあ」
「今もそれ飲んでるの?」
「いや、久々だよ。せっかく来たからさ」
席について、メロンソーダの匂いのするコーラを飲んだ陸は、「微妙」と眉をひそめる。
「あんなに美味しい美味しいって、飲んでたのに?」
「驚くほど微妙。飲むか?」
「私はいい。もともと好きだったわけじゃないから」
「皆で飲むから、美味しかったんかなぁ……」
たしかに。陸の言葉に続くものがなくて、ちょっとした沈黙が訪れる。空間に響き渡る、大きな笑い声。離れた席に座る、見たこともない後輩が、何人かで楽しそうに腹を抱えていた。
「ああやって笑うこと、最近ないわ、俺」
「大学楽しくないの?」
「そういうわけじゃないけど……え、早希はああいうノリ、まだある?」
私は、高校生の集団に目をやる。鞄の形からして、テニス部だろうか。こんがり焼けた彼らは、互いの携帯を覗き込んでは、けらけらと小気味好い笑い声をあげている。
「ない。わかるよ、なんとなく違うよね」
「そうなんだよ。都会でも同じなんだな」
「……別に、大学であることは変わんないから」
ストローに口をつけ、ジュースを吸う。オレンジは水っぽく、なんだか薄い。このジュースが好きで、お腹がたぷたぷになるくらい、いつも飲んでたのに。
「同じ高校のやつ、いるんだっけ?」
「いないよ。陸は、えーっと、あの人と一緒なんでしょ、五組の」
「田中な。全然喋らねえけど」
「ふーん……」
田中と言われても、顔がぼんやりとしか浮かばない。
「写真部の人だっけ?」
「そうそう。背が高くてさ、色めっちゃ白い……」
「あー! あのモデルみたいなイケメン。思い出した思い出した」
ぱっと鮮やかに顔が蘇って、思わず声を上げる。彼の顔が蘇るとともに、「田中くんかっこいい」と噂していた友達との会話や、彼女に連れていかれた文化祭の写真部の展示なども、連なるように思い出される。
「うわ、めっちゃ懐かしい。写真部の展示、見に行ったもん私」
「見に行ったのかよ」
「そう。誘われたんだよ、なんか学校の写真いろいろ撮ってて、けっこう凄かった」
「おまたせしましたー」
身を乗り出しかけた私の前に、ドリアの皿が置かれる。陸の前には、肉がたくさん載ったプレート。
「うわ、すごい肉」
「動くようになったら、今まで以上に肉食いたくなってさ」
「へえー……そういうもんなんだ」
食べているときって、無言になりがちだ。熱いドリアをふうふう冷ましながら、口に運ぶ。
「うん、美味しい」
「美味しそうに食べる女って、いいよな」
「は?」
「いや、何でも」
陸は肉を豪快にナイフで切り分け、大きなひと口で食べている。肉の焼ける、良い香り。じゅう、という音が、なかなか食欲をそそる。
「俺、ここ払うから」
「え、いいよ別に、安いし払うって」
「バイトしてるからさ。お前、してないだろ?」
押し切られ、陸がまとめて会計を済ませる。たった数百円。大した金額ではないが、なんだかもやもやした。
「何のバイトしてるの?」
「居酒屋。チェーン店なんだけど、そっちにもあんのかな」
「あー。あるある。新歓の二次会で行ったわ」
バイトをしている陸なんて、ますます想像つかない。じっと顔を見て、頭にバンダナを巻いている顔を想像していると、陸は「なに?」と窺う表情をした。
「いや……なんか、陸も変わったなぁって思って」
「え? 全然変わってないだろ」
「変わったよ。髪も染めたし」
「見た目だけじゃんか」
そういう訳でもないのだけど、うまく言語化できない。私が笑って首を傾げると、陸は「早希だって変わった」と言い返してきた。
「変わってないよ、私は何にも」
「変わっただろ。髪も切ったし、なんかおしゃれな服着てるし」
「制服着てないだけじゃん」
どんぐりの背比べ。同レベルの言い合いの後は、どちらからともなく肩をすくめた。
「久しぶりに早希に会って、部活行って、なんか高校時代思い出したわ」
「私も。何にも変わってないつもりだったけど、部活には知らない新入生もいるし、先生はよそよそしいし、なんかもう高校生じゃないんだなーって思っちゃった」
ちょっとした違いから、自分たちがもう、昔の自分たちじゃないんだと思ってしまった。それは、喜ばしいことかもしれないし、ちょっと寂しくもある。
「……このあと、カラオケ行かね?」
「ふたりで?」
「仕方ないだろ、他の奴は予定が合わなかったんだから」
私が帰省に合わせて部活を見たいと声をかけたとき、乗ってくれたのが陸だけだった。地元の大学に進学した他の皆は、やれバイトだ、部活だ、サークルだ、旅行だと、充実した日々を過ごしているらしい。
「高校時代に歌ってた曲縛りで行こうぜ」
「あ、いいねそれ。それなら行く」
なんとなく、このまま帰るのは惜しい。提案に乗ると、陸は自転車の向きを変えた。行き先は分かっている。高校時代はいつも、フリータイムが安くて、ドリンクバーもついている、駅近のカラオケ屋に行っていた。
「あーっ懐かしいそれ、よく歌ってたね、陸」
「だろ? 好きなんだよなあ、これ」
「それ、早希じゃなくて、智子が歌ってたやつじゃね?」
「いいでしょ、歌いたかったんだから」
「これ、一緒に歌おうぜ」
「えーっ、コンサートでやった合唱曲じゃん」
最後に選んだのは、場違いな合唱曲。伴奏に合わせて、陸は男性パートを、私はアルトを歌う。
「……ソプラノいないと、ここ静かだね」
「主旋律ないとどこ歌ってんだかわかんなくなるわ」
最後の伴奏が鳴り終わり、無駄に採点画面が出る。
「点数めっちゃ低い」
「主旋律いないからな」
「うけるんだけど」
あはは、と声を上げて笑う。ひぃ、と息を吸いながら陸を見ると、彼もお腹を押さえていた。
「久々に笑ったら、ほんと、腹痛い、やべえ」
「語彙力なくなりすぎ」
一頻り笑ったところで、陸がぱっと顔を上げた。
「海行こうぜ、海」
「海?」
「今、背景に海流れてんの見てたら、海行きたくなった」
確かに合唱曲の背景では、カラオケにありがちな、歌詞と関連のない映像が流れていた。言われてみれば、海だったかもしれない。
「海、ちょっと遠くない?」
「自転車ならそんなかからないって」
「私、自転車じゃないから」
「俺乗せるからさ。なんか楽しかったし、このまま帰るの寂しいじゃんか」
寂しいというのは、なんとなくわかる。陸に半ば押し切られる形で、私は彼の自転車の後ろに座ることになった。
「二人乗りとか、小学生以来なんだけど。ちょ、怖い」
「体傾けるとまじで転ぶから。なんなら俺の腰掴んどけよ」
「こう? うっわ、こわ」
脚を離すと体がぐらりと傾き、転びそうな怖さで陸の腰を掴む。乾いた音を立て、自転車が進み始めた。
「ここ、覚えてねえ? 他校に練習に行くとき、通っただろ」
「あー……わかる。懐かしい」
川沿いの、平坦な道。もう少し行くと橋があって、隣の高校がそこにあった。合同練習のときには、ここを通って、練習場所に向かったこともあった。
川の水が、きらきら輝いている。自転車が進むと、髪がなびく。暑いけど、風は爽やかだった。
「あ、鯉」
ぽちゃん、と水の跳ねる音。大きめの鯉が身を翻し、また水中に体を落とした。
「見た?」
「俺、前見てるから見えなかった」
「そっか」
川幅は少しずつ、広くなる。水の色が濃くなり、吹く風に、潮の香りが混ざってくる。
「もう暗くなるね」
「夏っていつまでも明るいから、時間の感覚なくなるよな」
「練習終わっても明るかったもんねー、冬は真っ暗だけど」
この辺りの海は、浜辺のあたりが海浜公園になっている。駐輪場に自転車を止めた陸と並んで、公園の中に入った。
夜も近づき、ウォーキングをするご老人も、この時間にはもういない。犬の散歩をしている人とたまにすれ違いながら、海を目指して歩く。草陰から、鈴虫だかコオロギだか知らないが、涼しげな虫の声が聞こえる。
「ここの鯉、餌やれるんだよ」
「そうなの? 初めて聞いた」
「可愛いよ。ほら」
公園の中には池があり、鯉が泳いでいる。餌やり用なのか、少し張り出したところから顔を出すと、鯉が一気に集まってくる。
「可愛い……?」
無数の鯉の口が、水面に現れる。必死な彼らは、鯉の上に鯉が乗っているような状態だ。近くにあった鯉の餌販売機で餌を買い、陸がぽい、と水面に投げる。
ばしゃばしゃばしゃ!
「こわ」
「可愛いだろ。こんな必死に、餌食べて」
水飛沫を上げ、鯉が餌に群がる。
「やってみろよ」
「えー、私は」
「いいから」
鯉の餌を手に取り、水面を見る。鯉がぱくぱく口を開け、餌を待っている。餌を投げると、大きな鯉が、それをかっさらって行った。小さな鯉たちも一心に口を開けて、残った餌のかすを食べている。
「まあ、ちょっとは可愛いかも」
「だろ? 俺、たまに来てたんだよな」
「なにそれ、病んでたの?」
「まあな」
餌を全部水面に落とし、陸は手を払う。海に向かって歩きながら、「三年の終わりとか、よく来てた」と続ける。
「三年の終わり? 最近だね」
「いろいろ思うところがあってさ。ほら、そろそろ海だ」
「おお……!」
防風林を抜けると、一気に目の前が開ける。広い砂浜と、暗い海。ざざ、と寄せては返す波の音。
「海にくるの、すごい久々かも」
「向こうは近くに海はないのか?」
「歩いていける距離にはないんだよね」
砂浜を歩くと、靴が砂にずず、と埋まる。砂から足を抜きながら、一歩ずつ進む。
「えー、夜の海って、静かなんだね。初めて来た」
「まじ? 打ち上げは?」
「ああ、クラスの打ち上げで来たことあるけど。あの時は皆いたから、賑やかだったよ」
さく、と砂を踏む音。波の音。遠くから聞こえる、虫の鳴き声。
「海に入る?」
「いや、それはいいや」
「なら、この辺りで座ろうぜ。ほら、これ敷けばいいから」
「え? いいよー、そのままで」
「砂まみれになるだろ、そのスカート、おしゃれなのに」
砂の上に、陸は脱いだ半袖を置き、私に座らせる。仕方ないから、その上に座った。人の服の上に座るなんて、なんだか居心地が悪い。Tシャツ一枚になった陸は、そのまま砂の上に座る。
「いつ、向こうに戻るんだ?」
「まだしばらくいるよ。サークルもあるから、夏休みが終わる前に、帰るけど」
「そうか……」
後ろに手をつき、陸は空を見上げる。私もまねして、空を見た。街の光で明るいけれど、空には星がいくつか見える。
「俺、早希は同じ大学に進学すると思ってたんだよな」
「……第一志望に、落ちると思ってたってこと?」
「いやー……けっこう無謀な挑戦だっただろ。正直、記念受験で、地元に進学するんだと思ってた」
「まあ……」
そう思われても仕方がない程度には、志望校は私の実力から離れていた。過去問を何度も繰り返し、朝から晩まで勉強して、ぎりぎり掴んだ合格だったのだ。
「就職は、地元でするのか?」
「わかんない。でも、大学もあっちだし、向こうで探すかも」
「じゃあ本当に、戻って来ないんだな」
「まだ決めてないよ。可能性はあるってだけ」
「はあー……」
深いため息とともに、陸が後ろに体を倒す。ごろんと寝転がった姿は、気持ち良さそうだ。
「いいな、それ。私もやる」
「汚れるぞ」
「少しくらい砂だらけになったって、いいって」
後ろに寝転ぶと、地面は案外、ひんやりしていた。潮の香り。波の音。空には、星。涼しい風が吹いてきて、なかなか幻想的な空間だ。
「こんなロマンチックなとこ、あったんだ。来たことなかった……」
「俺、高校の頃に何度か来て、いつか女子を連れてこようと思ってたんだよ」
「それ、私で良かったの?」
「ああ、良かった」
砂の上で首を傾けると、陸もこちらを見ていた。暗い中でぼんやりと見える陸の顔は、いつものふにゃふにゃした何も考えてなさそうな顔より、ちょっと凛として見える。
「俺、早希と同じ街で、就職しようかな」
「なんで? 地元が好きだから、地元を選んだんじゃなかったっけ」
「地元は好きだけど。早希はもっと好きだから」
……。
「え」
「……驚いてる」
「驚い、た」
驚いたという言葉がふさわしいのかも、わからない。私の思考は、今、停止している。
「驚くんだな、やっぱり。俺さ、早希と同じ大学に進学して、一緒に通学して、同じサークル入って、楽しくやれると思ってたんだよ。勉強もしたかったけど、それが俺の、ひとつの理想だったわけ」
「陸、」
「なのに、第一志望に受かった、とか言って。めっちゃショックだったわ、俺。早希はひたすら嬉しそうにしてるし」
はあ、と再びのため息。陸は頭を上に戻す。
「せめて少しでも俺と離れるのを残念がってくれたら、俺の恋心も報われたのに。俺のことなんか、完全に眼中になかったよな」
「まあ……そのときは。ごめん」
謝ることしかできなくて、もぞもぞと、くぐもった声で言う。
「俺、あれは失恋でカウントしてるから。俺の高校時代三年をかけた、苦い片思いの記憶」
「三年を?」
「なあ、まじで気づいてねえの?」
私の驚いた声に、陸の驚いた声が重なる。
「私……陸に好きとか言われたっけ」
「それは、言ってない」
「じゃあわかんないよ」
「いや、でも周りには、ばればれだって言われてたんだけどなあ……」
そう独りごちる陸の低い声が、波の音に混ざり、心地よく耳をくすぐる。
「告白されたつもりも、振ったつもりもないのに、勝手に失恋されてたんだね」
「なら早希、お前、俺が今、付き合おうって言ったらオーケーするのか?」
変わらない声のトーン。なのにそれは、妙に真剣味を帯びて響いた。茶化してはいけないと思って、私は唾を飲み込む。
今、付き合おうって言われたら? それは……。
「今は……だって、私は地元にいないから」
「ほら、そう言うだろ? やっぱり、お前が地元を出た時点で、それはもう、失恋だったんだよ」
陸の言うことは、もっともだ。何も間違っていない。高校一、二年の頃ならまだしも、志望校への合格が決まった私は、地元に残る陸と付き合うことはなかっただろう。
「早希の大学に編入したら、俺、ストーカーかなあとか、思う」
「いや……わかんない……」
「実際、あの大学って、俺の興味ある研究をしてる研究室があってさ。まあそんなことも、まじめに考えたりする。非現実的なのはわかってるし、お前が気にするから、実行もしないけどさ……今でもけっこう好きなんだよ俺、早希のこと」
言葉が真っ直ぐ刺さってきて、なんだか胸が締め付けられて、苦しいような感じがした。この苦しさは、陸が感じた苦しさなんだろうか。
「でも」
「何にも言うなって。俺、これ以上振られたら、傷つくから」
今何を言っても、私の言葉は多分、墓穴にしかならない。言葉を呑んで、空を見上げた。風の音、波の音。そこに、心臓のどくどくする音が、加わる。さらに、どーん、と深く響く音。ぱらぱら、と軽く弾ける音。
「早希、花火だ」
「え? ……ほんとだ」
「今日、ナイターなんだよ」
湾状になっている海岸の向こうの方で、赤い花火が上がる。青い花火、緑、色とりどり。大輪の花が咲いて、ぱらぱら、と細かく弾けて散っていく。
「ナイター、野球の?」
「そう。あのスタジアム、夜は花火を上げるんだ」
「へえ……」
勢いよく上がった花火は、白い煙に変わって散り、そして余韻と沈黙が残る。
「……綺麗だったね」
「ああ。夜の海で、周りには誰もいない。花火。最高のシチュエーションだと思うだろ?」
「うん」
「これをさ、早希とやりたかったんだよ」
何も言えなくて、私は黙った。嬉しいような、切ないような。私が彼の恋人であればそれは完璧だったのかもしれないが、実際そうではないし、遠距離になるのに、無責任にオーケーなんてできない。
「……満足した。帰るか」
「ありがと、連れてきてくれて」
「俺こそ。今日はありがとうな。良い思い出になった」
帰り道の寂しさと、気まずさ。静かに暗い防風林を抜け、もう誰もいない公園を通る。駐輪場で自転車を取り、私は陸の後ろに乗る。後ろから見る陸の背中は、大きくて、砂だらけで、少し頼もしかった。砂を軽く払ってから、行きと同じように、陸の腰を掴む。
「駅まで送る」
「ありがとう」
自転車は、進み始める。潮の香りが遠のいていく。
「……ごめんね、なんか私」
「いや……俺こそ、雰囲気に呑まれて、余計なこと言った。嫌だったよな、ごめんな」
「……ううん、嫌ではないよ。大丈夫」
困ったけど、嫌ではなかった。今こうして二人乗りしていても、嫌悪感は何もない。
「……また帰省したときには、遊ぼうな」
「そうだね」
もし、もっと早く、陸の気持ちに気付いていたら。今ここで、恋人として過ごす、別の道があったかもしれない。
僅かに頭を下に向けると、陸の背中が近づいた。汗と柔軟剤が混ざったような甘い香りが、ふわっと漂う。
「……陸って、いい匂いするんだね」
「は? 早希お前、何嗅いでんの? やめろよ!」
陸が動揺して声を揺らし、自転車ががたんと跳ねる。
「きゃっ」
「うわ、口に虫が入った!」
「えっ、虫?」
「今通った、街灯の下で」
ぺっ、と陸は唾を吐く。振り向くとたしかに、街灯の光には、小さな虫がたくさん飛んでいた。
「うっわ、かわいそ……」
「気持ち悪い。もう出したけど」
うえぇ、と濁った声。私たちの他愛もない会話を乗せた自転車は、川沿いの道を離れ、駅前の通りに入った。たくさんの街灯と、まだ活動するたくさんの人たち。飲み会帰りの赤ら顔したサラリーマンが通る横には、もうあの海岸の余韻も何もなかった。
「今日は、ありがと。本当に楽しかった」
「俺も。また連絡する」
「うん、また」
互いに背を向け、歩き始める。振り向きはしない。改札を通り抜け、ポケットから、携帯を取り出す。画面には、いくつかの通知が出ていた。
『智子:陸とのデート、どうだった?』
そのひとつは、部活の仲間からの、今日の首尾を問うもの。私は画面を開き、『普通に楽しかったよ』と返す。
仲間内では、私が高校生の頃に彼に懸想していたことは、周知の事実だ。同じパートで、優しく後輩に教える陸を見て、憧れたのは高二の頃。そのあと入試勉強が始まって、それどころではなくなって、……今に至る。
あのとき、どっちかが言っていれば、何か違ったのかな。
考えても仕方ないことを考え、私は携帯をポケットにしまう。電車の窓から、外を見る。建物に隠されて、もう海は見えない。
電車の規則正しい、音と揺れ。それに身を任せ、私は陸のいるところから、どんどん離れて行った。