表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

恋はやり直しがきかない

作者: 三歩ミチ

「ありがとうございました」

「いいえー、お邪魔しました」

「こちらこそ、ありがとう」


 制服を着た高校生に挨拶されて、私と陸は、音楽室を出る。白いワイシャツに、紺色のネクタイ、リボン。紺色のスラックスやスカートという、シンプルな夏服は、去年までは私たちも毎日着ていたものだ。


「お、ありがとうな」

「失礼します」


 顧問の先生が、片手を挙げて挨拶する。ずんぐりむっくりした、丸眼鏡の先生は、優しそうに見えるが、合奏になると怖いのだ。足りない点を徹底的に指摘されるので、悔しくて、泣いたこともあった。

 このあと先生は音楽室に向かい、先程一緒に練習した彼らと、厳しい合奏に臨むのだろう。当たり前だった毎日は、私たちがそこから抜け出しても、人を変えて同じように続いている。


「楽器なんて、久しぶりに触ったわ」

「陸は大学では、音楽はやってないんだっけ?」

「ああ。俺さ、ダブルダッチのサークルに入ったんだ」


 校舎を出て、よくお弁当を食べていた中庭を歩く。ベンチに、葉の影がちらちらと動いている。

 陸は、前髪をねじりながら、私の質問に答えた。高校では、一緒にパーカッションを担当していた、同級生。初めて染めたというその髪は、太陽の下で茶色く光っていた。

 白いTシャツに青の半袖を羽織り、下は黒い細身のズボン。ありがちな服装も、陸がしていると、新鮮に見える。私の記憶にある陸はまだ、制服姿の彼だ。


「ダブルダッチ?」

「そう。二本の縄跳びで、跳ぶやつ」

「あー……そんなのやってるんだ、意外」

「俺、パーカスだったし、リズム感あるだろ? けっこう合っててさ、雰囲気とか」

「へえー……」


 中庭を抜けると、広いグランドに出る。風が吹くと砂埃が舞う中で、サッカー部が走り回っている。奥の野球場では、野球部が大きな声を掛け合っている。遮るもののない青い空の下で、爽やかに汗を流している。


「早希は、大学では何やってるんだっけ」

「軽音サークルに入った。それこそ、ドラム叩いてる」

「都会の軽音サークルとか、ちゃらいなぁ」


 陸が軽く蹴った小石が、転がって、ベンチの支柱にかつんと当たる。暑い。私は鞄から、水筒を取り出す。


「ちゃらくないよ。ひとまとめにしないで、真面目なサークルだから」

「早希は真面目だもんな。……準備がいいな、俺にもくれよ」

「え……」


 水筒に入れてきた麦茶は、冷たくて美味しい。ごく、と喉を鳴らして飲む私に、陸が手を差し出してくる。

 戸惑いながら、私は水筒を渡した。受け取る陸の、笑顔の白い歯が眩しい。


「陸ってそういうこと、する人だっけ」

「あー……なんか大学で運動始めたら、抵抗なくなったわ。スポドリ共有したりとか、しねえ?」

「しないでしょ。陸の方がちゃらいんじゃないの」

「俺も真面目だし……うわっ、こぼした」


 水筒に口をつけ、傾ける陸。口端から麦茶が垂れ、慌てて口を離し、水のかかったシャツを叩く。


「旨かった、ありがと」

「……ただの麦茶だよ」

「それでも。こういう暑い日に、冷たいお茶を飲むって、最高だよな」


 陸の視線の先には、青い空。ぎらぎら照りつける太陽が、まさに夏、という雰囲気を醸し出している。


「早希、お前このあと何かある?」

「ないけど」

「なら、昼飯でも食べに行こうぜ。ほら、よくパートの皆で行ってたファミレスとか、久々に行きたくね?」


 食べ物のことを考えると、急にお腹がすく。私は胃のあたりを軽く押さえ、「そうだね」と賛成した。


 カラカラ、と軽い音が隣から聞こえる。私と、自転車を押す陸は、広い歩道を並んで歩いていた。


「自転車で来たんだ」

「そう。これ、高校時代のままだぜ。ほら、駐輪場のステッカーもそのまま」


 後輪についている、赤いステッカーを見せられる。昨年度末が有効期限になっている、高校の駐輪場のステッカー。


「大学は、自転車ではいかないの?」

「電車のが速いからな。夏は汗やばいし」

「ふうん……」


 カラカラという車輪の音と、ふたつの足音。規則正しい音の繰り返しの中で、ぽたりと、顎から汗が落ちる。


「暑い……」

「俺たちよく、こんな中で毎日部活やってたよな」

「ほんとねー……」


 体力作りなんて言って、走ったこともあった。あの頃の勢いが、今となっては、信じられない。


「あー……涼しい」

「二名様ですか?」

「はい」


 ファミレスの店内は、冷房がしっかり効いていて、じっとりかいた汗を一気に冷やす。

 店員に促され、二人がけのテーブルへ座った。


「奥、行けよ」

「え、うん……ありがと」


 陸に奥のソファ席を譲られ、腰掛ける。


「……なんか不思議だね、二名様って言われるの」

「いつももっと多かったもんな。ドリンクバーから水もらってくるわ。氷いる?」

「いる」


 陸は両手に氷の入ったコップを持ち、席に戻ってきた。既に結露がたくさんついたグラスを取り、水を飲む。


「早希、何にする?」

「これ」

「お前、それ好きだなぁ」


 私は、高校時代にいつも頼んでいた、ドリアを指差す。安いし、クリームがとろとろしていて、美味しいのだ。


「陸はいつも悩んでたよね」

「そうだな。でももう、決めた」

「え、はや」

「だろ? 学んだんだよ」


 呼び出しボタンを押し、陸が店員に選んだメニューを注文する。ドリンクバーのセットだ。ドリンクバーをつけて、何時間も粘っておしゃべりしていたのを思い出す。


「俺さ、今すぐ選んだだろ?」

「うん」

「奥の席は早希に譲ったし、水取ってきたり、注文したり」

「してたね」

「学んだんだよ、俺。紳士的な振る舞いってものを」


 ふふん、と自慢げに鼻を鳴らす陸。言われてみれば、陸のそういう振る舞いは、高校生の頃は見なかった。メニューはいつまでも悩んでいたし、奥の席には、真っ先に座っていた気がする。


「そのくらい、普通じゃない」

「え? そんなことないだろ」

「先輩とか、男女関係なく、みんなそういうこと気にしてるよ」


 奥の席を譲るとか、水を取ってくるとか。誰もが率先して動こうとしている、学科やサークルの面々の様子が浮かぶ。


「早希も?」

「もちろん」


 そういうことに気づいて行動できないのは、「気が利かない人」なのだろう、たぶん。私も周囲の雰囲気に負けないように、あれこれと気を配っている。


「ふーん……ドリンクバー、何が良い? 取って来ようか」

「ううん、自分で行く」


 オレンジジュースを選んで入れている横で、陸はコーラとメロンソーダを半々にした飲み物を合成していた。


「俺、こうやって飲むの好きだったんだよなあ」

「今もそれ飲んでるの?」

「いや、久々だよ。せっかく来たからさ」


 席について、メロンソーダの匂いのするコーラを飲んだ陸は、「微妙」と眉をひそめる。


「あんなに美味しい美味しいって、飲んでたのに?」

「驚くほど微妙。飲むか?」

「私はいい。もともと好きだったわけじゃないから」

「皆で飲むから、美味しかったんかなぁ……」


 たしかに。陸の言葉に続くものがなくて、ちょっとした沈黙が訪れる。空間に響き渡る、大きな笑い声。離れた席に座る、見たこともない後輩が、何人かで楽しそうに腹を抱えていた。


「ああやって笑うこと、最近ないわ、俺」

「大学楽しくないの?」

「そういうわけじゃないけど……え、早希はああいうノリ、まだある?」


 私は、高校生の集団に目をやる。鞄の形からして、テニス部だろうか。こんがり焼けた彼らは、互いの携帯を覗き込んでは、けらけらと小気味好い笑い声をあげている。


「ない。わかるよ、なんとなく違うよね」

「そうなんだよ。都会でも同じなんだな」

「……別に、大学であることは変わんないから」


 ストローに口をつけ、ジュースを吸う。オレンジは水っぽく、なんだか薄い。このジュースが好きで、お腹がたぷたぷになるくらい、いつも飲んでたのに。


「同じ高校のやつ、いるんだっけ?」

「いないよ。陸は、えーっと、あの人と一緒なんでしょ、五組の」

「田中な。全然喋らねえけど」

「ふーん……」


 田中と言われても、顔がぼんやりとしか浮かばない。


「写真部の人だっけ?」

「そうそう。背が高くてさ、色めっちゃ白い……」

「あー! あのモデルみたいなイケメン。思い出した思い出した」


 ぱっと鮮やかに顔が蘇って、思わず声を上げる。彼の顔が蘇るとともに、「田中くんかっこいい」と噂していた友達との会話や、彼女に連れていかれた文化祭の写真部の展示なども、連なるように思い出される。


「うわ、めっちゃ懐かしい。写真部の展示、見に行ったもん私」

「見に行ったのかよ」

「そう。誘われたんだよ、なんか学校の写真いろいろ撮ってて、けっこう凄かった」

「おまたせしましたー」


 身を乗り出しかけた私の前に、ドリアの皿が置かれる。陸の前には、肉がたくさん載ったプレート。


「うわ、すごい肉」

「動くようになったら、今まで以上に肉食いたくなってさ」

「へえー……そういうもんなんだ」


 食べているときって、無言になりがちだ。熱いドリアをふうふう冷ましながら、口に運ぶ。


「うん、美味しい」

「美味しそうに食べる女って、いいよな」

「は?」

「いや、何でも」


 陸は肉を豪快にナイフで切り分け、大きなひと口で食べている。肉の焼ける、良い香り。じゅう、という音が、なかなか食欲をそそる。


「俺、ここ払うから」

「え、いいよ別に、安いし払うって」

「バイトしてるからさ。お前、してないだろ?」


 押し切られ、陸がまとめて会計を済ませる。たった数百円。大した金額ではないが、なんだかもやもやした。


「何のバイトしてるの?」

「居酒屋。チェーン店なんだけど、そっちにもあんのかな」

「あー。あるある。新歓の二次会で行ったわ」


 バイトをしている陸なんて、ますます想像つかない。じっと顔を見て、頭にバンダナを巻いている顔を想像していると、陸は「なに?」と窺う表情をした。


「いや……なんか、陸も変わったなぁって思って」

「え? 全然変わってないだろ」

「変わったよ。髪も染めたし」

「見た目だけじゃんか」


 そういう訳でもないのだけど、うまく言語化できない。私が笑って首を傾げると、陸は「早希だって変わった」と言い返してきた。


「変わってないよ、私は何にも」

「変わっただろ。髪も切ったし、なんかおしゃれな服着てるし」

「制服着てないだけじゃん」


 どんぐりの背比べ。同レベルの言い合いの後は、どちらからともなく肩をすくめた。


「久しぶりに早希に会って、部活行って、なんか高校時代思い出したわ」

「私も。何にも変わってないつもりだったけど、部活には知らない新入生もいるし、先生はよそよそしいし、なんかもう高校生じゃないんだなーって思っちゃった」


 ちょっとした違いから、自分たちがもう、昔の自分たちじゃないんだと思ってしまった。それは、喜ばしいことかもしれないし、ちょっと寂しくもある。


「……このあと、カラオケ行かね?」

「ふたりで?」

「仕方ないだろ、他の奴は予定が合わなかったんだから」


 私が帰省に合わせて部活を見たいと声をかけたとき、乗ってくれたのが陸だけだった。地元の大学に進学した他の皆は、やれバイトだ、部活だ、サークルだ、旅行だと、充実した日々を過ごしているらしい。


「高校時代に歌ってた曲縛りで行こうぜ」

「あ、いいねそれ。それなら行く」


 なんとなく、このまま帰るのは惜しい。提案に乗ると、陸は自転車の向きを変えた。行き先は分かっている。高校時代はいつも、フリータイムが安くて、ドリンクバーもついている、駅近のカラオケ屋に行っていた。


「あーっ懐かしいそれ、よく歌ってたね、陸」

「だろ? 好きなんだよなあ、これ」


「それ、早希じゃなくて、智子が歌ってたやつじゃね?」

「いいでしょ、歌いたかったんだから」


「これ、一緒に歌おうぜ」

「えーっ、コンサートでやった合唱曲じゃん」


 最後に選んだのは、場違いな合唱曲。伴奏に合わせて、陸は男性パートを、私はアルトを歌う。


「……ソプラノいないと、ここ静かだね」

「主旋律ないとどこ歌ってんだかわかんなくなるわ」


 最後の伴奏が鳴り終わり、無駄に採点画面が出る。


「点数めっちゃ低い」

「主旋律いないからな」

「うけるんだけど」


 あはは、と声を上げて笑う。ひぃ、と息を吸いながら陸を見ると、彼もお腹を押さえていた。


「久々に笑ったら、ほんと、腹痛い、やべえ」

「語彙力なくなりすぎ」


 一頻り笑ったところで、陸がぱっと顔を上げた。


「海行こうぜ、海」

「海?」

「今、背景に海流れてんの見てたら、海行きたくなった」


 確かに合唱曲の背景では、カラオケにありがちな、歌詞と関連のない映像が流れていた。言われてみれば、海だったかもしれない。


「海、ちょっと遠くない?」

「自転車ならそんなかからないって」

「私、自転車じゃないから」

「俺乗せるからさ。なんか楽しかったし、このまま帰るの寂しいじゃんか」


 寂しいというのは、なんとなくわかる。陸に半ば押し切られる形で、私は彼の自転車の後ろに座ることになった。


「二人乗りとか、小学生以来なんだけど。ちょ、怖い」

「体傾けるとまじで転ぶから。なんなら俺の腰掴んどけよ」

「こう? うっわ、こわ」


 脚を離すと体がぐらりと傾き、転びそうな怖さで陸の腰を掴む。乾いた音を立て、自転車が進み始めた。


「ここ、覚えてねえ? 他校に練習に行くとき、通っただろ」

「あー……わかる。懐かしい」


 川沿いの、平坦な道。もう少し行くと橋があって、隣の高校がそこにあった。合同練習のときには、ここを通って、練習場所に向かったこともあった。

 川の水が、きらきら輝いている。自転車が進むと、髪がなびく。暑いけど、風は爽やかだった。


「あ、鯉」


 ぽちゃん、と水の跳ねる音。大きめの鯉が身を翻し、また水中に体を落とした。


「見た?」

「俺、前見てるから見えなかった」

「そっか」


 川幅は少しずつ、広くなる。水の色が濃くなり、吹く風に、潮の香りが混ざってくる。


「もう暗くなるね」

「夏っていつまでも明るいから、時間の感覚なくなるよな」

「練習終わっても明るかったもんねー、冬は真っ暗だけど」


 この辺りの海は、浜辺のあたりが海浜公園になっている。駐輪場に自転車を止めた陸と並んで、公園の中に入った。

 夜も近づき、ウォーキングをするご老人も、この時間にはもういない。犬の散歩をしている人とたまにすれ違いながら、海を目指して歩く。草陰から、鈴虫だかコオロギだか知らないが、涼しげな虫の声が聞こえる。


「ここの鯉、餌やれるんだよ」

「そうなの? 初めて聞いた」

「可愛いよ。ほら」


 公園の中には池があり、鯉が泳いでいる。餌やり用なのか、少し張り出したところから顔を出すと、鯉が一気に集まってくる。


「可愛い……?」


 無数の鯉の口が、水面に現れる。必死な彼らは、鯉の上に鯉が乗っているような状態だ。近くにあった鯉の餌販売機で餌を買い、陸がぽい、と水面に投げる。

 ばしゃばしゃばしゃ!


「こわ」

「可愛いだろ。こんな必死に、餌食べて」


 水飛沫を上げ、鯉が餌に群がる。


「やってみろよ」

「えー、私は」

「いいから」


 鯉の餌を手に取り、水面を見る。鯉がぱくぱく口を開け、餌を待っている。餌を投げると、大きな鯉が、それをかっさらって行った。小さな鯉たちも一心に口を開けて、残った餌のかすを食べている。


「まあ、ちょっとは可愛いかも」

「だろ? 俺、たまに来てたんだよな」

「なにそれ、病んでたの?」

「まあな」


 餌を全部水面に落とし、陸は手を払う。海に向かって歩きながら、「三年の終わりとか、よく来てた」と続ける。


「三年の終わり? 最近だね」

「いろいろ思うところがあってさ。ほら、そろそろ海だ」

「おお……!」


 防風林を抜けると、一気に目の前が開ける。広い砂浜と、暗い海。ざざ、と寄せては返す波の音。


「海にくるの、すごい久々かも」

「向こうは近くに海はないのか?」

「歩いていける距離にはないんだよね」


 砂浜を歩くと、靴が砂にずず、と埋まる。砂から足を抜きながら、一歩ずつ進む。


「えー、夜の海って、静かなんだね。初めて来た」

「まじ? 打ち上げは?」

「ああ、クラスの打ち上げで来たことあるけど。あの時は皆いたから、賑やかだったよ」


 さく、と砂を踏む音。波の音。遠くから聞こえる、虫の鳴き声。


「海に入る?」

「いや、それはいいや」

「なら、この辺りで座ろうぜ。ほら、これ敷けばいいから」

「え? いいよー、そのままで」

「砂まみれになるだろ、そのスカート、おしゃれなのに」


 砂の上に、陸は脱いだ半袖を置き、私に座らせる。仕方ないから、その上に座った。人の服の上に座るなんて、なんだか居心地が悪い。Tシャツ一枚になった陸は、そのまま砂の上に座る。


「いつ、向こうに戻るんだ?」

「まだしばらくいるよ。サークルもあるから、夏休みが終わる前に、帰るけど」

「そうか……」


 後ろに手をつき、陸は空を見上げる。私もまねして、空を見た。街の光で明るいけれど、空には星がいくつか見える。


「俺、早希は同じ大学に進学すると思ってたんだよな」

「……第一志望に、落ちると思ってたってこと?」

「いやー……けっこう無謀な挑戦だっただろ。正直、記念受験で、地元に進学するんだと思ってた」

「まあ……」


 そう思われても仕方がない程度には、志望校は私の実力から離れていた。過去問を何度も繰り返し、朝から晩まで勉強して、ぎりぎり掴んだ合格だったのだ。


「就職は、地元でするのか?」

「わかんない。でも、大学もあっちだし、向こうで探すかも」

「じゃあ本当に、戻って来ないんだな」

「まだ決めてないよ。可能性はあるってだけ」

「はあー……」


 深いため息とともに、陸が後ろに体を倒す。ごろんと寝転がった姿は、気持ち良さそうだ。


「いいな、それ。私もやる」

「汚れるぞ」

「少しくらい砂だらけになったって、いいって」


 後ろに寝転ぶと、地面は案外、ひんやりしていた。潮の香り。波の音。空には、星。涼しい風が吹いてきて、なかなか幻想的な空間だ。


「こんなロマンチックなとこ、あったんだ。来たことなかった……」

「俺、高校の頃に何度か来て、いつか女子を連れてこようと思ってたんだよ」

「それ、私で良かったの?」

「ああ、良かった」


 砂の上で首を傾けると、陸もこちらを見ていた。暗い中でぼんやりと見える陸の顔は、いつものふにゃふにゃした何も考えてなさそうな顔より、ちょっと凛として見える。


「俺、早希と同じ街で、就職しようかな」

「なんで? 地元が好きだから、地元を選んだんじゃなかったっけ」

「地元は好きだけど。早希はもっと好きだから」


 ……。


「え」

「……驚いてる」

「驚い、た」


 驚いたという言葉がふさわしいのかも、わからない。私の思考は、今、停止している。


「驚くんだな、やっぱり。俺さ、早希と同じ大学に進学して、一緒に通学して、同じサークル入って、楽しくやれると思ってたんだよ。勉強もしたかったけど、それが俺の、ひとつの理想だったわけ」

「陸、」

「なのに、第一志望に受かった、とか言って。めっちゃショックだったわ、俺。早希はひたすら嬉しそうにしてるし」


 はあ、と再びのため息。陸は頭を上に戻す。


「せめて少しでも俺と離れるのを残念がってくれたら、俺の恋心も報われたのに。俺のことなんか、完全に眼中になかったよな」

「まあ……そのときは。ごめん」


 謝ることしかできなくて、もぞもぞと、くぐもった声で言う。


「俺、あれは失恋でカウントしてるから。俺の高校時代三年をかけた、苦い片思いの記憶」

「三年を?」

「なあ、まじで気づいてねえの?」


 私の驚いた声に、陸の驚いた声が重なる。


「私……陸に好きとか言われたっけ」

「それは、言ってない」

「じゃあわかんないよ」

「いや、でも周りには、ばればれだって言われてたんだけどなあ……」


 そう独りごちる陸の低い声が、波の音に混ざり、心地よく耳をくすぐる。


「告白されたつもりも、振ったつもりもないのに、勝手に失恋されてたんだね」

「なら早希、お前、俺が今、付き合おうって言ったらオーケーするのか?」


 変わらない声のトーン。なのにそれは、妙に真剣味を帯びて響いた。茶化してはいけないと思って、私は唾を飲み込む。

 今、付き合おうって言われたら? それは……。


「今は……だって、私は地元にいないから」

「ほら、そう言うだろ? やっぱり、お前が地元を出た時点で、それはもう、失恋だったんだよ」


 陸の言うことは、もっともだ。何も間違っていない。高校一、二年の頃ならまだしも、志望校への合格が決まった私は、地元に残る陸と付き合うことはなかっただろう。


「早希の大学に編入したら、俺、ストーカーかなあとか、思う」

「いや……わかんない……」

「実際、あの大学って、俺の興味ある研究をしてる研究室があってさ。まあそんなことも、まじめに考えたりする。非現実的なのはわかってるし、お前が気にするから、実行もしないけどさ……今でもけっこう好きなんだよ俺、早希のこと」


 言葉が真っ直ぐ刺さってきて、なんだか胸が締め付けられて、苦しいような感じがした。この苦しさは、陸が感じた苦しさなんだろうか。


「でも」

「何にも言うなって。俺、これ以上振られたら、傷つくから」


 今何を言っても、私の言葉は多分、墓穴にしかならない。言葉を呑んで、空を見上げた。風の音、波の音。そこに、心臓のどくどくする音が、加わる。さらに、どーん、と深く響く音。ぱらぱら、と軽く弾ける音。


「早希、花火だ」

「え? ……ほんとだ」

「今日、ナイターなんだよ」


 湾状になっている海岸の向こうの方で、赤い花火が上がる。青い花火、緑、色とりどり。大輪の花が咲いて、ぱらぱら、と細かく弾けて散っていく。


「ナイター、野球の?」

「そう。あのスタジアム、夜は花火を上げるんだ」

「へえ……」


 勢いよく上がった花火は、白い煙に変わって散り、そして余韻と沈黙が残る。


「……綺麗だったね」

「ああ。夜の海で、周りには誰もいない。花火。最高のシチュエーションだと思うだろ?」

「うん」

「これをさ、早希とやりたかったんだよ」


 何も言えなくて、私は黙った。嬉しいような、切ないような。私が彼の恋人であればそれは完璧だったのかもしれないが、実際そうではないし、遠距離になるのに、無責任にオーケーなんてできない。


「……満足した。帰るか」

「ありがと、連れてきてくれて」

「俺こそ。今日はありがとうな。良い思い出になった」


 帰り道の寂しさと、気まずさ。静かに暗い防風林を抜け、もう誰もいない公園を通る。駐輪場で自転車を取り、私は陸の後ろに乗る。後ろから見る陸の背中は、大きくて、砂だらけで、少し頼もしかった。砂を軽く払ってから、行きと同じように、陸の腰を掴む。


「駅まで送る」

「ありがとう」


 自転車は、進み始める。潮の香りが遠のいていく。


「……ごめんね、なんか私」

「いや……俺こそ、雰囲気に呑まれて、余計なこと言った。嫌だったよな、ごめんな」

「……ううん、嫌ではないよ。大丈夫」


 困ったけど、嫌ではなかった。今こうして二人乗りしていても、嫌悪感は何もない。


「……また帰省したときには、遊ぼうな」

「そうだね」


 もし、もっと早く、陸の気持ちに気付いていたら。今ここで、恋人として過ごす、別の道があったかもしれない。

 僅かに頭を下に向けると、陸の背中が近づいた。汗と柔軟剤が混ざったような甘い香りが、ふわっと漂う。


「……陸って、いい匂いするんだね」

「は? 早希お前、何嗅いでんの? やめろよ!」


 陸が動揺して声を揺らし、自転車ががたんと跳ねる。


「きゃっ」

「うわ、口に虫が入った!」

「えっ、虫?」

「今通った、街灯の下で」


 ぺっ、と陸は唾を吐く。振り向くとたしかに、街灯の光には、小さな虫がたくさん飛んでいた。


「うっわ、かわいそ……」

「気持ち悪い。もう出したけど」


 うえぇ、と濁った声。私たちの他愛もない会話を乗せた自転車は、川沿いの道を離れ、駅前の通りに入った。たくさんの街灯と、まだ活動するたくさんの人たち。飲み会帰りの赤ら顔したサラリーマンが通る横には、もうあの海岸の余韻も何もなかった。


「今日は、ありがと。本当に楽しかった」

「俺も。また連絡する」

「うん、また」


 互いに背を向け、歩き始める。振り向きはしない。改札を通り抜け、ポケットから、携帯を取り出す。画面には、いくつかの通知が出ていた。


『智子:陸とのデート、どうだった?』


 そのひとつは、部活の仲間からの、今日の首尾を問うもの。私は画面を開き、『普通に楽しかったよ』と返す。

 仲間内では、私が高校生の頃に彼に懸想していたことは、周知の事実だ。同じパートで、優しく後輩に教える陸を見て、憧れたのは高二の頃。そのあと入試勉強が始まって、それどころではなくなって、……今に至る。


 あのとき、どっちかが言っていれば、何か違ったのかな。


 考えても仕方ないことを考え、私は携帯をポケットにしまう。電車の窓から、外を見る。建物に隠されて、もう海は見えない。

 電車の規則正しい、音と揺れ。それに身を任せ、私は陸のいるところから、どんどん離れて行った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ