水たまりと月
ほとんど湯気のような雲が月を霞ませていた。車の窓から見える月はもう中天に近い。紗恵は後部座席の窓に頬を張り付けるようにして外を見ていた。高速道路なのだろうか、流れていく景色も水蒸気に似た雲も、タイムラプスの映像のようだ。膝にいる猫が欠伸をする。海苔を巻いた餅のようなこの猫を、紗恵はおにぎりと呼ぶ。近所のお兄さんがそう呼んでいるのを見ていた。ずっと見ていた。気づけば彼女も、おにぎりとしか呼びようがなくなっていた。なぜ野良猫であるおにぎりが紗恵と一緒に車に乗っているのか、彼女自身にも分からない。ただ、膝の上の重みが嬉しかった。ずっとおにぎりを飼いたいと思っていた。家におにぎりがいるということは、限りない喜びの可能性を秘めた空想の域を出なかった。それが今、車で実現している。彼女は満ち足りた気持ちでいた。
山並みが流れていく。点々と飛んだ水たまりの上をナメクジが滑っていく。深夜のドライブは快適で、車は全く揺れも重力も感じさせなかった。紗恵は乗り物酔いをしやすいほうだったが、妙な体勢で流れる水蒸気を眺めていても一向に胸に閉塞感を覚えなかった。
ふと、声が聞こえた気がして、紗恵は窓から身を起こした。車内には紗恵しかいない。依然としてひとりきりだった。もう一度雲を見ようとすると、今度はすぐ隣の座席から、くすっと笑う声が聞こえた。
「……紗恵、紗恵。そんなにかじりついて見なくても、月は逃げたりしない」
優しい声だった。はじかれたように振り返るとさゆりが座っている。白いワンピースがかすかに光を放っているかのようだ。涼しげな目元に、ほんのりと微笑を漂わせている。
「月を見てたわけじゃないの。あのね、雲がね、すごく低いところにあるの。湯気みたいなの。でね、高いところにも普通の雲があってね、光が」
一生懸命伝えようとする紗恵の肩に手が置かれる。紗恵は声をやめた。さゆりにたしなめられている気がした。紗恵は急に恥ずかしさに襲われるのを感じた。
「……光が?」
さゆりが優しく先を促してくれる。紗恵は耳まで熱くなった顔を伏せて、小さな声で続けた。
「月の周りに虹色の輪っかができてて、きらきらしてるのがきれいだと思って……」
うつむいてしまった紗恵の肩を、さゆりは優しくなでる。
「紗恵は賢いね。雲の高さが違うんだ。よく気づいたね。そっちの座席からは月が見えるんだ」
「さゆりのところからは見えないの?」
ちらりと目を上げると、さゆりはもう反対側の窓の外を眺めている。遠くに目をやって笑い、かすかにうつむく。顔にかかる髪を耳にかけ、その手で軽く頬に触れる。流れるように指先を顎まで持っていき、その手を伸ばして紗恵の頭をなでた。ふ、とさゆりの口元に笑みがにじんだ。
「あたしのほうからは山と田んぼが見える。――来る?」
紗恵が引き込まれたようにうなずくと、さゆりは流れるように紗恵の腕を掴んで自分の膝に座らせた。
「ほら、田んぼに月が映ってる」
田んぼにも水たまりを滑ったのと同じナメクジが滑っている。あれは月が映ったものだということが紗恵にも理解できた。山の低いところに、綿のような雲がうずくまっていた。
そういえば――と彼女は思う。そういえば、膝の上にいたはずのおにぎりはどこに行ってしまったのだろう。ふと疑問を抱いた瞬間、引き抜かれるようにして目が覚めた。夢だと気づくまでにしばらく時間を必要とした。肌に接した布団に湿気と熱がこもっている。成長するにつれて見なくなっていたはずのさゆりの夢を、近頃よく見るような気がする。
おにぎりを飼いたいと思っていた、の部分、二回くらい買いたいって変換しました。コンビニかな……?