見守っている
鳥の声を真似た電子音が交差点に響く。人混みに紛れて歩き出しながら、対岸から向かってくる人混みの塊を見た。揺れて砕ける人波の狭間に、見慣れた顔がある。特にこだわりもないらしいイヤホンで耳をふさぎ、うつむきがちに歩いてくる。彼はいつもその姿勢で歩いた。まるで自分と世界とを切り離すように、目線を上げることはほとんどない。だから彼女は、量産型のリュックがかかっている猫背がちの背中を追いかけるようなことはしない。いつも正面に、目の前に立つ。そうして彼が決して彼女に気づかないことを願い、同時に、常にその存在を忘れたりしないよう、内心で祈り続けている。
「わたしは、ここだ」
いつものように口の中で呟きながらすれ違う。いつものことながら、すぐ肩越しをすれ違う時は水の中に飛び込んだような感覚になる。ほかの物音が遠ざかり、粘りつくように時の進みが遅くなり、その一瞬だけ、息が止まる。
すれ違った一瞬を越えると、途端に正常な感覚に戻る。
背後のほうで靴音が妙に乱れた。人の体同士がぶつかる音がする。すみません、と小声で謝るのが聞こえる。歩みは緩めず肩越しに振り返ろうとしたとき、射抜くように音が聞こえた。
「……さゆり……?」
どん、と心臓に衝撃が残る。
彼女はとっさに振り返るのをやめ、横断歩道を渡り切った。人の流れが淀んだ場所に体を滑り込ませると、信号の向こうに流れていく背中を見送った。見慣れた背中だ。周囲とほとんど変わらないものを身に着け、珍しいような上背でもないのに背中を丸めている。そのなだらかな肩の曲線に、重そうにリュックのストラップが食い込んでいる。
声の主ははたして彼だったのか、彼女はじっと考えていた。何度思い返しても、聞こえてきた音の意味に気を取られてしまう。記憶を呼び起こしても、それが彼の声であったかどうかは定かにできなかった。しかし彼女は、ほとんど確信に近いほど、それが彼の発した音であると考えていた。なぜなら、「さゆり」という音には特別な意味があるからだ。彼にとっても、もちろん彼女にとっても。彼と彼女とがすれ違うその瞬間に、第三者がその音で割り込んでくるとはどうしても思えなかった。「さゆり」という音は合言葉だ。約束であり、運命であり、彼女は神を知らないが、まぎれもない啓示である。
彼女はすっと人混みから離れると細い路地に滑り込んだ。壁に身を預け、詰めていた息を吐く。
「いつも見守っている」
そう言って、遠くに目をやって笑い、かすかにうつむく。顔にかかる髪を耳にかけ、その手で軽く頬に触れる。流れるように指先を顎まで持っていき、考え事をするように腕を組んだ。それは彼女の癖のようなものだった。この癖の一部始終に釘付けになっていた幼い彼の視線も、刻み込まれたように覚えている。あの頃の彼は、猫背ではなかった。
今になって、彼女の身の内にじわじわと喜びが湧き上がってくるのを感じていた。彼はまだ、あの頃を覚えている。あの瞬間に、啓示があったことが何よりの証拠だ。
「忘れたりしてない」
彼女は呟いて、路地から出た。人と人の隙間を滑るように抜け、夜の気配が漂う横断歩道の前で、向こう側の信号が変わるのを待った。
彼女のやってることって普通にストーカーじゃないかなと思うんですけどね……フィクションなのでね……許してね……