ベンチとしりとり
猫が伸びをした。
「もう帰んの?」
答えず後ろ足で耳を掻く。その猫の背には黒い模様があった。白地に黒い大きな模様が一つ。しかも太っていて、おにぎりによく似ている。それで、佑二はその猫をおにぎりと呼んでいた。おにぎりは佑二によくなついていて、餌を持っていないときでもしばらく遊んでくれる。その代わり、飽きるとその日はもう一切構ってくれなくなる。そうなるのはつまらないが、慣れてもいた。
「なあって、もうおしまい?」
背中をなでると、伸びをしながらするりと逃げていく。終わりの合図だった。佑二は諦めて、ベンチから足を投げ出す。足首から先が日にさらされた。佑二が座った日陰のベンチはボロボロだったが、屋根があって雨と日差しくらいは防げる。そしてなにより、おにぎりのお気に入りの場所だった。つまり、おにぎりがいないとやることがない場所でもある。背もたれに勢いよく身を預けると、錆びかけた青のベンチが軋んだ。
蝉の声がしている。後ろには自動販売機が置いてあったが、ビールしか置いていなかった。夏休みだというのに、今日は遊び友達みんなもそれぞれ用事を抱えて家に帰っている。暇といえば、かなり暇だった。
「あっちー……」
首をのけぞらせると、かぶっていた帽子が落ちた。驚くほど心地いい風が頭皮をすり抜ける。目を閉じると、屋根があったのに太陽の残像が見えた。蝉の声がしている。
ぽん、と顔に軽く感触があった。驚いて目を開けると、帽子の裏が見える。帽子を持ち上げると、淡い色のワンピースが目に入った。
「なんだ、さゆりかよ」
「ほかに誰か待ってた?」
さゆりがベンチの後ろから佑二の顔を覗き込んでくる。その涼しい目元は感情に乏しく見えた。
「誰も待ってなかった」
さゆりはベンチを回り込んで佑二の隣に腰を下ろす。ふわっと、水のような匂いがした。
「わたし、遊べるよ」
顔を見返せば、さゆりはかすかに笑ったような顔をする。
「遊ばないの?」
重ねて聞かれ、佑二は力を込めて帽子を深くかぶった。
「遊ぶったって、さゆりはゲームとかしないじゃん」
「でも、ボール好きだ。鬼ごっこもかくれんぼも」
「えー、二人で?」
口をとがらせて、佑二は低い声を出してみせる。帽子はかぶったままだ。さゆりは少し、困ったように言葉をとぎらせる。
「……じゃんけんも好きだ。……しりとりとか……」
窺うような声の調子に、佑二は頬が緩むのを我慢できない。
「しょうがねえなあ、そんなに遊びたいなら遊んでやるよ」
帽子を少し上げて横目で盗み見ると、さゆりと目が合った。
「暇だったんでしょ。わたし、佑くんのことはいつも見守ってるから分かる」
そう言って、遠くに目をやって笑い、かすかにうつむく。顔にかかる髪を耳にかけ、その手で軽く頬に触れる。流れるように指先を顎まで持っていき、考え事をするように腕を組んで目を伏せる。いつものさゆりの癖だった。
蝉が鳴いている。猫のおにぎりが消えた日陰のベンチで、佑二は「さゆり」としりとりを始めた。さゆりが「りんご」と続ける。
蝉の声すら涼しくなるようなきれいな声を、今も覚えている。
おにぎりっぽい猫は見たことありませんが、だんごっぽい猫はよくいますよね。
ずっしりもちもちしてるやつ、愛いやつ……。