さゆり
話しているうちに、あたりはずいぶんと暗くなってきていた。細い路地にはひときわその訪れが早く、湿った空気に雨の匂いが混じっている。イヤホンからずっと流れっぱなしになっていた音漏れが、今になってやっと耳に入ってきた。佑二は、紗恵に謝ったきりずっと目をやっていた上着のポケットから音楽プレイヤーを探り出して音楽を止めた。音が消え、境界が消える。
「どんどん猫背になって、自信がなくなっていく佑二くんを見るのは辛かった……」
ずっと黙っていた紗恵が細く口を開いた。
「だけど、もしかして佑二くんはさゆりを忘れたからああなったんじゃないかと思ったとき、私もさゆりのこと、もうあんまり覚えてないことに気付いた。それは、もっと辛かった……。だから、さゆりになろうと思った。佑二くんがさゆりのことを覚えていてくれたら、きっと本当にさゆりはいたって私も信じられる……」
とうとう紗恵は顔を覆ってしまった。動かなくなってしまったその小さな姿に、佑二はどこか切ないような、憐れみに似た感傷を覚えていた。佑二はずっと、何かとのずれを埋めよう、進んでいこうとしながら、それでも抜け出せずにいたものがある。だから、どれほど必死になってもずれは埋まらない。紗恵は、佑二が振り切ろうとした場所に、望んで留まろうとしてきた。否応なく進む時の流れに逆らってきた。
紗恵は今も留まろうとしている。そこにいるのは、幼い頃の佑二であるとも言えた。しかし、逆らおうと抗おうと、時は進む。意志や、努力や願いには関係なく、佑二はもうさゆりがいたころの佑二ではない。紗恵も、もうさゆりがいたころの紗恵ではなかった。
「紗恵ちゃんは、さゆりのこと、もう何も覚えてない?」
紗恵ははじかれたように上げた顔を強く横に振った。佑二はかすかに笑ってみせる。
「俺も同じ。全部忘れたわけじゃない。それなら、俺が覚えてることと、君が覚えてること、二人の思い出があれば、少しは何か思い出せるかもしれない」
紗恵は半ば口を開いたまま、佑二を見ていた。
「さゆりのこと、これからは二人で覚えていよう。大事な思い出だから」
紗恵はゆっくりと目を見開いた。涙の名残が頬を転げ落ちた。
「……本当? 一緒に覚えていてくれる? 大事なさゆりのこと、いい加減忘れろってみんな言う……」
幼い子供のような言葉だった。佑二はそこに、紗恵の過ごしてきた時間の長さを見た気がした。佑二は小指を掲げる。
「うん。約束だ。さゆりに誓って」
紗恵は気後れしたようにそれに応じる。その遠慮がちの小指は、佑二と同じ温度をしていた。
「もう暗いし、帰ろうか。さゆりのことでも話しながらさ」
紗恵は頷いて、佑二の横に並んで歩き始めた。そういえばよくしりとりをしたな、と紗恵が言う。必ず「さゆり」って言葉から始めるの、という言葉を聞きながら、佑二はさゆりの癖を思い出していた。どうして紗恵が真似た癖と、自分の見慣れた癖は違ったのだろう。それもいつか、分かる日が来るのだろうか。
二人が出て行った路地に、いつの間にか白いワンピースの少女が立っていた。十七、八。肩上で切り揃えた細い髪に、切れ長の目元が涼しげだった。ゆったりと路地を抜け、二人が並んでいる後ろ姿を眺める。
「さゆり、りんご、ごりら、らっぱ……」
遠くに目をやって笑い、かすかにうつむく。顔にかかる髪を耳にかけ、その手で軽く頬に触れる。流れるように指先を顎まで持っていき、考え事をするように腕を組んで目を伏せる。
「ぱせり、りんぐ、くずゆ、ゆうくん」
少女の顔にふわりと笑みが浮かぶ。人工の光が照らす道で、少女はしばらくそこに佇んでいた。あたりはいつの間にか夜へと変わっていた。かすかに細い雨が降り始めていた。
一年間ありがとうございました!
これにて完結です。




