紗恵と佑二
岡本紗恵、と佑二は呟いてはたと目を上げた。
「岡本商店の?」
紗恵は頷く。岡本商店には佑二もよく行った。そこの一人娘は変な子で、いつも宙に向かって誰かとおしゃべりしているなどの噂を耳にしたこともある。何度か見かけるくらいはしたはずだったが、あまり覚えてはいなかった。正直にそう言うと、紗恵はかすかに首を振った。
「それはそうだよ。佑二くんと私じゃ、学年は五つ違うし。だけど、佑二くんも時々さゆりと話してるのは知ってた」
それを隠れて見ていた、と小声になって、紗恵は苦笑する。
「今も昔も、やってることが変わらない」
何を思っているのか、紗恵の苦笑にはどこか懐かしむような響きがあった。
「誰に話しても、誰もさゆりを知らなかった。佑二くんになら、大好きなさゆりの話ができると思った。佑二くんが、私が覚えてる限り、さゆりは絶対にいたし、今もきっとどこかにいて、見守ってくれる」
震えの混じり始めた声を聞いて、佑二は確信に近い直感がしみ込んでくるような気がした。おそらく、さゆりはもういないのだ。それを紗恵も分かっている。分かっているからこそ、忘れることも、さゆりを演じるのをやめることもできない。
さゆりがもういないという直感は、思いのほか重みをもって佑二にのしかかった。もうきっといないのだろうとは思っていた。しかし、どこかでそれを確信してはいなかった。曖昧なはずのものが、明確に答えを突き付けてきた。佑二はかすかな痛みをため息でやり過ごした。
「どうして今までずっと話しかけてこなかったの?」
「さゆりが駄目っていうんだもん」
佑二は瞬く。紗恵は確かに佑二よりも年下ではあったが、今の言葉はそれ以上に幼さがあった。二十歳そこそこの、それもさゆりに似せた姿でのこの言葉は、取ってつけたような違和感があった。
「もん、って言われても……なんで?」
「さゆりのことは秘密なんだって」
ああ、と佑二は呟いた。
「確かにそんなこと言われたような気がするな」
湿った空気が揺れていた。だったら紗恵はなぜ今になって声をかけて来たのか、気になっていた。しかし、質問攻めしているような気がして気が引けた。それて佑二は黙っている。
さゆりの匂いがしている。だが、これはさゆりの匂いではないのだろう。空が曇っており、空気が湿って、そしてさゆりはもういない。本当に、ただ、雨が降りそうなだけなのだ。
そういえば、と佑二は思う。そういえば、近頃さゆりのことを思い出すことが増えた。ここで出会ったのも、紗恵を追いかけてのことだ。紗恵は佑二が思っている以上に、頻繁に視界に入っていたのかもしれない。さゆりを彷彿とさせるその姿で。そう思うと、紗恵の言葉尻に滲む幼さに何となく納得がいくような気がした。紗恵は必死なのだ。さゆりはもういないことをどこかでうすうす気づいていながら、それでもさゆりを失うまいと、必死なのだ。だから、さゆりになろうとし、さゆりと遊べていたころの自分でいようとする。
同じだ、と思った。紗恵と、佑二は同じだ。
締め切りというものはかくもおそろしきかな。




