取り残される
特にこういう夕方には取り残されている感じがしていた。残照が赤くもなく、ただ太陽の光が薄れていく夕暮れ時は、昼に取り残されていくような気分に陥ってどうにもやりきれない。
彼はイヤホンから流れてくる音楽を頼りに歩いていた。イヤホンの中は世界が完結している。どこにいてもイヤホンさえあれば、境目が消えかけた自分と世界とをきちんと線引きしてくれる。別に大きな音でなくてもいい。周りの音にかき消されない程度の音量があれば十分だった。彼は音楽が好きだったが、好んでいるという以上の熱はなく、外界を遮断して音楽の世界に没頭したいという思いもなかった。ただ、音で満ちた空間を作ること、そうすることで自分の範囲を保つことが大事だった。言うなれば地面に線を引いて領地を作る子供と同じだ。ここから先、入ってきたら罰金だからな、その程度の気休めに助けられている。
ただ少し困るのは、時々、取り残されていく感覚があることだった。世界に混ざって自分が分からなくなる心細さよりはましだったが、いつも街に取り残されている。ごく静かな夕暮れには昼にも街にも取り残されている気がする。それこそ、今日のような夕方には。毎日同じように日が昇り、同じように沈む。街もそうだ。同じことを繰り返す。彼だけは、同じようなことを繰り返すふりをして、少しずつずれていく。自分の世界を保っているわりに個人を確立した気が起こらないのは、いつもそうして彼だけが取り残されているからだと思っていた。
少し前に信号が赤に変わっていた。彼は交差点の手前で止まる。人が多かった。
彼はふと幼少期の友達のことを思い出していた。彼がまだ五歳そこそこの、小学校に入るか入らないかのときの友達だ。誰もいないときにふらりと現れて、いつの間にかいなくなっている。不思議な友達だった。ワンピースがよく似合う女の子で、歳は知らないが、彼よりずっと年上だったと思う。いつの間にかすっかり会わなくなってしまった。今思えば、あれが俗に言うイマジナリ―フレンドだったのかもしれない。いつも彼の遊び相手になってくれた。口調は不愛想だったが、決して冷たい人ではなかった。よく笑い、優しかった。あの頃は彼も社交的だったものだ。知らない友達とだって遊べた。それこそ、イヤホンがなくても自分の世界があった。あれくらいの広さが、彼には合っていたのかもしれない。今は背伸びしすぎ、世界を広げすぎた。
信号が変わる。鳥の声に似せた電子音が鳴り始め、人波が動き出していく。スクランブル交差点はいつも苦手だ。人の塊が押し寄せて、何となく崩れ、何となくぶつかる。そのリズムの中に自分を紛れ込ませることには、強い注意が必要だった。目まぐるしく現れる人を避け続け、わずかに開いた隙間を縫って足を踏み出す。
中断したはずの思い出がまた蘇ってきた。ワンピースの裾、襟足で切りそろえた細い髪。
その思い出の姿と、すぐ肩口で、すれ違った。そんな気がした。
彼は目を見開く。ぱっと振り返った瞬間に、すぐ後ろのサラリーマンがぶつかってきた。急に止まったのは彼だ。流れをせき止めたように、その後ろの数人もぶつかったり体をひねって避けたりしている。彼は歩き出しながら小声ですみません、と謝った。
歩いていく彼の耳の中で音楽が鳴っている。
「……さゆり……?」
呟きが音楽と混ざっている。
今年の連載もよろしくお願いします。